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(回答先: 原田武夫 「幻のレーダー“ウルツブルグ”が私たちに教えるもの 」 投稿者 新世紀人 日時 2008 年 12 月 04 日 15:35:46)
http://www2.u-netsurf.ne.jp/~ikasas/radar/jprdf02.htm
日本がレーダー開発を始める
レーダー開発組織
英米は科学技術を国防に集結させる体制を早くから整えていた。英国は1934年に英国空軍省科学研究部部長のウィンペリスが,『防空のための科学的調査委員会』を設立した。米国は1940年にカーネギー研究所所長のブッシュがルーズベルト大統領に設立を提案した『国家防衛研究委員会』が実現して,ここが中心となってレーダの開発を進める。
日本でも科学技術を国防に動員することが必要と考えられていた。1941年(昭和16年)1月10日,日本政府は「国土防空強化に関する件」を閣議決定する。
「航空機の発達に伴ひ直接国内要衝に対し絶大なる武力戦的破壊行為を恣らするに到り,他面我が国防空態勢の現状は不備欠陥頗る多く,加ふるに都市の対空禍脆弱性大なるものあるに鑑み高度国防国家態勢確立の為速かに国土防空の強化を図る。」
と日本本土の防空体制が非常に脆弱であることを認識していた。続いて「防空研究の統制と防空研究に対する各省の積極的協力」が決まり,5月に「科学技術新体制確立要綱」が閣議決定される。その目的は,
「高度国防国家完成の根幹たる科学技術の国家総力戦体制を確立し科学の画期的振興と技術の躍進的発達を図ると共に其の基礎たる国民の科学精神を作興し以て大東亜共栄圏資源に基く科学技術の日本的性格の完成を期す。」
しかし日本では英国,米国のようなレーダー開発のための強力な国家的組織の設立に至らなかった。
海軍の伊藤庸ニと陸軍の佐竹金次
海軍は明治33年から無線の研究を始めて,日露戦争で無線が戦闘に有効なことを経験した。第1次世界大戦では航空機や戦車が使われて,戦争に科学技術が必要になると,1923年(大正12年)に東京中目黒に海軍技術研究所を設立する。
翌年の大正13年に伊藤庸ニが東京帝国大学工学部を卒業して海軍に入る。伊藤は大正14年の11月からドイツのドレスデン工科大学のバルクハウゼン教授の許に留学する。バルクハウゼン教授をを紹介したのが東北帝国大学の八木秀二である。伊藤は1928年(昭和3年)に帰国して海軍技術研究所電気研究部に配属となり,電離層の研究を始めて,昭和7年に電波を使って電離層の高さを測定していた。
陸軍は1919年(大正8年)に兵器技術を研究する科学研究所を設立した。科学研究所は1931年(昭和6年)にドイツ駐在武官勤務を終えて帰国した佐竹金次大尉がレーダーの研究を開始する。レーダーの研究は「ち」号研究と称されて,佐竹金次の他に松平頼明技師,幾島英技手が担当したと和田一夫氏が紹介している。この研究所は1937年(昭和12年)に神奈川県橘樹郡生田村に移転する。
1940年(昭和15年)にここが兵器行政本部になってこの中に通信や電波兵器を担当する第五研究所ができる。
海外レーダー情報収集ーその1
1932年(昭和7年)3月に陸軍,海軍,逓信省,大学が集まって『電波研究会議』を開催する。テーマは無線通信であった。ここで電波を使って敵の航空機を探知する技術的可能性について議論する。しかし
「送信した電波が10km以上も離れた場所を飛行している航空機に反射して戻ってきて,受信機で感知できるはずが無い。」との先入観が大勢を占めて研究は始まらなかった。
1935年(昭和10年)頃,大倉商事のニューヨーク支店が『ポピュラーサイエンス』誌の7月号に米国陸軍通信研究所が書いた興味深い記事を見つける。
「貴研究所が開発した不思議な光線が,夜間80km先の航空機を発見したと掲載されています。更に詳細な情報を提供していただけませんか。」と手紙を出すが,陸軍通信研究所のコルトンから,「申し訳ありませんが,あの記事以上に提供できる情報はありません。」と断られる。この不思議な光線とは赤外線であったらしい。
1936年(昭和11年)11月に海軍技術研究所電気研究部の谷恵吉郎造兵中佐がレーダーの研究を始めるよう提言するが,上官から,
