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『「ラーメン屋VSマクドナルド」 副題:エコノミストが読み解く日米の深層 竹中正治 著 (新潮新書)』を読む
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投稿者 Ddog 日時 2008 年 12 月 04 日 00:17:00: ZR5JcjFY1l.PQ
 

「ラーメン屋VSマクドナルド」 副題:エコノミストが読み解く日米の深層
竹中正治 著 (新潮新書)』を読む

いい本です。推薦します。ちょっといきなり話が外しますが、先日TVでガチンコラーメン道の佐野実に紹介された、神保町のラーメン屋「覆麺」へ行きました。 前々から気にはなっていたのですが、危なすぎて、入れませんでした。佐野の評価ほど私には美味しいとは思いませんでしたが、あっさりした味でした。まあ近30m先のラーメン二郎に1時間並ぶくらいなら、一度食べてみるのも悪くは無いでしょう。「アンガーラ!」
店内に流れるBGM「猪木ボンバーレ」覆面姿の男が二人でラーメンを出す。マスターの「アンガーラ」と意味不明な、「いらっしゃい」「どうぞ」「まいど」「こちらへ」を一言で表現する「アローハ」に近い言葉を連発。珍妙だけどサービス満点の日本語会話、日本の深いラーメン文化がなければ、けして生まれないシュールな空間でした。

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この「覆麺」こそ、日本のポップカルチャー文化の真髄を表す一つではないかと思います。
まず竹中氏が最初に日本人に想像力がかけているというステレオタイプは間違いであることを指摘。日本の漫画・アニメで「りんたろう」氏の話の中で、日本のアニメは日本人の職人気質の伝統文化の上に成立しているかの説明があった。p27-28
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「アーティスト」と「職人」の違いは何か?私なりに定義すると、自分の創作したい
ものを創って、緒果的に売れたり売れなかったりするのが芸術家・アーティストである。
一方、受注があって初めて仕事が始まるのが職人である。だからアーティストは創作に
好きなだけ手問ひまをかけるが、職人は発注者との関係で時問と予算が限られており、そ
の制約条件の中で腕をふるう。両者の中間的な存在もあろうが、概ねこれで分類できる。
職人の技は、時間と金の制約条件の中で、研ぎ澄まされて来たのだ。その技の真髄は、時代とともに形を変えても、基底的なレベルで共通する何か(それをりんたろう氏は「日本人のDNA」と呼んだ)となって連綿と受け継がれている。今それが世界に広がって、日本アニメは新しい世代が新しい発想と新しい技法で継承しようとしている。氏の語ることを私はそのように理解した。
「日本の職人」は、いかに賞賛されるほどの大成功を遂げても、職人であることをやめようとしないービル・ゲイツがひとの発明したソフトを買収して大成功し、ITビジネス界の巨人経営者となり、金も特許も支配する存在に転じたのとは全く別の生き方をしているのである。
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この本のタイトルのコアはこの3Pではないか?
ラーメン屋=小さな資本と職人的価値観 異文化のフュージョン
マクドナルド=ビックビジネス、市場の最大公約数的な需要.好みを対象
P-32〜35
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松平健の「マツケンサンバ」を見た時の衝撃は忘れられない。日本の時代劇とラテン.サンバをフユージョン(融合)した文化的モンスターだと思った。異なる文化的要素をフユージヨンし、突然変異的な新機軸を生み出す、日本のポップ・カルチャーの文化的ダイナミズム
の典型だ。これは現代の大衆文化に限ったことではない。古今東西、異質な文化要素とのフユージョンは、新しいパターンを生み出すダイナミズムの源泉だ。例えば「万葉集」は中国漢字の音を大和言葉に当てはめた「万葉仮名」で書かれ、当時最先端の文化的フユージョンだった。当時の中国の知識人がそれを見れば、「野蛮な東夷の珍妙なる所業」と笑
ったに違いない。しかし「万葉仮名」はその後「ひらがな」「カタカナ」を産み出し、漢字、ひらがな、カタカナを盛り込んで表記される現代日本の文章の原点となった。
古典文化が純粋で、現代文化が混然なのではない。全ての文化現象は異文化要素をフユージョンしながら発展して来たのだ。ただ古典の場合は、長い時間の淘汰を生き延び、かつて異文化フユージョンで生まれた履歴が忘却されているだけなのだ。一方、同時代文化の場合は、何が生き延びて次のスタンダードになるか判らない混沌の渦中にある。

