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(回答先: Re:慎太郎さん、最後に近づいています。あなたにかけているのは公平、公正さなのです。これが知られたら、ああなたも落ち目 投稿者 ヤハウエハのタタリ、祟りじゃ〜!! 日時 2008 年 3 月 26 日 21:58:56)
これは法華経にもまさるとも劣らないカルマからの脱出についての説明です。これは日本書記、古事記に出てこられる地球創生の神「国常立尊(くにたちとこのみこと)の神の通信です。
「自らの内奥を見つめる心の目がつぶれていることにきづかず、人と争い、自らと争い、満たされない心でさまよい、疲れ切る。これが自業自得だと気づいた者は、何とオカシキ事にエネルギーを使っていた事かと思えるはずである。もうアクの争いは十分でござろう。」
カルマの脱出の方法
<そなたが不快をまき散らしたから不快であるのぞ。今ここはそなたの今までのすべての生で与えたものを受け取る時期であるぞ。>
「そなたが受け取るものを見てそなたが何を与えているかを見ることぞ。人のせいであるものは一つもないのぞ。そなたが与えないで人がくれるものはないのぞ。すべてそなたが与えたものと交換であるぞ。そなたが与えたものが返っているのであるぞ。そなたが不快をまき散らしたから不快であるのぞ。今ここはそなたの今までのすべての生で与えたものを受け取る時期であるぞ。調和を蒔いていたものは天国の実を刈り取れるぞ。不調和を蒔いていたものは地獄の実を刈り取るのぞ。地獄の実を刈り取らねば天国の実はならないのであるぞ。そなたに覚えがないものはそなたがいつかどこかで与えたものであるぞ。人は鏡であるぞ。鏡に文句言うのは自分に文句言っていることになるぞ。この方から見ればオカシキことをしていることになるのぞ。人のことをアホだと笑うそなたがこの方から見ればアホであるぞ。」
(西暦2000年ミロクの世が開かれる」神様からの手紙)
<どんなに苦しいことが、あっても辛抱肝心。決して人を責めるべからず。その者は、その状況は、それを見せてくるた存在に過ぎない。というのですが、・・・・>
「どんなに苦しいことが、あっても辛抱肝心。決して人を責めるべからず。自らのしたことが、今、目の前に結果として現れて居る。その者は、その状況は、それを見せてくるた存在に過ぎない。苦を避けると申す事は、楽を遠ざけてしまう事になる。人も自分も受け入れる、人も自分も許しあう、人も自分も認め合う事が、大事なのである。人を責めないということは、自らを責めないという事と同じ意味合いを持っている。反省する事、自らを追い詰めること、自らを嫌いになる事は、何の意味を持たない。未来や現在に何の変化ももたらさない。人は体験を通してのみ、成長できる。体験を恐がり、拒否している限り、何の成長もあり得ない。体験できた一つ一つが、自らの真実であり、答えなのである。自らを責めない代わりに、まず自らを受け入れることを身につけよ。次に自らを許すことを身につけ、最後に自らを許すということを身につけることになる。その体験を基本にすれば、人と係わるとき、その人が自らにしたごとくに人を裁くという事は、ありえないオカシキ事なのである。自らの内奥を見つめる心の目がつぶれていることにきづかず、人と争い、自らと争い、満たされない心でさまよい、疲れ切る。これが自業自得だと気づいた者は、何とオカシキ事にエネルギーを使っていた事かと思えるはずである。もうアクの争いは十分でござろう。」
(真のヒトになるための生き方 下)
引用文献(長谷章弘 ミロク入試の参考書、日月の神からのメッセージ)
今日までそして明日から / 吉田拓郎 [ MP3 ] 吉田拓郎のデビューバージョン
http://www.youtube.com/watch?v=xw-dWwenoQA
@人はだれかにしがみついて生きるものだ。
A人はだれかをあざ笑って時にはだれかにおびやかされて生きるものだ。
B人はだれかにうらぎられて時にはだれかと手をとりあって生きるものだ。
Cわたしには わたしの生き方がある。ですが、人というのはいつも心がコロコロ変わって私ってナ〜ニと思う毎日です。私って、人って、それはおそらく自分というものを知ることから始まるものでしょう。
そうです わからないまま生きてゆく。明日からの そんなわたしです。
わたしは今日まで生きてみました
時にはだれかの力をかりて
時にはだれかにしがみついて
わたしは今日まで生きてみました
そして今 わたしは思っています
明日からも
こうして生きて行くだろうと
わたしは今日まで生きてみました
時にはだれかをあざ笑って
時にはだれかにおびやかされて
わたしは今日まで生きてみました
そして今 わたしは思っています
明日からも
こうして生きて行くだろうと
わたしは今日まで生きてみました
時にはだれかにうらぎられて
時にはだれかと手をとりあって
わたしは今日まで生きてみました
そして今 わたしは思っています
明日からも
こうして生きて行くだろうと
わたしには わたしの生き方がある
それはおそらく自分というものを
知ることから始まるものでしょう
けれど それにしたって
どこで どう変わってしまうか
そうです わからないまま生きてゆく
明日からの そんなわたしです
わたしは今日まで生きてみました
わたしは今日まで生きてみました
わたしは今日まで生きてみました
わたしは今日まで生きてみました
そして今 わたしは思っています
明日からも
こうして生きて行くだろうと