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映画『靖国』上映中止問題を考える時、戦前、戦後の検閲をまったく考慮に入れないなどということは考えられない。映画の試写が宣伝目的以外に歴史修正主義者の要望で開かれるという異常事態は、普通の感覚では事前検閲と呼ぶ。私のこの文章は、稲田朋美が発表前に見せろ!と要求しても私は絶対見せないが、稲田の行為を擁護するような連中は、果たしてどうするのであろうか?
戦前、日本に住む住人は権力に唯々諾々と従い、あるいは狂喜して従い、大量虐殺の加害者になり、その後、侵略者同士の戦争で大量殺戮の被害者にもなった。いずれにしても権力に従順になることの罪の重さを自覚したはずだが、新たな占領者もまた、巧みにあるいは露骨に検閲を繰り返した。その効果の結果は絶大で、日本に住む住人は、またしても権力に従順なメダカ社会(注:本多勝一曰く)の住人になってしまったのかもしれない。
そういうわけで、GHQの検閲を取り上げるが、ここでは検閲と経済的損失との関係でそれを取り上げる。
まず江藤淳の意見から―─。
▼石原慎太郎、江藤淳『断固「NO(ノー)」と言える〜日本戦後日米関係の総括 』(光文社)より―─(注:孫引きゆえ引用不正確の場合あり)
・・・昭和20年から23年にかけて、大体東京裁判の決着がついた頃から事前検閲は事後検閲に移行しました。事後検閲とは何かというと、一応自由に書いてはいいのだが、刷り上ったものを占領軍CCDが見て、これはけしからん、となったときには回収断裁されたのです。裁断されれば事実上発行ができなくなるばかりでなく、版元も著者も莫大な損失を受けます。新聞に限らず書籍もそうでした。一番大変だったのは映画でしょう。投下資本が大きいから、一本撮り上げて、試写で事後検閲されて、「ダメ」と言われたら、何千万円、何億円という大金が全て無になってしまう。東宝もひどい目にあっていますが、日映などという左翼系の会社は、事実上検閲でつぶされたようなものです。・・・
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事後検閲といえば、戦前の帝国憲法下で検閲を想起するが、亀井文夫によると―─
▼「チャタレイ裁判」と検閲の影
http://homepage2.nifty.com/k-sekirei/otaru/chatterley.html
2005年8月14日(書き下ろし)
亀井 秀雄
・・・事前検閲の場合は、好ましからざる内容と判断したものについて、原稿を没収し、あるいは印刷を禁止して、発禁(発行禁止)の痕跡を消してしまうことができる。だが、出来上がった製本二部を提出させる事後検閲の場合は、出版法の第十九条に言うように「安寧秩序ヲ妨害シ又ハ風俗ヲ壊乱スルモノト認ムル文書図画ヲ出版シタルトキハ、内務大臣ニ於テ其ノ発売頒布ヲ禁シ其ノ刻版及印本ヲ差押フルコトヲ得」という方法を取るしかなかった。この「発売頒布ヲ禁シ」が、日本で言う〈発禁〉なのであるが、ここに抜け道を見出した出版社は、製本二部を内務省へ届けると同時に、いち早く書店に卸したり、読書会などの配布網の責任者に郵送したりして、読者の手に渡る策を講じた。発売日となり、内務省の指示で警察が押収にやってくる、その僅かな時間に、できるだけ多くの部数を売り捌いてしまおうというわけである。
おかげで、日本では相当部数の発禁(発売禁止)本がひそかに流通することになったわけだが・・・
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出版社などが発禁処分での製本の山という経済的損失を考慮すれば、事後検閲が自己検閲になるのは明白で、だからこそ自主規制の結果としての伏せ字が戦前の出版物には多々見られるのである。
映画『日本の悲劇』が、観客からの野次やスクリーンへの下駄投げつけなどにもあいながら上映されていたのだが、1946年8月に突然上映中止にされたが、上映禁止の影響は以下のようなものである。
▼ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて 下』(訳―─三浦陽一、高杉忠明、田代泰子、岩波書店)
(第14章 新たなタブーを取り締まる―─検閲民主主義 )
p233〜
・・・『日本の悲劇』は、撮影済みフィルムを構成して作られたにもかかわらず、その制作費映画会社の日映にとって相当な負担になった。・・・印刷媒体にとっても、直接の出版禁止処分はもちろん、発行の遅れも資金的には大打撃となりうるために、そこで働く人も同じように、真に思うところを表現することにかかる会計帳簿上のコストの方を気にかけるようになった。
