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株式日記と経済展望
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu180.htm
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/
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私たちの生活や教育の場から日本語が締め出される可能性よりも、
「英語の世紀」が日本語という言語の脅威になることはないでしょう。
2008年11月19日 水曜日
◆日本語が亡びるとき ─英語の世紀の中で 水村美苗:著
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480814968/
◆「英語の世紀」など到来しない――水村美苗『日本語が亡びるとき』を読む1 11月16日 平岡公彦のボードレール翻訳日記
http://geocities.yahoo.co.jp/gl/hiraokakimihiko/view/20081116/1226834170
(前略)
ご存知のとおり、現在でもすでに多くの学問分野において、最先端の成果が英語で書かれ、読まれ、蓄積されるということは起きています。それはそれらの学問分野のイノベーションを英語圏の研究者がリードしていることに起因しており、英語の優位はその結果でしかありません。
水村さんの主張のオリジナリティは、来るべき「英語の世紀」では英語圏の国がリードしていない学問分野においても英語の優位が発生すると主張している点にあります。
「英語の世紀」では、国籍を問わず、あらゆる学問分野のエリート集団は事実上英語圏に包摂され、英語以外の言語はすべて学問の用をなさない〈現地語〉に格下げされることになります。
水村さんの主張の当否は、この「あらゆる」がほんとうに起こるかどうかに懸かっています。この「あらゆる」が起こらないのであれば、現在の状況がそのまま継続するだけですし、もちろん各国語の全面的な衰退も起こりえません。
「英語の世紀」の具体的なイメージを、水村さんはアリストテレスを例に次のように説明しています。
アリストテレスがいまだ読まれ続けているのは、かれの書いたものが〈テキストブック〉には還元できない〈テキスト〉でもあるからにほかならない。人はアリストテレスを理解するためには、最終的にはかれの〈テキスト〉へと戻らざるをえない。これから先も、ギリシャ哲学の専門家はアリストテレスをギリシャ語で読み続けるであろう。だが、英語の世紀に入り、〈学問〉が英語に一極化されるにつれ何がおこるか。それらの専門家も、アリストテレスにかんして何かを書くときは、〈自分たちの言葉〉で書かずに英語で書くようになる。すると、アリストテレスの引用も、〈自分たちの言葉〉に翻訳したものではなく、英語に翻訳したものを使うようになる。その結果、アリストテレスにかんして書かれたものが英語で流通するようになるだけでなく、しだいしだいに、アリストテレスの〈テキスト〉そのものが、英訳で流通するようになるのである。
(水村美苗『日本語が亡びるとき』筑摩書房 2008年10月 pp.251-252)
哲学以外の学問分野においても、水村さんはこのような状況がどこの国でも生まれると想定しています。
しかし、ほんとうにそんなことが起こるでしょうか?
センセーショナルなタイトルから誤解される方も多いと思いますが、水村さんは「英語の世紀」になっても各国の〈国語〉が消滅してしまうとまでは言っていません。
ですから、この例を日本に当てはめて考えるなら、アリストテレスの翻訳が、すでに日本語訳が流通しているにもかかわらず、英訳のほうが優先的に読まれるようになる事態を指します。
そんなことはありえない。
アリストテレスならよもや、と思う方がもしかしたらいらっしゃるかもしれません。
ではほかの哲学者ならどうでしょう。カントは? ヘーゲルは? ニーチェは? いや、西洋哲学に限りません。孔子は? 孟子は? 老子は? と列挙していけばその非現実性はますます際立ってきます。
もちろん、なによりもまず原典を重視する文学研究や哲学研究の世界で原典よりも英訳が〈テキスト〉として尊重されることなど絶対にありません。翻訳者の理解が正しいかどうかは常に疑問に付される余地があります。無論ボードレールの場合も同じです。
もう少し一般化するなら、英語は〈国語〉から各国固有の歴史的・文化的蓄積に根ざした学問の主導権を奪いうるでしょうか? そもそも、そんなことを各国のナショナリズムが容認するでしょうか?