小さな資本と職人的価値観
もうひとつの日本の特徴は、ポップ・カルチャーの創出が、米国に比べると相対的に小規模な資本と職人的価値観を持つ人々によって担われていることだ。米国に比べると一作品の売上高に示される日本のアニメ・ビジネスの規模は小さい。「ファインディング.ニモ」を手掛けたピクサーがディズニーに買収されたような、大規模な資本の動きとも無縁である。実はこれが幸いしている。
ビツグ.ビジネスは大きな興行収入を目標に掲げなくてはならないので、市場の最大
公約数的な需要.好みを対象にして製作される。それを繰り返していれば、必然的にパ
ターンのマンネリ化や標準化に陥る。これはマクドナルド的ビジネス・モデルでアニメ
を製作したらどうなるかを想像すれば判ることだ。米国に長く住んだことのある日本人
ならみな感じることだが、マクドナルドの成功は米国の食文化の貧困と表裏一体である。
その世界への普及は、米国ジャンクフードのグローバル化に他ならない。
ところが日本のアニメや漫画には、「ラーメン屋的供給構造」が根強く残っている。最大公約数の需要(好み)よりも、製作者が自分らのセンスにこだわって、多種多様な
ものを創出、供給している。従って、ひとつずつのビジネス規模一売上)は小さいが、
多様でユニークなものが供給される。その結果、意外性や驚きのあるものが多く、面白
い。
タランティーノをはじめ、ハリウッドの映画監督で日本の漫画、アニメ、映画からイ
ンスピレーションを得ている人が多いことはよく知られている。彼らはビッグ・ビジネ
スの中でマンネリに陥るのを回避するために、日本の作品群から新しいインスピレーシ
ョンを補給しているのだろう。
こうした日米のビジネス・モデルの相違に着目すると、日本のポップ・カルチャーの
発展が、なぜ映両よりも漫画、アニメ、ゲームソフトなどの分野に強く現れているのか
も判る。映画も様々とはいえ、総じて今日の市場を席捲しているのは巨大資本を必要と
するビッグ・ビジネスである。巨額の資本を要する映画、特に米国では、市場の最大公
約数の需要を獲得して売上を伸ばすビッグ・ビジネス・モデルが支配的になった。一方、
漫画、アニメ、ゲームソフトの分野では必要となる資本が小さく、日本の「ラーメン屋
的供給構造」に適しているので、職人達のニッチな創作が可能になる。
逆に言うと、日本の漫画やアニメのコンテンツそのものはユニークで面白いが、それ
を世界市場に配給して利益を最大化させるビジネス・マネジメントが弱い、あるいはそ
うしたことができるプロデューサーが相対的に乏しい、と言うことができるだろう。ユ
ニークなコンテンツを創出する職人達に報いながら、同時にグローバルな市場相手に利
益を最大化できるようなプロデューサーが、若い世代から登場することを期待するのは
私ばかりではあるまい。
「たかがポップ・カルチャー、それで社会の何が変わるのか?・」と笑う方もいるだろう
その通りだ。変わらねばならないのは実は私達白身なのだ。製造業でもサービス業でも
大企業のビジネスは、それを供給する側が大組織になり、高度に管理化されるに従って
画一化され、変革への柔軟性を失い閉塞する。それはどこの国でも同じだ。
閉塞を打ち破るためには変わらねばならない。では、どのように変化すれば良いのか
ひとつの鍵は、異質な文化的要素を取り込み、意外性と面白さを創出することだろう。
大企業であっても、そうした意外性と面白さを創出する細胞を組織の中に育てることは
可能なはずだ。
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ちなみに日本のラーメンは、中国では自国のラーメンとは区別して日式拉麺と呼がれるが、平安期に大陸から伝来したそば・うどん文化で培った日本の麺文化があってこそ誕生したまさに日本食であると思う。ラーメンは文化を融合して発展させる日本文化のいわば、「真髄」、典型的な「日本文化の結晶」である。竹中氏は、目のつけどころが非常に良かったと思う。また鋭い。

