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ワークフェア(Workfare)とベーシックインカム(Basic Income)
吉原直毅
一橋大学経済研究所
2007年4月18日
1. ワークフェア
ワークフェアとは、生活保護、医療費保護などからなる「福祉」(welfare)の受給者に対して、一定の就労を義務づけ、給付を労働の対価とすることによって、その精神的自立を促すと共に、就労を通じて、招来の経済的自立の基盤たる技術・技能を身に着けさせようという公的扶助に関する改革理念であり,制度である。もともとは米国ニクソン政権下におけるAFDC(要保護児童扶助)改革に際して,造語されたと言われる。代表例として,米国クリントン政権下の96年8月の「個人責任及び労働機会調和法」が挙げられ,AFDCの廃止とTANF(貧困家族一時扶助)の導入を求めた。それによると,各州は2002年までに受給者の5割を週30時間以上就労させなければならず,通年5年以上の受給は認められない。こうした基準を達成できなかった州は連邦のブロック補助金を減額される。他方,職業訓練などの積極的労働市場政策への支出は北欧などと比して少ない。その他,イギリスのブレア政権に代表される「第三の道」路線(“Welfare to Work” 働くための福祉)などが,典型例であり,日本においても2006年4月に施行された「障害者自立支援法」など自立的支援制度・運用の見直しが検討される一方、生活保護費の削減や老齢加算や母子加算の「就労支援」を条件とする3年段階的廃止などの動向も,福祉政策のワークフェア化として整理できよう。
1.1. ワークフェアの背景としての「新自由主義」(neo-liberalism)的な福祉国家(welfare state)再編
労働・福祉政策に見られるワークフェアの導入の背景には,「経済のグローバリゼーション」があり、それを背景とするケインズ主義的福祉国家システムの危機と「新自由主義」的な福祉国家再編の動向がある。それは経済的自由競争を重視し、規制緩和や市場の競争ルールの整備を進める一方、社会福祉や教育など従来公共部門が担ってきたものを民間へと移して「小さな政府」を作り、「民間活力」による経済的効率やサービスの向上を図る路線である。これは,所得再分配メカニズムの変換としての特徴も持っていて,日本では法人税(97年度37.5%から98年度34.5%、99年度30%)・法人事業税(97年度12%,98年度11%,99年度9.6%)等の減税、所得税(98年度50%から99年度37.5%)・住民税(98年度15%から99年度13%)の最高税率引き下げ、研究開発減税(研究開発促進税制)(03年度)、有価証券取引税の廃止(99年度)、配当所得(03年度)への減税、等々の大企業や高所得者層への優遇的な減税の実施や,他方での上記のような生活保護費の削減や老齢加算や母子加算の廃止などによる,結果としての「福祉削減」に見出される。労働市場の規制緩和や非正規雇用比率の拡大の下での民間給与総額の減少という傾向と相俟って、こうした政策動向は,社会的にも「格差社会」として認知されるに到る現象を生み出すのに寄与する側面もあった。
1.2. ワークフェアの規範理論(normative theory)
上記のような「格差社会」化の下でもワークフェアが是認される規範理論的根拠は何であろうか?第一に挙げられるのは,単純な「働かざるもの食うべからず」という思想である。また,無条件な公的扶助による支給は,福祉受給者の将来的な経済的自立への意欲をむしろ阻害し,福祉的受給依存者を増やすだけであるというモラル・ハザード(moral hazard)問題の指摘や,受給資格を偽ってでも扶助措置にフリー・ライドする誘因を与えるという逆選択(adverse selection) 問題の指摘による正当化である。こうした誘因問題(incentive problem)は,その適切な解決の処方箋を誤れば最終的に扶助システムの成立・再生産自体が困難になるという危険を孕むだけに重要な視点である。しかし,それらは誘因両立的な福祉政策の制度設計の問題であって,ワークフェアがこうした問題の最適解であるか否か,また,ワークフェアに代替的な福祉政策であって,誘因問題に対しても有能な制度設計が不可能なのか否か等は、論争含みのオープン・クエスチョンであろう。