※同書注より:映画『日本の悲劇』の制作費55万7千円の見積り、当時としては巨額。
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新聞が事後検閲になった時、朝日新聞の出版局長が、「事後検閲ほど怖いものはない、全部自分にかかってくるから注意せよ」と言ったとか・・・、検閲があれば、経済的損失以外にも当然自主規制はつきものです。
で次に、戦後、憲法で検閲が禁止された日本での自己検閲、自主規制などについて見てみましょう。
「検閲と経済的損失」に似ているものに、出版社、新聞社などと広告主との関係があります。あまり知られていませんが、テレ朝日系の「報道ステーション」が原発問題の特集番組を3日連続のやる予定が、東京電力のCM引き上げ圧力で一回だけの放映で中止されました。またテレビや新聞に巨大広告主の本質的トヨタ批判などまずのりません。前者は事後検閲のようなもので、その威力は絶大です。テレビ番組での原発批判などほとんどありません。というより、今起きている事実をほとんど伝えませんから、問題として把握さえされることさえありません。といわけで、地震大国日本がその活動期に入り、東海地震が今後、高確率で起こることが分かっていて、なおかつ、絶対原発を建ててはいけない場所に浜岡原発が5基あり、現在2基稼働中という驚くべき現実が、なんら危機として認識されていません。
ひょっとして日本は、明日、破産・破滅する(注:東海地震だけでも損害は甚大ですが、それでも復興はできるでしょう。ただ、浜岡原発が同時に暴走すれば日本は破産します)かもしれないのですが、そんなの関係ない、オリンピックだ!聖火リレーの妨害だ!チベットに自由だ!と今メディアに煽られているわけです。もちろん、最低限やるべきこと―─浜岡原発を止めること―─をしているなら、メディアは何をやろうとも自由です。その自由は極めて恣意的ですが、少なくともメディア・リテラシーがあれば、対処もできるでしょう。
結局、唐突な不自然な皮肉な結論になりますが、つぎのようになります。
日本低国の住人は、検閲で戦前、戦後にわたり多大な惨禍を経験してきたが、それでも破滅を免れてきた。確かに原爆の被害の周知を米国に妨害され、そしてビキニ環礁被曝事件後の反米反核運動も、CIAと結びついた正力松太郎のテレビの洗脳で、沈静させられてきた。そう「原子力の平和利用」などいうイカサマに騙されてきた。それでも21世紀になって、地震活動期になったのだから、55基もある原発の暴走も現実的なものになったのだから、どのような「検閲下」でも、最優先緊急課題として、テレビも新聞も雑誌なども、最低限やるべきことをやるべきだった。だいたい検閲のある社会に住みたい物好きな人間だって、生きていなければそのファシズム社会を経験できない。
・・・
日本低国の住民は凄惨な未曾有の災害のあとに、そう、やっと・・・原発・反核などに対する問題に限り、検閲のない社会にはじめて住むこととなったのである。・・・
※追記:映画『日本の悲劇』上映禁止の理由―─。
▼ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて 下』(訳―─三浦陽一、高杉忠明、田代泰子、岩波書店)
(第14章 新たなタブーを取り締まる―─検閲民主主義 p230〜)
p231〜232
・・・東宝、松竹、日活という大手はすべて、自社の映画館でこのドキュメンタリーを上映することを拒否した。イデオロギー的配慮というより採算を考えた結果のようだが、のちに亀井が語っているように、はじめのうちは観客から野次がとんだし、スクリーンに下駄を投げつける客もひとりいた。それほど注目も集めず、ようやく好奇心の強い観客―─日に2500人程度―─の関心をひきはじめたところで、1946年8月、GHQによって突然上映が禁止された。・・・
・・・
しかしウィロビー少将自らの介入で、封切りの約3週間後には、プリントもネガもすべて没収されてしまったのである。ウィロビーの介入は、吉田茂首相の要請によるものだった。亀井の天皇の扱い方を不敬とみた吉田が、ウィロビーの側近ふたりに、この冒涜的作品をいっしょに見てくれるよう説得したのである。ウィロビーの側では、天皇の戦争責任を問わない占領軍の政策が暗に批判されていることのほうにもっと困惑していた。・・・