「敵艦を探知するのに自分で電波を発射するのは恰も暗夜に物を探すのに提灯を用うる如きものである。物を探し当てることは出来るかもしれないが,その前に自分の所在を暴露するものである。隠密行動を必要とする海軍に於いては必要のないものだ。」『日本無線史 第十卷』
1937年(昭和12年)5月,英国ジョージ六世の戴冠式に日本から重巡洋艦『足柄』が参列した時,英仏海峡を夜間に通過中,英国沿岸の探照灯が瞬く間に航空機を捉える事に同乗していた牧野茂少佐が気づいて海軍技術研究所に報告するが,誰も関心を示さなかった。『海軍技術研究所』中川靖造】
伊藤は1937年(昭和12年)にブカレストで開かれる国際無線学術会議と,ウィーンで開催される国際短波学会に出席するため再びドイツに出張する。ここでバルクハウゼン教授を訪問してドイツにおける電波技術研究について聞くと,
「ドイツ海軍は夜間に,目標までの距離を測定する装置を開発した。」
と情報を得る。これはドイツのGEMA社が開発していた艦船搭載レーダー『ゼータクト』のことであったろう。伊藤はこれを海軍に報告するがこれも関心を惹かないので,ドイツ駐在武官の小島秀雄中佐に,この装置について引き続き調査をするよう依頼して帰国する。
海外レーダー情報収集ーその2
1940年(昭和15年)10月号の『米海軍報告』に『秘密の電波眼』が掲載された。陸軍はこの記事を日本に送付する。
「英國は防空上の立場から見ると,全く損な地形の上に立っておるが,それにも不拘,ドイツ空軍の來襲する以前に高射砲や戰闘機は戰闘體形を完了してゐる。此の事は普通の監視方法では果たされないことであり,何か他の方法があるのではないかと云う疑いを懐かせるに充分である。それはRadio Searchlight,即ち電波により數十哩先の飛行機を晝夜,雲霧の有無如何にかゝはらず「見」得るものがあるからであらう。装置については英國は極秘にして居るが,電波の反射現象を利用するものであらうことは疑いを容れぬところである。…此の装置に利用する電波の波長としては,テレビジョンに使用する程度の波長であらうこと。英に於てはテレビジョンの研究過程に於て偶然的動機からそれを發明することとなったこと。それはニ年前,繁忙な空港の附近に設置さられたテレビジョン受像器に時々二重の像が現れ,それが空港を發着する飛行機からの反射波であること。その二つの像と,飛行機とテレビジョン装置との距離には或る關係のあることが判ったこと。そしてドイツの科學者は永らく超短波の実驗行って居たから,恐らくドイツは同様な装置を持ってゐるのではないだろうかとおもわれること。…この装置は防空上非常に重要な装置であるだろうこと。」
『ラジオロケーターの話』 泉信也
ロンドンでは駐英大使の重光葵,駐英武官の源田實が連日,ドイツからの空襲を経験していた。英本土航空戦である。重光は,戦後,戦争犯罪人として虜因中に書いた『昭和の動乱』の中に英国のレーダー防空について書いている。
「英国はすでに前からチャーチル等の主張によって,防空の設備は,相当強力なる空軍の建設とともに,かなり進んでおった。電波探知の方法の如きも,亦戦前すでに或る程度完成して居って,開戦の時は,海峡に面した方面はいずれもその設備を有ち,七,八十浬以内における敵機の存在を探知することを得た。」
後に真珠湾攻撃の航空参謀となる源田も1940年(昭和15年)9月まで英国に滞在していた。しかし源田がレーダーについて書いた資料はまだ見出していない。
やはりロンドンに駐在していた浜崎中佐は1941年(昭和16年)2月号の『ライフ』誌に掲載されている軍艦『キング・ジョージ』にレーダーらしい装置が搭載されているのを見つけて,この雑誌を海軍艦政本部に送る。
陸軍電波干渉式レーダー『電波警戒機甲』
陸軍科学研究所は1936年(昭和11年)からレーダーの研究を始める。この時期はドイツや英国がレーダーの開発をスタートするわずか1年後で,それほど遅くない。開発を牽引するのは佐竹金治大尉で,メンバーは畑尾正央少佐,民間企業からは日本電気の小林正次,日本無線の上野辰一が参加する。