私にはどこまでも非現実的な予測としか思えません。
水村さんの主張のおかしさの最大の原因は、学問のゴールを「国際的に活躍する研究者になる」ところに置いている点にあります。
学問をするとは、苦労して英語で書き、なんとか国際的に活躍するしかないところまで、現実は動き始めているのである。たとえ日本にかんして何かを書くにしても、大きな問題を扱えば扱うほど、英語で書いたほうが意味をもつのだから当然である。
(水村美苗『日本語が亡びるとき』筑摩書房 2008年10月 p.256)
以上のとおり、研究成果の海外での評価しか眼中にありません。
ですから、「学問の成果を社会に還元する」プロセスが完全に抜け落ちています。でなければ、「各国語が学問的には空洞化する」などという短絡的な発想が出てくるはずがありません。
たとえば、日本の社会学者や心理学者や経済学者が、日本国内の問題を真剣に考え、発言しなくなるとすれば、彼らの存在になんの意味があるでしょう?
それらの学問が日本で意味を持つためには、あくまで日本の現状と真摯に向き合い、その改善に資する研究成果を日本人に日本語で届けていくしかありません。外国人に英語で読んでもらったってしょうがない。
学問は、その性質上、本来〈普遍語〉で行われるものだという水村さんの主張に一定の真理を認めつつも、その学問が広く人々に普及するためには〈国語〉を必要としたという事実もまた忘れるべきではありません。
ここで明確にしなくてはならないのは、「学問的叡知の蓄積」という言葉によって想定されている事態の具体的なビジョンです。
私はそれが「あらゆる学問分野における最先端の成果が英語圏にのみ囲い込まれ、それ以外の言語圏には伝達されなくなる」という事態でないのであれば、危機感を感じなければならない必要はまったくないと考えます。
実際、そのような状況がこれだけ情報通信技術が発達した現代において生じうるとは到底考えられません。だれもが欲しがる重要な情報は善悪を問わず確実に流通します。原子爆弾の製造法でさえ世界中に広まったという事実を私たちは歴史から学んでいます。
その成果が滞りなく普及するのであれば、最先端のイノベーションがどこの国で起ころうと、享受する側にはまったく関係のない時代に私たちは生きています。
イノベーションをリードすることによって名誉を得たいと考える人や、イノベーションの流れにいち早く乗ることによって利益を得たいと考える人にとって英語は不可欠に重要なものであり続けるでしょう。しかし、圧倒的多数のそれ以外の人たちにとって英語が今よりも重要になるとは考えられません。
情報はそれが重要なものであればあるほど即座に伝達されます。
それが発信者や媒介者に利益をもたらすような情報ならばなおさらです。特に情報の伝達のためのハードルが高ければ高いほど、そのハードルを越える能力のある人が得る利益は大きくなります。
言うまでもなく「言葉の壁」も例外ではありません。
英語圏で起こるイノベーションはそれ以外の言語圏を一時的にフロンティア化します。そのあいだであれば、ただ英語圏からその成果を紹介するだけで他の言語圏で有利な立場に立つことができる。このチャンスを利用しようとする人がまったくいなくなるとは到底考えられません。
イノベーションをリードすることはできなくとも、「ついて行く」ことはできます。
世界のトップ集団について行くことができる少数の人材を常に国内外に確保し続けることができれば、その言語圏は「遅れを取る」ことはあっても「取り残される」ことはありません。事実、日本はそのようにしてここまでの発展を実現してきました。
愚かな為政者の血迷える政策変更によって私たちの生活や教育の場から日本語が締め出される可能性よりも、「英語の世紀」が日本語という言語の脅威になることはないでしょう。
ただし、「英語の世紀」への過剰な危機感の増大が為政者の判断を誤らせる可能性はあるかもしれませんが。
◆「日本人にとって英語とは何か」 2006年11月14日 日本人の教育
http://kykshnhiro.jugem.jp/?eid=23
(前略)
では、なぜ「ネイティブスピーカーの英語」ではいけないのか。その前に言語の性質について少し話をします。言語というのはその国の文化や国民性と密接な関係があります。両者は切っても切り離せない仲です。例えば、日本人の性格や文化は日本語なくしては存在し得ません。日本語が私たちを日本人たらしめているのです。