ワークフェアの導入は「新自由主義」的な福祉国家再編の一環としてなされている以上,こうした再編路線自体の規範理論的根拠が問われるべきだろう。そのようなものとして,伝統的な厚生経済学(welfare economics)の前提する経済的厚生主義(economic welfarism)が挙げられる。経済的厚生主義とは、社会的厚生ないしは社会的福祉というものを,貨幣的測度で評価可能な、市場化可能な経済的財・サービスなどの消費から得る主観的選好の充足度としてのみ理解された個々人の福祉の総計,すなわち貨幣換算可能な経済的便益の総計として理解する立場である。
経済的厚生主義に基づく代表的規範基準として,パレート原理(Pareto principle)がある。これは,既存の社会状態Xから社会状態Yへの政策的移行によって、社会全構成員の消費に関する主観的充足度が改善されるならば,その政策を是と判断する事を要請する。この基準自体は,比較的自然な中立的要請と言えるが,この原理の拡張的適用を意図する「仮想的補償原理」(hypothetical compensation principle)が,ワークフェアのもっとも適切な規範理論的正当化を与えると言える。「仮想的補償原理」は,既存の社会状態Xから社会状態Yへの政策的移行によって、個人1は改善されたものの、個人2は悪化した際に、個人1から個人2への何らかの所得移転による補償を仮想的に構想する。仮想的移転の結果として社会全構成員の選好充足度が改善されるならば,仮想的移転の現実的遂行の有無に関わりなく,その政策を是と判断する事を要請するのである。この原理に基づく政策評価は、一定の条件下では実は、国民所得テストに基づく政策評価と同値になる。すなわち,国民総所得が多くなる政策ほど望ましいという評価になるのである。
こうした評価は,総所得の分配状態とか,所得を生かして人々がどう生き得るか,という問題には無関心であり,国民国家の国際競争力の維持強化や,経済成長の促進に主要な関心を払う。しかし,確かに福祉の絶対水準を維持する為には,国際競争力も経済成長も必要条件であるが,十分条件ではない。障害者や生活保護者の「自立支援」も,経済成長の阻害要因になるから就労を条件づけるというロジックではなく,「自立」的生活の固有の価値についての深い洞察に基づいて初めて評価を考えるべきなのである。
2. ベーシック・インカム
ベーシック・インカムとは、通常の最低所得保証制度に対して「就労に基づく給付」の条件づけを要請するワークフェアとは対極にある代替的福祉制度構想であり,無条件給付を特徴とする。すなわち,それは当該社会の政府によって全ての社会の構成員に賦与される所得であり、(1)その個人が労働市場に参入して、就労する意欲を持っているか否かに関わり無く、(2)その個人が富者であるか貧困者であるかに関わり無く、(3)その個人が誰と住んでいるかに関わり無く、そして、(4)その個人の居住地域がいずれかであるかに関わり無く、支払われるものである。これは,日本の生活保護制度などの最低所得保証制度と以下の点で異なる。最低所得保証制度における福祉受給者は、(1)疾病や何らかのハンディキャップのためにそもそも就労する事が出来ないか、もしくは就労する意思を持っていながら失業などのため、現在就労していない旨を証明しなければならない(ワークテストの存在)、(2)国からの受給に値するほどに、十分な所得の源泉を持たない旨を証明しなければならない(資力調査の存在)、(3)受給に値するとしてもどの程度の受給に値するかは、その個人の属する家計構成、及び、その個人の居住地域の特性に依存して決定される。
またベーシック・インカムは、ミルトン・フリードマンなどが提唱したいわゆる「負の所得税」(negative income tax)とも、主にその手続き的性格において違いがある、とされる。すなわち、第一に、ベーシック・インカムにおいては一定の所得が全ての個人に事前に与えられ、その上に各自が自由に所得を増やすべく経済活動をする事が可能であると考えられるのに対して、負の所得税は勤労所得額が一定以下の場合に限って事後的に給付される。第二に資力調査の実施を伴う負の所得税に比して、ベーシック・インカム政策はその行政的執行費用の面で安上がりである事が期待され、ひいては給付の維持可能な水準がより高くなる事が期待される,と理解されている。
2.1. ベーシック・インカムの規範理論的基礎としてのリアル・リバータリアン
