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(回答先: ゴールドマン・サックスは、アメリカ経済支配層の政治的目的と共謀して、サブプライム危機を計画実行したのではないか 投稿者 DOMOTO 日時 2008 年 3 月 17 日 00:25:53)
「先を読める人、先を読める嗅覚を持った人が今必要とされます。吉田松陰のように。現体制派に暗殺されますが、......本当はこんな実力者が必要になります。私は興味がないので、遠くから見ています。近寄って怪我するのもなんだし。
ブ、ブ、ブレイナ、なんていわなくてもいいんですよ。 いいんですよ、そんなに改革改革って思わなくても。日本人と指導者の意識にかかっているのですか、・・・・・。何事も行くところまで行かないと、自然体が必要です。
日本の自由民主党では、神輿に乗るには軽い人がいいといわれますが、そして、担ぎ手がみんな沢山集まってワッショイワッショイと担ぎ汗を沢山かいて手柄を立てた人が次の神輿に乗ることに成るそうです。
これも第二次世界大戦後の高度成長でエンジンがかかったときはそれでいいですが、誰が大臣(デ〜ジンと読みます。公明党のボスの池田先生が言ったそうです)になっても官僚の作文と国民が豊かになる希望を持って働きます。だから、誰が大臣になってもいいですが、高度成長で国家に借金をさせて国家の財政が破綻し、アメリカが潰れようとする時、大混沌が待っている時は、55年体制の先生方と高級官僚を目指して東大に入って官僚になった人は一先ず、引いてもらいまして、実力派がひつようになります。
世界全体を見渡せる見識を持った人が大事です。
明治維新の時も、武家体制の崩壊の中から革新を担う人が出てきました。今も同じです。まあ、そんなわけで、今の体制派が壊れるのを待たなければなりません。それから新しい潮流が出てきます。
「歴史小説」の中に面白いことがかいてあるといった人がいます。彼か彼女によると、
@ひとつの体制が腐敗に次ぐ腐敗でしめられた時は、その体制内からは革新派は出てこない、
A改革派(吉田松陰、高杉晋作など)が出て新体制を説きますが、現体制派に暗殺されて、消えます。
B改革派の理念を実行に移す人間の一群が出てきます。
C改革が成功すると、新しい政府が出来て、その政府には改革実行者が去って行きます。人殺しは好きですが、ソロバンはじいて金儲けや政権闘争でイジイジするのが嫌いだからです。
D新しい政府が動き始めると、策略者とソロバンはじいて事務をする人が出てきます。
そして、汚職と腐敗が蔓延し始めます。
今は江戸時代の幕藩体制の末期に等しいのです。小物が一杯財界や官僚会や政界にでてめだかの学校をやっています。評価数えが蔓延します。テレビも新聞もこれが政治だと思っています。だれが生徒か先生かです。
世界がひとつの変革期にあると思います。体制順応者は去ることが必要です。社会が体制が動かなくなることも、国民にも必要です。冠がる事を始めてします。
イシヤのおじさん(出口王仁三郎の言い方)が袂のヒモを引いていますが、日本の指導者やアメリカの指導者がうまく出来ましょうか?