我々がもしスペイン語をしゃべっていたら、歌舞伎のような古典芸能は生まれていません。「おじぎをする」という習慣も存在しないでしょう。皆さんは、「思い」と「ことば」はどちらが先だと思いますか?頭の中で「思う」から言葉にできるのか、「ことば」があるから思うことができるのか。正解は後者です。言葉がなければ「ものを思う」ことができないのです。
犬や猫には言葉がないので、「思考」がありません。そして動物には「文明」や「文化」はありません。なぜなら言葉がないからです。人間には言葉があり、ものを考えることができるので、文明が生まれ文化が発展しました。しかし文明・文化は使う言語によって多種多様です。どの民族もその国に生まれたからには、先代から連綿と受け継がれてきた自国の伝統・文化を責任を持って育み、次世代につなげていく義務があります。そして「伝統・文化を受け継ぐ」ためにまずしなくてはならないことは、「自国のことばを大切にすること」です。
ところが現在の日本を見るとどうでしょう。街には英語があふれています。お店の看板などもアルファベットやカタカナばかりです。面白いことにTシャツなどには必ずと言っていいほど英語や他の外国語がプリントしてあります。日本語が書いてあるものはむしろ「変わったTシャツ」です。日本人はなぜもっと日本語を世界にアピールしないのでしょうか。
類希なる経済大国であるにもかかわらず会社名もそのほとんどがアルファベットですし、世界に誇る日本車のネーミングもほぼ100%アルファベットでしょう。外国で日本車に乗っている人からしてみたら、漢字の車名であればブランドとしての価値も上がってうれしいはずです。せっかく高性能な日本車に乗っているのにアルファベットだとどこの車だか分からない。
昔から国内で漢字廃止論が出たり、英語公用語化論が出たりと、ある意味日本人は世にも珍しい、自国語を粗末に扱う民族です。それは有史以来、今日まで他国に侵略されて言葉を奪われたという経験を持たない日本の特徴かもしれません。
現在世界にはおよそ6000の言語があると言われています。その中には、話者総数が10人、20人という絶滅寸前のものもあります。そんなことは知らず、日本では小学校にまで英語教育を導入しているという有様です。国語もろくに出来ない子供に英語を教え込む危険性を日本人は知らない。私たちは日本語をもっと大切にするべきなのです。
やっと本題です。なぜ「ネイティブスピーカーの英語」は問題か。これを説明するには本当は10枚くらいプリントが出せるといいのですが、それでは誰も読んでくれないので、国を米国に絞ってすごく端的に理由を言うと、@アメリカ英語を学ぶことが、米国の文化や生活様式をもれなく連れてくる、A守るべき日本の言葉・伝統・文化が廃れていく、B日本がダメになり、世界がダメになる、ということです。
「言語が文化と密接につながっている」ことは前述の通りです。終戦直後の日本人は、アメリカの生活様式にあこがれました。家中に行きわたる暖房や、冷たい冷蔵庫など、夢のような生活です。しかし、世界に誇る経済大国、技術大国となった現在の日本にはもはやアメリカから文化的なもので得るものはありません。むしろ科学技術などはこのへんにして、物質的に豊かになりすぎたこの国を自然と共存するような方向に向かせるべきなのではないでしょうか。
アメリカという国は立派な人がいたり素晴らしい点もある反面、まったく真似すべきではないこともたくさんあるのです。アメリカ在住者による世界資源の消費率(世界比)は33%にもなるという報告もあるくらいです。つまりアメリカ式の生活を維持するためには莫大なエネルギーの消費が必要になるのです。さらに有毒性廃棄物の排出率も半端ではありません。
アメリカ一国だけだから世界はなんとかもっているのであって、これを世界中の国々がやってしまうと地球はたちまちパンクしてしまう。ここに英語を米国の母語として学ぶことの大いなる危険性があります。いかに猛勉強して英語が達者になっても、カッコつけてアメリカ式の生活などするものではないのです。
日本のように、国を挙げて全国民がある特定の外国語を習得しようという意向自体が実は大変危険なことです。自国の言葉や文化を絶滅の危機に追いやる可能性があるからです。しかし世界と渡り合っていくには英語をやらないわけにはいかない。だから日本の全国民が十分注意して英語学習に取り組まなくてはならないわけです。