竹中氏に薄っぺらな食文化と批評されたハンバーを少しだけ擁護したい。日本がまだそれほど豊かではなかった昭和40年代の小学生(私)にとっては、TV漫画「ポパイ」のウィンピーが頬張るハンバーガーが美味しそうで、美味しそうで、なんとも魅力的であった。食べたくてしかたなかったが、まだ、日本にはマクドナルドは無く、北関東の地方都市の子供には光り輝く夢の食べ物であった。米国の消費文化は、経済が離陸する時期の国民の豊かさを求めるモチベーションとして重要な役割が有った側面を私は評価したい。

希望を語る大統領vs危機を語る総理大臣『「ラーメン屋VSマクドナルド」 副題:エコノミストが読み解く日米の深層 竹中正治 著 (新潮新書)』を読む-2へ続く
http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/20295728.html
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http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/20295707.html
『「ラーメン屋VSマクドナルド」 副題:エコノミストが読み解く日米の深層 竹中正治 著 (新潮新書)』を読む-1からの続き


希望を語る大統領vs危機を語る総理大臣

アメリカ人は、相手のパフォーマンスを評価する場合、ポジティブな表現に気前がよく、ネガティブな表現は使わない。反対に日本は褒めないし、ネガティブな表現を気軽に使う。

私もブログで、ダイアモンド、エコノミスト、東洋経済を選ぶときに、どうしても、崩壊、危機のタイトルに弱い。ついついよりネガティブなタイトルに惹かれてしまうと書いたことがある。一方ビジネスウィークやタイムでは反対にポジティブな表現が多用されるとのこと。

日本の明治維新は典型的な危機感駆動型のアプローチであった。米国の建国は新大陸の希望に託した移民達が作り上げた国である。それぞれの成功体験が文化の根底に流れているのではないか?と竹中氏は言う。更に、最近日本では危機駆動型のアプローチが空回りしている。元々危機感駆動型は、「喉元過ぎれば熱さ忘れる」限界があった。年金問題、少子高齢化、財政問題、地球温暖化など、いずれ大過となるであろうが、今日明日の問題ではない為、危機感駆動型のアプローチでは対応しにくい。

ところが、日本の組織は「危機管理が甘い」、危機に対する次善策や軌道修正、代替案を用意しながら軌道修正していくことがひどく苦手。失敗から学ぶことを難しくしているのは「無謬信仰」ではなかろうかと竹中氏は指摘する。これは慧眼である。

官僚組織や大企業に失敗を冷静に評価し認知、議論、教訓を抽出することがなかなか起こらない。失敗しても「二度とこのようなことが起こらないよう再発防止に努めます」⇒無謬信仰の上塗り⇒過ちは確率的に起きるものであり、小さな失敗を許容しながら大きな失敗を起こさない工夫が必要。

P62〜65 
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無謬を前提に作られたシステムは、いかに精綴でも、一度失敗が起こると脆く、混乱する。システムの動揺に直面してどうして良いのか判らなくなるので、危機感が強調される。「危機を乗り越えるために総員必死になって頑張れ!」という展開になってしまう。無謬信仰と危機感強調カルチャーはこうして並存しているのではなかろうか。

無謬信仰とリーダーシップの不在
ここまで考えて、はたと気がついた。日本人のこの根強い無謬信仰は、権力構造におけるリーダーシップの不在とも結びついているのではないだろうか。
現実には、無謬であり得る権威、権力は存在しない。無謬であり得る唯一のあり方は赤子のように無力化してしまうことである。権力を神聖化、無謬化するためにその頂点は無力化し、実際の権力の執行は下位の者によって代行される構造が生まれる。失敗は全て、代行者、輔弼者の責任となれば、頂点は無垢、無謬でいられる。

