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(回答先: 【過剰消費から己を冷厳に見る生活へと転換するアメリカ庶民主観】 世界の消費を牽引してきた米国過剰消費が消えるインパクト 投稿者 愚民党 日時 2008 年 11 月 21 日 22:09:08)
http://furuido.blog.so-net.ne.jp/2007-04-15
認識の四肢的構造連関と物象化 (廣松渉) [Book_review] [編集]
「ヨーロッパの実体主義に対してアジアが潜在的に育んできた「関係主義」の思想を掘り起こし、それを体系化したのが廣松渉の世界観である」(野家啓一)。
廣松渉著作集(岩波書店)が中国語に翻訳されたのを記念して南京大学で行った野家啓一の講演『広松哲学の成立過程』が雑誌『情況』(情況出版)2004年7月号特集「今、なぜ廣松思想なのか」に掲載されている。この講演から廣松哲学の核である「認識の四肢的構造連関」と「物象化」に係る部分を引用する。この講演のなかで野家は廣松の事的世界観や認識の四肢的構造という廣松哲学の核となる概念をスッキリ説明している。以下引用ページはことわりがない限り雑誌『情況』のページを示す。廣松は漢字変換できない文字、や難字をやたらに使うので正確な変換を行わない箇所があることをお断りしておく。
なお、廣松渉の主著は文庫本として数冊が出版されている。廣松の哲学入門書は新書になっている。
#『情況』 引用開始
1 廣松哲学の出発点 (p46)
(略) 廣松さんがこの論文(『世界の共同主観的存在構造』)で提起した哲学的見取り図は、それまでの日本の哲学者たちの重箱の隅をつつくような哲学史研究とは類を異にした、まさに気宇壮大という言葉がぴったりするものでした。それはたとえばつぎのような形で表現されています。
『われわれは、今日、過去における古代ギリシャ的世界観の終息期、中世ヨーロッパ的世界観の崩壊期と類比的な思想史的局面、すなわち、近代的世界観の全面的な解体期に逢着している -- こう断じても恐らくや大過ないであろう。閉塞情況を打開するためには、それゆえ(略)<近代的>世界観の根本図式そのものを止揚し、その地平から超脱しなければならない。認識論的な場面に即していえば、近代的「主観 - 客観」図式そのものの超克が必要になる。』(廣松著作集、第一巻)
「この「主観 - 客観」図式においては、主観は各個人の人称的な意識、つまり個々の「私」の意識であると見なされ(主観の「各私性」)、対象の認識は「意識作用 - 意識内容 - 客体自体」という三項図式に即して理解されます。そこから、主観に直接的に現前するのは表象や観念などの「意識内容」のみであり、当の「客体自体」は間接的にしか認識できないことが帰結します。その結果、近代哲学の枠組みの中では「外界の存在」や「他我の認識」が大きなアポリアとなり、つまるところ「独我論」の袋小路を抜け出ることができませんでした。これが近代的世界観の陥った危機であり、思想的閉塞情況と言われるものの内実です。
それに対して廣松哲学は、主観の「各私性」には「共同主観性」を、対象認識の三項図式には認識の「四肢的構造連関」をそれぞれ対置して「主観 - 客観」図式の乗り越えを図ります。まず「共同主観性」ですが、これは個々人の意識が「私」という閉鎖的な領域に閉じこめられているのではなく、意識活動は思考様式から知覚の仕方にいたるまで、常にすでに社会的に共同化されているという事態を指す概念です。デカルト流に言えば、「私たちが考える(cogito)」とは本来的に「我々が考える(cogitamus)」ことに他ならない、ということです。もちろん、共同主観性がフッサール現象学の基本概念である Intersubjektivitat の日本語訳であることは言うまでもありませんが、廣松さん自身が「われわれの「共同主観的」ということは intersubjektiv という意味にとどまらず zusammensubjektiv そしてまた gemeinsubjektiv という意味を帯びる」 (廣松著作集第一巻54ページ)と述べておりますように、そこには単に複数の主観の相互関係というのみならず、意識が社会的交通や社会的協働を通じて歴史的に協働主観化されているという「意識の社会的歴史的被制約性」の意味が含まれています。これは廣松さんがマルクスの著作から学び取ったものにほかなりません。その意味で、廣松哲学の出発点は、近代的世界観の超克という観点からマルクスを読み直し、そこに「人間主義」と「科学主義」の対立を乗り越える一筋の道を探り出すことにあったと言ってよいでしょう。
2 廣松哲学の基本構図
しかしながら、廣松哲学の全体像は、マルクス主義の枠内にすんなり収まりきるものではありません。たとえば、廣松認識論の中核をなす「四肢的構造連関」にしても、その中には反映論や模写説を奉ずる素朴なマルクス主義者からは「観念論」という烙印を押されかねないような論点が多々含まれています。むろん、廣松さんはそのことを十分に自覚した上で、近代哲学の諸前提を克服するという共通の問題意識から、自身の立場をマルクス主義哲学の警鐘的発展として位置づけているわけです。
