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(回答先: オイオイ、どうでも良いけど、参照は不適切でしょう。 投稿者 考察者K 日時 2008 年 2 月 23 日 20:00:18)
ありゃ。どうも失礼しました。
当為と存在の混同というのは一般的な傾向で、しかも、指摘されても分からない人が多い。
という趣旨に合致するような例を googleで捜したら、ちょうど良いのが見つかった。そういうしだいです。よく見ればKさんの話だったんですね・・。失礼しました。
* 当為と事実の混同が生じる原因は、言語体系の問題もあるような気がしている。たとえば「みとめる」という語には「承認する(当為)」と「認識する(存在)」の両方の意味が含まれている。英語のjustでも日本語の「ただしい」でも、倫理的に正しい(当為)の意味と、存在認識として正しい(存在)の両方の意味で使われている。そのような言語体系上の混同が、人々の思考様式に影響を与えているのではないか。
でですね。まー。昔の話を蒸し返すのは何ですが、一応、この例が「当為と存在認識の混同というのは一般的な傾向」を示すのにぴったりである。ということだけ説明しておきます。
−−
バランス感覚の欠如が「正直者が生きられない社会」を作る。
http://www.asyura2.com/07/idletalk22/msg/664.html
投稿者 考察者K 日時 2007 年 2 月 18 日 10:11:06: JjkI8nWTpj0po
スレッドのトップは『バランス感覚の欠如が「正直者が生きられない社会」を作る。』ですが、これは事実認識の内の「事実Aなら事実Bになる」という《事実》相互の因果関係の主張です。
それに対して
Re: バランス感覚の欠如が「正直者が生きられない社会」を作る。
http://www.asyura2.com/07/idletalk22/msg/685.html
投稿者 まとはずれのおせっかい 日時 2007 年 2 月 19 日 14:29:10:
>まじめなものが馬鹿を見なかった社会が、過去あったのでしょうか?
は「事実Bは常に存在する」という《事実》に関する主張です。《事実》の主張に対して《事実》の主張で反論しています。それがまっとうです。
(事実Aとは無関係に、常に存在する。従って、因果関係はない、という反論)
ところが、次の
Re: バランス感覚の欠如が「正直者が生きられない社会」を作る。
http://www.asyura2.com/07/idletalk22/msg/690.html
投稿者 考察者K 日時 2007 年 2 月 19 日 21:06:50: JjkI8nWTpj0po
>今より「少しでも正直者が報われる社会」を目指すべきだろうという意味において、この意見には意味がないだろうという事です。
では、《事実》の議論だったはずが、いつのまにか、『「少しでも正直者が報われる社会」を目指すべき』という《当為》の主張にすり替わっています。しかも、その《当為》の主張を前提として、《事実》に関する主張を否定しようとしている。
それで、次の指摘に繋がるわけです。
論点のすり替え:事実認定から、当為論、そして可能性へ
http://www.asyura2.com/07/idletalk22/msg/703.html
投稿者 まさちゃん 日時 2007 年 2 月 20 日 16:35:29: Sn9PPGX/.xYlo
というわけで、この参照は「当為と存在認識の混同というのは一般的な傾向で、しかも、指摘されても分からない人が多い。」ということの説明のために最適なのであります。