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『日本人はこうして奴隷になった』林秀彦/成甲書房‘08年より
〈日本人の容貌退化〉
「岡潔さんは、生まれて初めて女子大(奈良女子大)の教壇から数多くの若い女性と対面し、そのバカヅラにびっくり仰天なさったらしい。」
「バートン・ホームズというアメリカの写真家は、明治25年(1892)に来日して以来、昭和10年までの間、日本各地の風景と人物を撮りまくった。その写真集が残っている。そして被写体になって残っている日本人たち!
明治から昭和初期まで、日本にバカヅラが一人もいなかったのである!
これには、実に、本当に、まったく驚いた。心底、驚いた。
農村の子供たち、子守の少女、人力車の車夫、神官、僧侶、駅の赤帽、行商人、芸者、徒歩の旅人、船頭、旅館の女中、いや、生まれたばかりの赤ん坊からよぼよぼの老人にいたるまで、一人としてバカヅラが写っていない。
目を疑う。美醜を言っているのではない。ブスであっても、ブ男であっても、まず何よりも凛としているのである。品があるのだ。日本人独特の品である。
特に子供たちの顔がいい。まるで今の子と別人種、他の惑星の高等動物だ。
ホームズの写真だけが例外ではないのである。青年時代の北原白秋が、友達や仲間と撮った写真が残っている。誰もが着ているものはほとんど粗末な和服で、ぐりぐり坊主も多い。それでいて、全員、実にいい顔をしている。
きりとしている。爽やかで、涼しげである。目に力があり、背筋が伸びている。
役者でも、押しなべて言えるのは風格の差だ。
人足や強力と呼ばれる下層階級の人たちにすら、現在の日本人にない風格があるのだ。女学生のころの朝吹磯子の和服(制服)姿は、ふるいつきたくなるような美しさであり、恋をするならこういう日本女性でなくてはならないと思わせる。今こんな美しさ、つまり品性としとやかさと、秘めた情熱を持った日本女性を探そうとしても完全に不可能だろう。
明治36年に撮った初めての早慶戦で、両校のナインが写っている写真など、その顔つきだけ見れば、今と同じ日本人の同じ大学の生徒だとは、とても信じることができないのである。
古い日本の風景とそこに写る日本人の顔は、それこそ日本であり日本人だと言える実体だったのである。美男・美女である必要のない、だが、他の東洋人とも確実にどこかで一線を画する「日本人の顔」というものがあったのだ。
それは岡潔さんに言わせれば日本人の情緒であったろうし、私の判断では日本人の知性だったはずだ。
(ヤブ人)
いやいや、頭痛てえ〜、いや顔が痛てえ〜。拙者、顔見られんでよがったー。
政治家でも締りのねえスキだらけの顔したもんもおるなあ〜。坊さんでも人相悪いのが目立つとテレビ見ながら時々思っちょる。確かに最近の大学生でも、頭小さく高校生の延長みてえに子供っぽいという強い印象を持ったことある。
赤ん坊でも立派な顔しておったちゅうのはショックじゃて〜。
日本女性って言えば、拙者、女優・長谷川京子がええと思う。林先生は、吉永小百合だけ挙げておるがの〜。