その認識の「四肢的構造連関」ですが、これは主観と客観という2つの項が切り離されているのではなく、それぞれ「レアール real」 と「イデアール ideal」 という二肢的二重性をもって構造的に連関し合っているあり方のことを指します。客観の側から言えば、われわれは対象を生のままの所与として受け取るのではなく、それを所与以上の或るものとして意識しているということにほかなりません。たとえば、黒板にチョークで円を描くとしましょう。その際われわれは単に黒板上のチョークの痕跡というレアールな所与を知覚しているのではなく、その所与を「円」というイデアールな意味として把握しているわけです。ただし、レアールな所与とイデアールな或るものは空間的に離れて存在しているわけではありません。イデアールな或るものはレアールな所与において、つまり黒板上のその図形の中にいわば「受肉化(inkarnieren)」していると言えるでしょう。この事態を廣松さんは「即自的な”対象的二要因”のイデアール・レアールな二肢的統一構造」(著作集第一巻、37頁)と呼んでいます。
今度は主観の側ですが、対象知覚の二肢的二重性であればハイデガーの「〜として構造 als - Struktur」 やハンソンの「〜として見る seeing as」 を引き合いに出すまでもなく、すでに現代哲学の中にその先例を見出すことができます。しかし、主観の二肢的二重性を明らかにし、それによって四肢的構造連関を定礎したことはまさに廣松哲学の独創に属することです。たとえば、鶏の鳴き声を中国語ではどのように表現するのか残念ながら存じませんが、日本語では「コケコッコー」、または英語では "cockadoodledoo"」と表現します。 もちろん、鶏に国籍はありませんのでどの国でも物理的音としては同じ鳴き方をするはずですが、それぞれの母音語に応じてその聞こえ方は同じ鶏とは思えないほど違っています。しかも、母音語を共有する人には例外なく同じ鳴き声に聞こえます。
このことは聞き取る主観(主体)が単なる「私」ではなく「私以上の私」、すなわち「われわれとしての私」であることを示唆しています。これを廣松さんは主観の「自己分裂的自己統一」あるいは「いわゆる”主体”の側もまた、イデアール・レアールな二重構造においてある」(著作集第一巻、44頁)と要約しています。つまり、感覚器官を備えたレアールな私個人が、認識活動の場面ではそれ以上のイデアールな「われわれ」として存立しているということです。この主観の側の二肢的二重性が、意識の共同主観的自己形成と表裏一体の事柄であることは言うまでもありません。それゆえ、主観の二肢的二重性は、経験的主観と超越的主観の関係のようにア・プリオリなものではなく、先ほど母国語を例に取りましたように、社会的協働を通じて歴史的に形成されていくものです。
以上のことから、廣松哲学においては、認識の客観的側と主観的側面とがそれぞれ二肢的に文節化され、合わせて四つの契機から成る連関態として把握されていること、そして主観の二重性が共同主観性の成立と密接な関わりをもっていることがご理解いただけたかと思います。これが認識の「四肢的構造連関」と呼ばれるものですが、廣松さんはそれを「フェノメナルな世界は”所与がそれ以上の或るものにとして「誰」かとしての或る者に対してある”(Gegebens als etwas Mehr gilt einem als jemandem)」(著作集第一巻、54頁)と簡潔に定式化しています。ただし注意しておかねばならないのは、これら四つの契機はあくまでも関数的(機能的 funktionell) に連関し合っているのであり、それぞれ独立に自存するものと捉えられてはならない、ということです。いわば四肢のそれぞれは構造連関という関数に組み込まれた変数なのであり、それを単独で取りだすことは意味をなしません。
この関数的連関から切り離して変数を独立の実体として捉えるところから、いわゆる「物象化的錯視」が生じます。ですから、廣松哲学の立場からすれば、ヨーロッパ哲学の基本概念である「個物」「イデア(普遍)」「自我」「超越的主観」などはすべてこの物象化的錯視の所産ということになります。もちろん、「物象化 Verdinglichung」 という概念はマルクスに由来するものです。その要点を廣松さんは「われわれは概念規定以前的な暫定的表象として、人と人との関係が物的な関係・性質・成態の相で現象する事態、これをひとまず物象化現象と呼ぶことができよう」(著作集第13巻、101頁)と説明しています。マルクス(およびエンゲルス)は人と人との社会関係が物と物との関係として現象する事態を「物象化」と呼んだわけですが、廣松さんはこの概念を社会関係のみならず「自然的・事物的関係」にも拡張して適用することを試みます。つまり、マルクスが「歴史の自然的物象化」の側面を考察したとすれば、その問題意識を継承しつつ発展させ、廣松さんは「自然の歴史的物象化」をも射程に収めようというわけです。それによって「物象化」という概念は「関係規定態の実体化」という、ヨリ一般的な形で規定されることになります。ここから自然科学が前提している物質観・存在論をも物象化の所産として捉え直す視座が拓かれます。この点について廣松さんは次のように述べています。
『読者のなかには、いわゆる精神的現象やいわゆる価値的現象を物的な実在に還元するのは”物象化”であり”錯視”であると”認め”たうえで、しかし、もともと物的な存在である対象を物的な実在態として扱う自然科学はまさに如実の相をそのまま認識しているのであって、それは何も物象化ではないのではないか、物象化という概念は”自然界””自然科学的対象認識”には適用すべくもないのではないか、このように反問されるむきを生ずるかも知れない。 --- だが、われわれの見地にとっては (fur uns) いわゆる物的実在態それ自身が物象化の所産なのである。すなわち、客観的に自存する物的実体、そのような実体の具備している物的性質、そのような実体の間に成り立つ物的関係、自然科学が対象とするこれらの物的実在態それ自身が既にして物象化の所産にほかならない』(著作集第13巻、247−8頁)
##以上、引用終わり
南京大学HPから:
http://www.nju.edu.cn/njuc/chi-jp/zryj/4.htm