1940年(昭和15年)に日本でオリンピックの開催が予定されていた。このため欧米ではテレビの研究が始まっていて,日本電気の小林はテレビの技術調査のために1938年(昭和13年)5月にヨーロッパに出張し,そこでテレビの電波が航空機によって乱れる事に気ずく。日中戦争が始まって日本でのオリンピックは中止となるが,小林はテレビ用の送信管を開発して日本電気の玉川工場から送信し,受信機を自動車に積んで試験をしていた。ある日,近くの立川飛行場に離着陸する飛行機が飛んでいる時に送信機から直接に受信する電波と,航空機に反射して受信される電波が干渉して電波が乱れることを発見して,これを陸軍に報告する。
陸軍は送信機と,受信機を離れた場所に置いて,送信機と受信機を結ぶ線上に飛行機が接近する時に干渉する電波を受信して探知するレーダーを開発する。1939年(昭和14年)2月20日に,栃木県の金原飛行場で実験して航空機からの反射波の受信に成功すると,本格的な開発が始まる。日本電気玉川工場から電波を発射して,箱根十国峠と,静岡県沼津香貫山で航空機からの反射波を捉える。10月に阿南陸軍大臣が視察してから配備が決まる。製造は東芝と日本無線である。このレーダを配備する候補地は,ソ連からの空襲に備えるために日本海沿岸の新潟県火彦山,親不知海岸,富山泊温泉を選ぶ。12月に佐竹中佐,河野大佐,伊東中佐が調査し,送信機を泊温泉に,受信機を小樽,清津(現在の北朝鮮)に設置することが決まる。
これが最初の航空機早期警戒レーダー『電波警戒機甲』である。1940年(昭和15年)10月に中国の漢口に開発品を設置し,1941年(昭和16年)から主に中国本土に数百台が配備される。
周波数40〜80MHzである。出力によって4種類あり,警戒距離は10Wが80km,20Wは120km,100Wは200km,400Wは350kmである。
電波が干渉する現象を利用して航空機を探知する方法は,米国でも8年前に研究されていた。しかしこの方法は目標までの距離や,方向を測定できないので開発を止めている。
ドイツへの軍事技術調査団派遣
ヨーロッパでは1939年(昭和14年)にドイツがポーランドに侵入すると,英国,フランスが参戦して第二次世界大戦が始まる。
1940年(昭和15年)9月に日本,ドイツ,イタリアが三国同盟に調印するとドイツは日本からの軍事技術調査を受け入れことを了解し日本陸海軍合同の調査団の派遣が決まる。陸軍からは20名で,山下奉文中将が団長となり12月にモスクワ経由の鉄道で出発する。陸軍レーダー調査担当は佐竹金治中佐と木原友二少佐である。
海軍は22名を派遣する。ドイツに滞在していた野村直邦中将が団長となり,翌年の1月16日に特務艦『浅香丸』で出航し米領パナマ運河を通り,2月24日にベルリンに到着する。レーダー調査担当は伊藤庸二である。
3月8日,伊藤はドイツ海軍からレーダーについて話しを聞く。伊藤がバルクハウゼン博士の弟子で,ドイツ語が堪能であるため,ドイツも協力的であった。
ドイツでは3機種のレーダーが開発されていて,すでに運用を始めていた。艦船搭載用航空機監視レーダー『ゼータクト』,陸上設置用の航空機監視レーダー『フライア』,そして射撃制御レーダー 『ウルツブルグ』である。
レーダーではどれもパルス波が使用されていて,伊藤はこれを知って驚く。
「メートル波あるいはセンチメートル波の反射作用を利用して,これを約1万分の1以下のインパルスにして…」
さらに送信アンテナと受信アンテナを共通に使うために特別の回路を使っている事,方向測定精度を高めるためのビーム切り替え方式を使っている事を聞いて,直ぐに報告書を書いて,3月11日に海軍艦政本部に暗号で報告する。この報告書によって海軍はレーダーにパルス波を使う方針を決めた。
伊藤がベルリンからフランスのビスケー湾に面した潜水艦基地のロリアン港に向かう途中,英国がダンケルクから撤退するときに破壊して遺したレーダーを観る。このレーダーは射撃制御レーダー『GL MarkU』と,移動式のチェーン・ホームレーダー『MRU』で,『GL MarkU』には八木・宇田アンテナが使われていたが,伊藤は気付かなかった。ロリアンの近くでは『フライア』が据え付けられている場所を通過する。