ベーシック・インカム政策を正当化する為の規範理論的基礎付け、並びにその経済的資源配分メカニズムとしての性質に言及したのが,ヴァン・パレース(Van Parijs (1995))である。パレースは、「個人がしたいと欲するであろうどんな事であれ行う自由(the freedom to do whatever one might want to do)」が保証される自由な社会を「公正な社会(just society)」と考える。ここで言う個人的自由では、他のいかなる主体の行使する強制や脅迫・暴力による個人的行為への制約からの自由という、単なる形式的自由(formal freedom)のみならず、個人が実際にどの程度、為す事が出来るか、為したい事の実現手段をどの程度、確保しているかにも関わる実質的自由(real freedom)をも視野に入れられる。そして、実質的自由を全ての個人に出来るだけ多く与える事(real freedom for all)こそが、自由な社会の条件であると主張する。それは、以下の3条件によって、より精密に規定される。すなわち、第一に、強制や暴力などによる侵害なしに諸権利がうまく執行されるような構造が存在すること(権利に関する安全保障の確立) (rights security)であり、第二に、その構造の下で、個人の自己所有権(self-ownership) の確立であり、第三に、以上の2条件の制約の下で、各個人は己が為したいと欲するであろうどんな事であれ、それを為すための最大限可能な機会が保証されていること(機会集合のレキシミン配分(leximin assignment of opportunity sets))である。
パレースは3条件の間に次のような辞書的順序をつける。すなわち、第一の条件(権利に関する安全保障の確立)を第一次的に優先し、第一の条件の制約下で最大限の自己所有権の確保が要請される。また、上記2つの条件の優先的達成の下で第三の条件の達成が追求される。このような3つの条件を満たす「自由な社会」として「公正な社会」を規定する立場を、パレースは「リアル・リバータリアン」と称した。こうした規範理論に基礎付けられて、実質的自由の社会を実現する制度的構想とされるのが、ベーシック・インカムである。
2.2. 経済的資源配分メカニズムとしてのベーシック・インカムの特徴
経済的配分メカニズムとしてのベーシック・インカムは、天然資源などの外的資源が経済的活動を通じてもたらすレントを第一次的財源とし、安全保障と自己所有権の確保という制約の下で、もっとも不遇な個人の機会集合を最大化するように所得を配分することとして定義される。ここで問題になるのは、機会集合とはいかに定義され、その大きさをどう測定するかであり、これは「もっとも不遇な個人」をいかに同定するか、という問題に関わってくる。こうした問題に対して、パレースはベーシック・インカム制度が実現すべき資源配分の基準として、「非支配的多様性(Undominated Diversity)」基準の採用を提唱した。非支配的多様性とは、ある初期賦存状態に関して、社会の全構成員が一致して、ある個人の初期賦存よりも他の個人のそれの方を強く選好するならば、この初期賦存は不公正な分配であると判断されるべき事を要請する基準である。
こうした性質を満たす資源配分の遂行が果たして、市場プラス再分配的税制によって分権的に遂行可能か否かはかなり論争的課題である。また、仮に遂行可能であったとして、実現される資源配分が経済的効率性と矛盾しないか否か、あるいはどの程度の効率性のロスと代替関係にあるのか、という重要な経済理論的問題がベーシック・インカム構想には存在している。また、国民国家間での経済的国際競争が現実として存在する限り、より包括的な再編的福祉国家の構想としては、パレース自身認めるように、ベーシック・インカム制度だけでは不十分であって、積極的労働市場政策の採用が不可欠であろう。
参考文献
Van Parijs, P. (1995): Real Freedom for All: What (if Anything) can Justify Capitalism, Oxford University Press, Oxford.
後藤玲子・吉原直毅(2004) 「『基本所得』政策の規範的経済理論――『福祉国家』政策の厚生経済学序説――」, 『経済研究』第55巻第3号, pp. 230-244
吉原直毅(2006)「『福祉国家』政策論への規範経済学的基礎付け」『経済研究』 第57巻第1号, pp. 72-91.
http://www.ier.hit-u.ac.jp/~yosihara/rousou/ronsou-13.htm
※コメント:
要するにベーシックインカムとはジンテーゼを補強する概念なのであろうが、
日本の場合そもそもアンチテーゼ段階に止まっているため時期早々な感は否めない。
福祉国家の多い東欧ですら達成されていないというのに日本が二足飛びで達成できるワケない。
どうやら、かなり長期的なスパンで議論した方が良さそうだ。
当然のところながら「移民問題」などにも波及するだろう。
ベーシックインカムに対象に「移民」が入るのか、とか。大議論になっちゃうよな。