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貧困をイデオロギー問題として捉えた日本の不幸
辻広雅文(ダイヤモンド社論説委員)
【第4回】 2007年11月28日
人には、見たくないものは見えない。見ようと努力しなければ、見えてこない。
「ワーキングプア」や「ネットカフェ難民」が流行語になったために、日給、時給で得た数千円を握り締め、日々綱渡りのようにネットカフェで暮らす若者、中高年の存在が知られるようにはなった。
住居を持たない彼らは、体調を崩せばたちまちホームレスとなってしまう貧困層もしくはその予備軍といっていい。
では、彼らは、労働人口の3分の1を占める非正規社員1670万人のうち、いったい何人いるのだろうか。
なぜ、“まともな職業”に就けなかったのか。低学歴ゆえなのか。
それにしても、家族の支えを失い、公的保護も受けられずに現代の貧困層に転落したのは、いかなる経緯からなのだろうか。
要は、本人の努力不足という自己責任に帰す問題なのだろうか。
それとも、ポスト工業化社会、グローバリゼーションによる産業社会の変化がもたらした構造問題なのか。
実態は、ほとんど何も分かっていない。
最大の原因は、日本政府が1966年に貧困層の調査を打ち切り、再開していないことにある。議論の土台となるデータがないのだ。
政府、というより私たち日本人全員が、戦後の困窮期を抜け、高度経済成長を経て、豊かな社会実現した自負からか、もはや貧困はないものとしたのである。
もはや遠い日本の昔か、アジア、アフリカなどの遠い地域にしか存在しないのだと思い込んだのである。
だが、それは見たくないものを見ないようにしただけのことだった。
「現代の貧困」(岩田正美。ちくま新書)によれば、実は、先進諸国、OECD諸国は、実現した豊かな社会、福祉国家に存在する貧困層を執拗に“発見”し、救済してきた。
彼らを、あってはならない状況に置かれていると認識し、その存在に目をつぶらずに来た。彼我の差は、社会運動としての歴史あるいは社会運動を支える層の厚みの違いといえるだろう。
何より、共和党のブッシュ大統領であれ、労働党のブレア前首相であれ、先進諸国の指導者たちは、貧困は撲滅すべき対象だと明言する。
貧困は右も左もイデオロギーを超えて解決すべき問題だという認識が、国際常識なのである。
それが、日本にはない。近年の歴代首相が貧困撲滅を公式非公式の場で発言したなど、聞いたことがない。
なぜだろう。おそらくは、日本において貧困問題が、イデオロギー問題として捉えられてきたからだ。共産党だけが指摘、救済を叫んできたために、左翼的言説を嫌う右派、中道派が避けてしまったのである。
視点を変えよう。貧困問題は格差問題の延長線上にはあるが、質的に異なっている。
例えば、年収1000万円と800万円、300万円と100万円では、所得格差は同じ200万円である。
さまざまな考え方があるが、格差は努力の違いの結果であり、それが生じることで社会が活性化するという考え、格差の是認もありえる。だが、年収100万円では暮らせない。
彼はあってはならない状態にいる貧困者で、社会は存在を是認してはならない。
今年1月、「論座」(朝日新聞社)に「丸山真男をひっぱたきたい〜希望は、戦争〜」という31歳フリーターの投稿論文が載った。
自分たちフリーターには守るべきものなどないもない。それなら、戦争を起こして守るべきものを持つ人々がそれらを失うことで平等になりたい、溜飲を下げたい、という内容だった。
彼らをあってはならない状態に放置すれば、社会はいずれ分裂、不安定化する。多大な社会コストになって跳ね返ってくる。
貧困層の再発見は、貧困層のためだけではない。
http://diamond.jp/series/tsujihiro/10004/