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(回答先: 時局をわきまえぬ非国民的態度と極論されるも至し方はないのである 【大阪時事新報】 投稿者 hou 日時 2008 年 4 月 21 日 23:09:46)
http://www.kamata-nomoukai.com/corner-1/monogatari/6.htm
二、千葉の酒物語り
〔4〕激動の昭和酒造史ー戦前編(下)
[自主規制から国家統制へ]
昭和一五年以降、酒造半減の影響は出荷面でハッキリと現れる。品不足を見越して一四年暮れには極端な割水が行われ、清酒の評判は地に落ちる。関東では水酒、関西では金魚酒(金魚も泳げるほど水っぽい)など皮肉った。
昭和一五年には衆議院本会議まで紛糾する。同年四月一〇日、公定価格改訂と企画表示の証票用紙を貼付することで、成分規格を表示しアルコール濃度が保証されるようになる。
昭和一五年以降、清酒の生産統制は、生産数量よりも原料米を直接対象にして実施された。自主規制は名ばかりで完全に国家統制へ移行している。酒造組合中央会長は大蔵大臣任命となり、統制違反には刑罰が科せられた。
昭和一五年の酒造玄米割り当ては二〇〇万石であった。その内千葉県は約二万五千石で全国比1.3% にあたる。
一六年は前年比二割減、一七年さらに二割減、千葉県も同様で坂道を転げおちるように減少していった。
昭和一八年、戦争のため国民生活はさらに脅かされる。酒造組合法が改正され、「酒造組合は国策遂行に協力することを目的」と規定された。清酒玄米の割り当ては七九万六一七五石まで極端に落ち込み、千葉県の割り当ても一万二三一〇石に過ぎない。酒も自由に飲めない人生は、無味乾燥で味気ないものだっただろう。
昭和一九年、食糧事情は窮迫していたが、酒は戦争遂行に多少は必要と認められる。
昭和二〇年、、敗戦国ドイツではビールが禁醸された。日本では国民の強い要求が認められ、六二万七千石が清酒玄米に割り当てられた。千葉県は一万一四八八石である。
当然、清酒生産量は激減する。政府は需給調整のため配給機構を整備する。全国の小売酒販業者は整備され、昭和一三年三五万者余りだったのが、一八年には十一万強まで減少させる。さらに配給強化のため、都道府県ごとに酒販組合を結成、上部組織に全国酒販連合会を設立する。
[国家統制の極み・企業整備の極み]
戦争という異常事態の中では、酒造原料米の統制は必要だっただろう。だがそれだけでは済まなかった。国家による完全な経済統制へと時代は移行する。昭和十八年十月八日、大蔵大臣は「清酒製造業企業整備要綱」を定め、戦力強化のため工業部門を三種に分ける。中央会は企業整備による酒造業の区分を決定した。
1)第一種工業部門(縮小整備)
2)第二種工業部門(拡充整備)
3)第三種工業部門(指導整備)
清酒製造業は第三種工業部門に指定される。この部門では政府の指導で、主に中小企業を対象に企業整備され、全国の蔵元は創業工場、転用工場、保有工場、廃止工場のいずれかに区分された。これにより全国の工場(蔵元)の約半数が転廃することになる。
創業工場に指定されなければ、地獄に突き落とされる運命である。先祖伝来の家業を強制的に失う前代未聞の自体に、各自でトラブルや悲劇が起こった。自殺したもの、精神に異常をきたしたものもあったという。
都道府県ごとの実情に応じ、造り酒屋の整備率は異なった。そこで立地調整が行われ、基本石数を都道府県で移動させて調整した。
基本石数を譲渡した県は、兵庫、京都、奈良、和歌山、滋賀、広島、愛媛、岡山、秋田、山形の銘醸地と知られる10県。
逆に移入県は、千葉、埼玉、茨城、栃木、岩手、宮城、愛知、岐阜、香川の9県であった。千葉県は旧基本石数五万六七四四石のうち、新基本石数三万四〇四五石と六割が認められ、醸造率は全国で最高であった。
過酷な企業整備の具体例を千葉県で見てみよう。
千葉県に置いて企業整備前の清酒蔵元は104工場である。その内68工場が操業工場に指定され、生き残りを許される。
香取郡を見てみよう。佐原市の清酒蔵元は六軒であった。操業が認められたのは、石毛元次郎(東薫)、馬場善兵衛(雪山)、鈴木佐兵衛(東海)の三軒である。他の三軒が転廃した。より小規模で経営基盤の弱い蔵元が対象となった。