3月23日,陸軍の佐竹と木原,海軍の伊藤はドイツ潜水艦基地であるロリアン港で合流し,ここで射撃制御レーダー『ウルツブルグ』を見学する。見学時間は僅か30分だけに限られた。佐竹,伊藤は『ウルツブルグ』が航空機を探知して,これに連動している103ミリメートル高射砲を制御しているのを観て,
「ドイツのレーダーはこんなに優れている。」と驚愕する。
ウルツブルグ
伊藤は『ウルツブルグ』の調査結果をまとめ,ホテルにあった『ネイチャー』誌の1941年6月号に英軍需相ビーバー・ブルックが書いたレーダーの記事を見つけて,これらを海軍技術研究所に報告する。
ギリシャ沖海戦
遣独調査団がドイツに滞在中にレーダーを使った2つの海戦が行われる。一つは,1941年3月26日,27日の夜,ギリシャ沖でイタリアの軍艦が英国のレーダーに捕捉されて,砲撃され沈没した海戦である。4月にワシントンに駐在しているイタリア武官が横山一郎海軍武官を訪問して,イタリア海軍がレーダーを使って砲撃された情報を提供する。
「3月27日の深夜22:00,ギリシャ南端のマタパン岬沖でイタリアの3隻の重巡洋艦『フューメ』,『ザーラ』,『ポーラ』,そして2隻の駆逐艦『ジョシュエ・カルドゥッチ』,『ヴィットリオ・アルフィエリ』が英国艦船からの砲撃されて沈没した。英国の軍艦はレーダーを装備していて深夜でも敵の艦船を砲撃できるようだ。」
英国戦艦『ヴァリアント』,巡洋艦『アジャックス』,空母『イラストリアス』が周波数40MHzの艦船搭載レーダー『Type279』,巡洋艦『オリオン』は周波数200MHzの艦船搭載レーダー『Type 286M』を搭載して,3500mの距離でイタリアの艦船をレーダーで発見して砲撃したのである。
横山が,
「航空機や艦船に向けてある種の電波を発射し,その反射電波を捕捉すれば,肉眼では見えなくても,その航空機を探知できる。」
と海軍に報告する。海軍から米軍のレーダーの装備状況を調査するよう指示が出て,海軍の有坂盤男が米海軍の港を調査して,
「全ての空母,戦艦,巡洋艦の艦橋にレーダーアンテナが設けられている。」
と報告する。このレーダーは航空機捜索レーダー『CXAM』と,射撃制御レーダー『FA』であった。
ドイツ戦艦『ビスマルク号』撃沈
二つめはドイツ海軍と英海軍の海戦である。ドイツの新鋭戦艦『ビスマルク号』がレーダーで追跡されて,英国戦艦『ロドニー』,『キング・ジョージ五世』からの砲撃と,重巡洋艦『ドーセットシャー』の魚雷攻撃で,5月27日の10:36,沈没する。
『ビスマルク号』が撃沈されたことを知った軍令部の前田稔部長から6月12日に英国駐在の近藤泰一郎に対して英国が保有しているレーダーを調査するよう指示する。
ちょうどその数日後の6月18日,英軍需相ビーバー・ブルックが米国向けの放送の中で,レーダーの存在を明らかにして,英国本土航空戦では『金鶏』が防空に貢献したと話す。『金鶏』はロシアのリムスキー・コルサコフが作曲したオペラで,占星術師に飼われている金鶏が,
「警戒しろ,用心しろ。」
と鳴く。『金鶏』はレーダーのことである。
ビーバー・ブルックはこの中で,一般無線技術者の協力を頼んでいる。
「現在,英陸・海・空軍に於てラジオ・ロケーターに關する仕事に從事する者の數は數千人に達するが,然し,之では刻下の要求を滿たすにはなほ不十分であり,現在,無線技術の經驗ある十八歳から六十歳までの男女一萬人を必要とする。今後の見透しに於ては,空軍には男子八千人,女子三千人,陸軍には相当數,海軍にはニ千人の男子と三百人の女子とを必要とするであろう。」
;『ラジオロケーターの話』
『金鶏』の記事は日本にも送られて,『無線と実験』誌が1941年(昭和16年)12月号に,英国の航空機早期監視レーダー『チェーン・ホーム』を紹介して,レーダー指揮室の写真も転載している。
海軍も英国駐在の濱崎諒造兵少佐に英国のレーダーについて調査するよう指示を出し,濱崎が7月6日に,「ロンドンハイドパークに高射砲と一緒に,レーダーらしいものが設置されている。車両は4輌で,アンテナの幅は10m,高さは4m,アンテナの形から推定すると周波数は150MHzである。」
と報告する。
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