その究極の姿が天皇である。歴史を振り返れば、天皇が直接的な権力者であった時期(天皇親政)は極めて短い。その権威・権力は常に摂政、関白、将軍、重臣などによって代行されることで、頂点にある天皇は無垢、無謬の存在として存続したのである。権力の代行者であった将軍も、その権威が確立すると、神聖化、無謬化するために、実際の権力は執権、老中.大老などによって代行される構造が生まれた。こうして権力構造の頂点から下方に向かって主体的意識の消滅が連鎖的に生じる。

カレル.ヴァン・ウォルフレンは著害「日本/権力構造の謎」で、日本の権力のピラミッド構造には「究極的な政策決定権を持つ頂点が存在しない」と指摘している。この洞察は別に彼のオリジナルではない。精神分析で著名な河合隼雄は「日本的中空構造」という視点を提示して、「誰が中心において責任を有しているのかが不明確な体制」が日本的組織、権力の特徴であると述べている(「中空構造日本の深層」)。

更に遡れば、丸山眞男は敗戦後間もない時期に次のように書いている。「我が国の場合はこれだけの大戦争を起しながら、我こそ戦争を起したという意識がこれまでの所、どこにも見当らないのである。何となく何物かに押されつつ、ずるずると国を挙げて戦争の渦中に突入したというこの驚くべき事態は何を意味するか」。要するに、日本的政策決定プロセスにおける主体的意識の不在を批判している(丸山眞男「超国家主義の論理と心理」1946年)。

寺崎英成が記した『昭和天皇独白録』などによると、昭和天皇自身も白分は立憲君主であって専制措主ではないので、東条内閣の開戦の決定を天皇白身はそのまま裁可するしか選択肢はなかったと考えていたと伝えられている。戦争責任問題を考えると、こうした主張には異論のあるところだが、日本において神聖な権威.権力は無力化することによって無謬化しようとすることを象徴するものだろう。

そうすると、危機感強調型のカルチャーはリーダーシツプ(主体的意識)の不在と表裏だとも言えよう。何を実現すべきなのか、それを妨げる問題に対して誰が責任を負うのか、解決するために何を改革すれば良いのか、そうした議論をひとつひとつ積み上げ前進するためには、明確なビジョンを掲げ、その実現に責任を負うリーダーシップが必要だ。しかしそれが不在だから、問題状況は獏然とした危機感として拡散し、「危機だ。総員奮起して頑張れ!」という毎度の陳腐なお題目に行き着いてしまう。

さて、私達はこのような危機感強調型カルチャーの閉塞からどのように抜け出したらよいのだろうか。政治の面では「政策は過ちを犯す、その時は政権を交代する」という自明の原則を実現するしかないだろう。

同時に、閉塞を産み出している根底に無謬信仰があるのだから、私達はまずこれを捨てることから始めよう。「失敗ゼロからの脱却」である。畑村洋太郎は言っている。「決められた設問への解を最短で出す方法、「こうすればうまくいく」「失敗しない」ことを学ぶ方法ばかり重視した教育からは、創造力を養う機会は生まれない。

昨日までの成功が明日の成功を約束しなくなった今の時代、失敗から学習し、自ら課題を設定して挑戦を繰り返すことを讃えようじゃないか。せめて自分の部下、子供、自分が関係する若い世代、そして肝心の己自身にはそうした気持ちで接することから始めよう。
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名著、中公文庫「失敗の本質」:日本軍の組織的研究(戸部新一他共著)や角川oneテーマ「日本はなぜ敗れるか」山本七平著などを読んだ事がある方であれば、この3Pには日本の危機対応能力欠如の本質をつく日本論であることに気がつかれるであろう。

今後竹中正治氏の著作はチェックしていこうと思わす名著である。

【Ddogのプログレッシブな日々】
『「ラーメン屋VSマクドナルド」 副題:エコノミストが読み解く日米の深層 竹中正治 著 (新潮新書)』を読む-1
http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/20295707.html

希望を語る大統領vs危機を語る総理大臣『「ラーメン屋VSマクドナルド」 副題:エコノミストが読み解く日米の深層 竹中正治 著 (新潮新書)』を読む-2
http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/20295728.html  

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