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「排外主義」をグーグルで検索したら下記のような文章が上位2番目にありました。
面白かったので転載します。
人間を国籍によって差別的に扱う事をやめるという倫理を持つべきだと思います。
<台湾社会の政治空間 | 排外主義者、あるいは日曜サヨク...>
http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20080326/p1
2008-03-26排外主義者、あるいは日曜サヨク19
今ここで手を組めば、この人を助けることができる。そのような決定的な場面においてであるならば、悪魔とだって手を組むかもしれない。ただし、ほとんどの瞬間は、そのようなマンガみたいな決定的瞬間の遥か手前にあって、そのような地味な場面で考えられるべきことは別にある。
倫理が力を持つのが、倫理を語る者が腕力を持っているからであるならば、倫理など不要であり、ただ腕力だけがあればいい。そうではなく、倫理が、倫理であるがゆえの力を持つとすれば、それは何に由来するのか。仮にそんな力があるとすれば、それはそこで語られる倫理の一貫性に由来するはずである。倫理が、その恥じ入らせる力によって力となるためには、一貫性がなければならない。一貫性を欠いた倫理は、既に倫理としての力を欠いており、ただの飾りである。その一貫性を欠いた倫理要求が仮に受け入れられることがあるとしても、それは倫理として受け入れられたのではなく、ただ、それを掲げる者の持つ力ゆえに受け入れられただけのことである。その場合には、倫理を掲げることなく、ただ、持てる力を振るった、という場合と、ほとんど違いはない。この区別をきちんと踏まえておこう。
Aという問題で掲げた倫理を、Bという問題では掲げていない、というのであれば、それはまだ仕方のないこともある。あらゆる問題にコミットして、そこで掲げられるべき倫理を決定する、というわけにはいかない。十分には知らない問題、立場上見解を鮮明にできない問題、そうしたことはいくらでもある。しかし、その場合には、Aという問題で掲げている倫理を、Bという問題では掲げないのかと、ただ、たずねてみればいい。オモテで語ることに差し支えがあるなら、相応の私的な領域で確認すればいいこともあるし、あるいは、ただその人の普段の言動や態度から察して信頼するだけでもいい。──ただ、Aという問題で掲げた倫理に対して、Bではその正反対を主張していた、というのであれば話は別だ。「すべての問題にコミットできない」ということと、「首尾一貫したコミットをしていない」ということとは別だ。
ここで問題にしたいのは後者だ。つまり、Aという問題で掲げた倫理を、Bという問題に際しては否定していた、という場合を考える。この場合には、この人が主観的にはどう思っているのであれ、倫理が持つそもそもの力を破壊している。主観的には善意もあるのだろう。しかし、このようなダブルスタンダードを用いる人こそが、人を助けるよすがとなる倫理を破壊しているのである。中国をチベット問題について非難するとき、ロシアにとってのチェチェンはどうか、アメリカにとってのイラクやアフガニスタンはどうか、イスラエルにとってのパレスチナはどうか、日本における戦争責任の問題はどうか、アイヌや沖縄はどうか、これら諸々の問題との一貫性を欠いた非難である限り、それは倫理としての力を持ち得ない。それでも、こちらの腕力が相手より強い場合ならば、相手は言うことを聞くこともあるだろう。しかし、それは、既に「倫理としての」力ではない。──だから黙れ、というのではない。逆だ。Aという問題で掲げた倫理を固守するために、Bという問題で掲げた非‐倫理をきちんと問い直せ、と言いたいのだ。仮にすべての問題にコミットして語ることはできないとしても、矛盾したことを語らないことはできる。
是々非々などという言い方がある。しかし、それは、問題が複数の論点に切り分けられるということが前提だ。切り分けられる問題もあるだろうが、そうでないものもある。少なくとも、右手で殴っておいて左手で握手しているとき、「左手はよいが右手がけしからん」ということは、できないことはないがマヌケだ。──そこで守られるものが、ある具体的な誰かの尊厳や権利であるならば、Xの尊厳や権利を守ることとYの尊厳や権利を守ることは別の問題、「是々非々」の問題であるだろう。しかし、尊厳や権利とは、そのように切り分けられる概念なのか。違うだろう。尊厳とは、「万人が要求しうる」尊厳であるし、「万人が要求しうる」権利のはずだ。すべての人において守られるものなのだ、少なくともそれが目指されているのだ、という私たちの意思や行動と結びついて、それは初めて「尊厳として」「権利として」守られるのである。人の生命や生活を「尊厳として」「権利として」守るとは、そういうことのはずだ。ゆえに、この意味においては、問題は切り分けられず、「是々非々」などと言うわけにはいかない。
「尊厳として」「権利として」ではなくとも、ともかく、具体的なこの人の生命や生活を守るのだ、ということもあるだろう。そのときには、尊厳、権利という概念を壊しながらでも、守ることもあるだろう。そういうことがあることを否定しない。しかし、そのときには少なくとも尊厳だの権利だのと口にするのはやめることだ。そんな決定的な瞬間とは別に、ただ倫理の倫理としての力を使うしかないほとんどすべての瞬間においては、尊厳や権利という概念を擁護し続けることが、人の生命や生活を守るチャンスを増やすことにつながる。ゆえに、冒頭述べた「遥か手前」においては、日常的に堂々と尊厳や権利を踏みにじり続ける輩は、きちんと批判されなければならない。握手している左手を振りほどいてでも、その右手がやっていることをやめさせなければならない。──そして、ハッキリと言っておくが、日常的に尊厳や権利を白眼視し、小バカにし、踏みにじってきた、あるいはそこまでではなくとも、少なくとも無関心によって見殺しにしてきたあなた/わたしこそが、今日の事態を招いたのだということを、肝に銘じておかねばならない。「是々非々」によって覆い隠されるこの欺瞞を撃たなければ、そんな悲劇をなくすことなどできないだろう。
追記(ブクマコメントへのレス)
id:y-yoshihide 理想論としてはいいけど、本気で適用すると人類に何も主張するな、語るなと言っているに等しいし、現実と突き合わせるとその非人間性が浮かび上がって来る。
……。本文中に書いてあることをもう一度繰り返す。「だから黙れ、というのではない。逆だ。Aという問題で掲げた倫理を固守するために、Bという問題で掲げた非‐倫理をきちんと問い直せ、と言いたいのだ」。
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