ピッチャー交代の蛍の光 阪神タイガースのフアンによる蛍バージョン(勝利を求めて)
http://www.youtube.com/watch?v=3h4nLqCN6J4
猫バージョン(悲しみを越えて)
http://www.youtube.com/watch?v=l6QutLLPRAY
(このポールソンさんの登場に意味があると思います。ここは着眼点です。福田内閣が組閣して、女性の経済担当大臣が日本は経済大国から落ちようとしていると言われましたが、自民党の派閥の長の席ではひそひそ話をしていました。こんな愚かな数で政治を決める人は去ることですね、実に不愉快でした。彼女が真面目に日本の真の姿を語っているのに、)
ヘンリー・ポールソン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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ヘンリー・ポールソンヘンリー・メリット・ポールソン(Henry Merritt Paulson, 1946年3月28日 - )は、アメリカ合衆国の実業家。1999年から証券会社ゴールドマン・サックスの会長兼最高経営責任者(CEO)を務め、2006年からジョージ・ウォーカー・ブッシュ大統領の下で財務長官を務めている。
目次 [非表示]
1 生涯
1.1 青年期
1.2 実業家時代
1.3 財務長官時代
1.3.1 財務長官への就任
2 市民活動
3 外部リンク
[編集] 生涯
[編集] 青年期
1946年、ポールソンはフロリダ州パームビーチで生まれ、イリノイ州シカゴ近郊の農場で育てられた。ポールソンはニューハンプシャー州のダートマス大学で英文学の研究を行い、1968年に文学士号を取得した。その後1970年にハーバード・ビジネス・スクールで経営学修士を取得し、ワシントンD.C.の国防総省に入省した。
ポールソンはハーバードで知り合ったウェンディと1970年に結婚し、後に2人の子供をもうけた。ポールソン夫妻はニューヨーク市とイリノイ州バーリントンに家を構えた。
[編集] 実業家時代
ポールソンは1970年から1972年までアメリカ国防総省において国防次官補のスタッフ・アシスタントとして勤務した。その後1972年から1973年まで、リチャード・ニクソンの大統領顧問ジョン・アーリックマンの補佐官を務めた。
1974年、ポールソンはゴールドマン・サックス社に入社し、シカゴの事業所で勤務を始めた。1982年にパートナーの1人となると、1983年から1988年までアメリカ中西部の投資銀行グループを統括し、1988年にシカゴ事業所の経営パートナーとなった。
1990年、ポールソンはゴールドマン・サックス社の投資銀行部門において経営担当責任者となり、1994年12月にゴールドマン・サックス社の社長兼最高執行責任者(COO)に昇格した。その後ポールソンは1998年6月からジョン・コーザインとともに共同でゴールドマン・サックス社の会長兼最高経営責任者を務め、1999年1月に単独での会長兼最高経営責任者となった。
2006年6月28日、ポールソンは財務長官への就任のため、ゴールドマン・サックス社の会長兼最高経営責任者を辞任した。辞任に際し、ポールソンにはゴールドマン・サックス社から会計年度の上半期分のボーナスとして1870万ドルが支給された。またポールソンは、自身の保持するゴールドマン・サックス社の323万株も売却した。時価総額は約4億8600万ドルであった。ゴールドマン・サックス社の会長兼最高経営責任者は、ロイド・ブランクファイン社長兼最高執行責任者が引き継いだ。
[編集] 財務長官時代
[編集] 財務長官への就任
ジョン・スノーの財務長官辞任と新財務長官の発表会見の写真。中央がヘンリー・ポールソン。2006年5月30日、ブッシュ大統領はジョン・スノー財務長官の辞任と、ポールソンの新財務長官指名を発表した。スノーの退任は事実上の更迭であり、大型減税や年金・医療改革などに関する国民への説明能力が問題視され、1年以上前から辞任の憶測が流れていた。後任にはポールソンの他、デイヴィッド・マルフォード、ロバート・ゼーリック、ドナルド・エヴァンズ、スティーヴン・フリードマン、カルロス・グティエレスらが挙げられていたが、ウォール街での実績などからポールソンが起用された。ポールソンは2006年5月30日の記者会見において「アメリカ経済の力強さと競争力の維持に努める」と語り、民間での豊富な経験を生かして責務を果たす意気込みを強調した。
同年6月27日に上院で開催された指名承認のための公聴会では、前任のスノー長官の路線継承を強調し、世界経済の不均衡につながる財政赤字、経常赤字の削減、米国の貯蓄率引き上げなどを課題として挙げた。その後ポールソンは6月28日の上院金融委員会で直ちに承認、続く本会議でも即刻承認された。就任には与野党とも異論がほとんどなく、公聴会翌日に議会手続きが終了する異例の速さの承認となった。そして7月10日、ポールソンは宣誓式を経て正式に財務長官として就任した。