神崎町は五軒中、鍋店(仁勇)、寺田本家(香取)だけが操業を認められる。他の三軒は転廃した。
小見川町は四軒全てが残った。飯田惣兵衛(大姫)は香取郡酒造組合の要職にあり、出兵などの優遇制度などを利用し、最大限操業に努力した結果である。良文村(現小見川町)の渡辺勝治だけが廃業する。
山田町の二軒では、鎌形三四郎(富貴)が操業を認められ、鈴木嘉左衛門(初音)が整備される。
香取郡酒税組合内でも、地区により事情が違った。二五場中一六場が生き残るが、六割の基本石数はどこも同じである。
安房郡のように十一場中九場も残ったところもあるが、東葛地区のように四業者が半分になったところもあり、千葉県内でも実情はかなり違った。
税務署長の否応なしの激しい指導により、各地の酒造組合で企業整備を実行した。希望者を募り、廃業者には旧基本石数一石当たり六十円の共助金が支払われる。近い将来廃業を考えていた蔵元なら問題はない、しかしそんな蔵元は多くはない。激しい拒絶や抵抗があっても、誰かが廃業せざるをえなかった。先祖伝来の家業を、どうして自分の代でつぶせるだろうか。その心情は充分に推測できる。
品質の低下、数量の極端な不足、価格の高騰、企業整備など、清酒に与えた戦争の悪影響は計り知れない。長い清酒の歴史で最も暗い時代、戦争一色で塗りつぶされた時代だった。
[アルコール添加始まる]
長い間、米と水のみが清酒の原料であった。清酒の長い歴史をひもとくまでもなく、常識であったはずである。それが最近、純米酒と特別扱いするようになる。原料にアルコールを加えるという製造法の革命は、泥沼化した戦争(第二次世界大戦)がもたらした。
「すでに江戸時代から柱焼酎という技術があった」と得意げに反論されるかもしれない。清酒醪へ焼酎を混ぜたのは事実である。醗酵が弱いときなど、高アルコールの焼酎を添加し、清酒の貯蔵を行なった。柱焼酎はカンフル注射のようなもので、清酒の増量を目的としていない。ただ柱焼酎をヒントに、清酒のアルコール添加が発案されたことは否定できない。
柱焼酎の使用量はきわめて小量であった。国税庁の「酒類関係資料集』から清酒の原料をみよう。昭和一四年、白米一六七万石、水一六五万石に対して、焼酎の使用量はただの四〇石、○・○○一%、限りなくゼロに近い数字である。
アルコール添加は、物不足のより厳しい満州国で昭和一六年から採用される。昭和一七年三月、アルコール専売法を改正し、酒類製造者ヘアルコールの販売を認める。日本政府はアルコール添加の推進を一歩一歩すすめた。
酒造組合中央会は、五月に開催した第一四回通常総会で大激論を闘わす。伝統ある清酒のイメージダウン、あるいは品質低下を招くなどの理由で反対意見が多かった。
しかし、戦争の長期化と原料米の削減という残酷な現実を前に、苦悩に満ちてアルコール添加の方針をやむなく容認する。
昭和一七年一〇月一三日、消去組合中央会は統制委員及び評議委員の合同会議を、統いて一四日に全国連合会長会議を開催する。アルコールを原料と認める清酒製造方針を協議するが、賛否両論が激突するばかりだった。提案された第二号議案『酒類の製造方法に関する統制の件』は、「製造方法の変更を命じ、又は製造方法及製造数量等を指定」する非常に厳しいものである。結局、国家権力に逆らえなかった。想像していなかったアルコール添加と、等級別生産計画という醸造方法の厳格な統制が可能になる。
昭和一八年一月、酒税法施行規則が改正され、清酒醪ヘアルコールを混ぜることが認められる。アルコール添加は、法的な問題がすべて解消する。
昭和一七年度の清酒原料をみよう。米百十万石、水百十一万石に対し、初めてアルコールが五三二五石使用される。まだ総原料の〇・二四%で、試験醸造の段階である。しかし、アルコール添加へ大きな一歩を踏みだした。重要な清酒原料となり、悪名高き三増酒の道も開いた。
アルコールは戦時用燃料であり、品不足で入手が困難であった。そこで酒造組合中央会は自らの手で生産しようと、中央原料酒精株式会社の設立を決める。第一次計画で、千葉県の工場を買収し、九四度アルコールを年二万石製造する。昭和一九年一月、工場所轄の松戸税務署長から内免許が与えられ、二月五日設立総会を開催する。清酒醪へのアルコール添加・供給体制が整う。