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(回答先: 国家主義・右傾化に執着するメディア—露骨さ増す産経・読売の論調@【日本ジャーナリスト会議会員 桂 敬一】 投稿者 gataro 日時 2008 年 4 月 29 日 08:46:38)
http://www.masrescue9.jp/media/katsura/katsura31_2.html から転載。
国家主義・右傾化に執着するメディア
—しだいに露骨さ増す産経・読売の論調—(2)
日本ジャーナリスト会議会員 桂 敬 一
◆危ない「空気」をつくって自粛を増殖させるメディア
読売は元来、「慰安婦の強制連行はなかった」派で、終始一貫、「なかった」論のキャンペーンに励んでいる。
いい例が、2007年3月27日付朝刊に1面を費やして掲載した「基礎からわかる『慰安婦問題』」だ。従軍慰安婦は、公娼制度の「戦地版」で、みんなカネ目当ての商売女だった、とする論を延々と展開している。
したがって、政府が1993年8月4日、「河野洋平官房長官談話」を発表、慰安婦問題に対する公式見解としたことは、返す返すも無念でならないといった思いを、しばしばさらけ出してきた。
いってみれば、今回の社説も、「靖国」中止はいかんが、櫻井氏講演中止もいかんと、なんのことはない、この機会を利用して、年来の自分たちの主張宣伝に大きな機会を与えるべきだ、と抜け目なく、念押ししているわけだ。
そして、社説は最後に、全国13の映画館が上映を予定と紹介したあと、「映画館は、不測の事態が起きぬように、警察とも緊密に連絡を取って対処してもらいたい」と結ぶが、この最後のひと言も、気に入らない。
上映中止を翻し、やはり上映しようと、多くの映画館が勇気を取り戻せたのは、観衆となる全国の市民の応援で広範な映画関係者が奮起、脅しには屈せず、断固たたかうとする姿勢を鮮明に示したからではないか。
メディアの多くもその動きに激励を送っている。このような状況が生まれてきたからには読売も、13の映画館に対して、危ないから警察に保護を求めて「不測の事態」に備えよ、などというのでなく、いまや上映の行方を国民全体が見守っている、あらゆる表現者が不当な妨害に反対している、なにも恐れず、多くの人がこの映画をみる機会に恵まれるよう、上映の先陣を務めてくれ—読売新聞も全力を挙げて応援する、というべきではなかったのか。
そういわずに、まず真っ先に警察の保護を仰げなどというのは、言外に、お前たちは危ないことをやるのだから気を付けろ、ヘマしたら自分の責任だぞ、といっているようなものではないか。
これでは、この社説を読むものに、やっぱり「靖国」は危ないんだ、興味はあるんだけれど、みにいって映画館に襲撃する連中がきたら、巻き添えになるかもしれないから止めておこう、と思わせるメッセージを送るようなものだ
警察のことを口にするのなら、「警察は上映期間中、当該映画館の周辺警備を怠らず、これに対する襲撃はもちろん、外部での街宣車による騒音妨害、来館者へのいやがらせなども未然に防止、表現の自由と国民の知る権利の完全な擁護に努めよ」と述べるべきなのだ。
そういう語り口をもたず、建前上は表現の自由の大切さをいうものの、その自由を自分も一緒になって本気で守る、とする姿勢を示さないのでは、市民は、そういうメディアを信頼できず、かといって自分ひとりでは自由に振る舞う自信もなく、とにかく安全第一、危ないこと、ヤバイところには近づかないのが一番、という空気が広がっていくだけだろう。
いや、読売のこのような社説は、巧妙にそうした空気をつくり出し、本当の自由への接近を躊躇させる自粛を、市民のあいだに増殖させようとしているのではないか、と疑わせるところがある。
4月18日付朝刊は、また1ページを費やして「基礎からわかる 映画『靖国』問題」を特集した。作品の内容、上映中止が起こった経過、上映の今後の展開の3点について詳細な考察を試みる。
だが、「混乱が広がっている」「着地点は見えない」とする書き方に止まっており、やけに無機的な中立の姿勢を保つだけだ。
ことは表現の自由に関する問題である。自分はこう考える、とする方向性を示さないのでは、どう考え、なにを理解しろというのか、読むものにとってまるで参考にならない。
◆立川・イラク反戦ビラ有罪判決を支持する産経・読売
ある種の「空気」をつくり出すうえで見逃せないのが、立川の自衛隊官舎に対するイラク反戦ビラの配布を有罪とした最高裁の判決だ。
ビラ配りは市民の表現の自由として認められている権利だが、これに対して生活の平穏の権利を妨げることは許されない—不法行為とみなす、とする判例ができたのだ。官舎構内立ち入り禁止・ビラ配りお断りの看板があるのに官舎内に立ち入り、ポストにビラの投げ込みをやったことそれ自体はすべて不法行為とはみなしていない。
配達ピザ、不動産サービスなどのビラ、チラシは、受け取る側が平穏な生活を妨害されたとは思わないからだ。ところが、「ビラには、『殺すのも殺されるのも自衛官です』などと書いてあった。官舎に住む自衛官やその家族が読んだ時の精神的苦痛も決して軽くはないだろう。それを考えれば妥当な判決である」というのが読売の判決支持の言い分である(4月13日社説「一つのルールが示された」)。
酷い話だ。ビラ配布の行為でなく、その内容が受け取ったものに精神的苦痛を与えるか否かで、有罪か無罪を決めるのが「妥当」であり、ルールにできる、というのだ。
ビラの内容とは表現そのものではないか。これでは、配布前から受け取る相手の好き嫌いを考慮しなければ、ビラ配りもできないことになる。嫌なものは破棄すればすむことなのに、なんで表現全体の自由を束縛しなければならないのか。
読売は、その矛先がいつの日か、自分に向かってくる危険を想像しないのか。産経「視点」(4月12日)はこの点をあえて無視、「判決はビラの内容は判断していない。裁かれたのは・・・(官舎)管理者の意思(立ち入り禁止の看板設置等)を無視した被告の立ち入り行為にすぎない」と強弁する。
しかし、実際には「第一に、商業ビラも投函されていたのに刑事責任を問われていない。・・・第二に・・・被告らが敷地内にいたのは約三十分。静けさを害したとはいえないだろう。当時、宗教の勧誘をする部外者が居室前で面会を求めていた。・・・第三に、住宅管理者や居住者の意思を無視したのかどうか。ビラを配った一人は、居住者に抗議されてすぐビラを回収している。ビラに書いてある連絡先には防衛庁関係者から何の抗議もなかった」「被告らは七十五日間も拘置された。・・・目に余る強引な捜査ではないか」と北海道新聞の社説は指摘、「最高裁の判決は、微罪に乗じて言論を封殺することにつながらないか」と、真っ向から批判する(12日社説「危うさ残す最高裁判決」)。
東京新聞「自由を萎縮させるな」(同前)、神奈川新聞「憲法の番人の役割放棄だ」(同前)も、同様の批判を最高裁判決に向けた。これらの原則的な地方紙と比べ、ある種の傾向の言論・表現行為は危ないんだ、とする国家機関による空気づくりに協力する読売・産経の物欲しげな姿勢は、恥ずべきものだ。
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