そのためには、まず英語はあくまでも世界共通語であって英語国の所有物ではないのだと認識することです。そして英語の前に正しい国語と日本史をしっかりと勉強すること。英語圏の文化が入ってきたことによって押しつぶされた日本の良き文化はたくさんあります。英語学習はやり方によっては日本の文化を根こそぎ抹殺できるほどの力を持っているのです。アメリカかぶれになるのではなく、日本人としての誇りを持って英語学習に取り組むことが大切です。
★ 今後、日本の英語はどうあるべきか
これ以上の英語国文化の日本への入り込みを阻止すると同時に、日本には成すべき使命があります。それは、世界中へ感謝の気持ちを込めて日本の素晴らしい部分を発信していくことです。日本人は今日まで、その極めて稀有な性格をもって様々な文明・文化の良い部分を吸収し、経済・技術面において大国となることができました。
そして今、世界への恩返しをするときなのです。日本の素晴らしいところは、多神教を基とした自然崇拝・先祖崇拝の精神、森羅万象との共存の精神を捨てることなく、類希なる謙虚さ・勤勉さをもって他国の優れた技術を手に入れたことです。今こそ日本人は自らの長所を再確認し、誇りを取り戻して、その素晴らしさを世界にアピールするべきなのです。そして、皆さんの英語がその日本の精神を伝えるための「道具」であってほしいと願っています。
英語はべらべらカッコよくしゃべることができればいいというわけではありません。しゃべる内容がなければ全く意味がない。他国の人からも決して尊敬されません。大げさではなく、間違った英語学習は日本を崩壊させる根源だと思います。逆に私たち日本人が「道具」としての英語を上手く使いこなせば、日本を活性化させ、世界を平和へ導く大きな宝となるのです。それこそが私たちが英語を学ぶ最大の目的です。決して、ペラペラになって米人友達を作り優越感に浸るためでもなければ、海外旅行中のショッピングを快適にこなすためでもないのです。
◆日本の基礎科学がどうして強いのかについては様々な理由があるが、私が見るに、日本語で学問をするという点も大きいようだ。韓国日報 10月10日 株式日記
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/e/14d2499f8076680e26530cad5d60e2a3
(私のコメント)
ネット上では水村美苗:著『日本語が亡びるとき』という本が、梅田さんも小飼さんの書評などで話題になってベストセラーになっているのでしょうか? 大きな本屋で探しても見つからない本なので、私はこの本を読んではいないのですが、英語論に関しては今までも書いてきたので、コメントを書いて見ます。
最近では国際会議でも英語が公用語のようになってしまっているようで、米英の代表はともかくドイツ人もフランス人もEUの会議では英語で演説しているようだ。だからG7の会議でも日本の首相だけが会話に加われずにぽつんとしている例が多いのですが、麻生総理は例外的でスタンフォード大学院やロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに留学するなど英語がぺらぺらだ。
その代わりに漢字の読み取りが出来ないようで、総理大臣としては信じられないような漢字の読み取り能力のようだ。国会の答弁や演説の原稿などは役にいたちが書いたものを読むだけなのですが、自分で書いたものなら読み間違いするはずがない。
◆麻生首相:漢字は苦手? 頻繁に読み間違い 11月13日 毎日新聞
http://mainichi.jp/select/seiji/news/20081113ddm005010124000c.html
国会答弁やあいさつで、麻生太郎首相=似顔絵=の漢字の読み間違いが目立っている。12日に母校の学習院大学で行われた日中交流行事のあいさつで、用意された原稿では日中首脳会談に関し「1年のうちにこれだけ頻繁に首脳が往来したのは過去に例がない」とあったが、「頻繁(ひんぱん)」を「はんざつ」と読み誤った。
7日の参院本会議では、政府が過去のアジア諸国への侵略行為を謝罪した「村山談話」を「踏襲(とうしゅう)」と言うべきところを「ふしゅう」と答弁した。
首相は12日夜、記者団から「読み間違いが多いという印象がある」と指摘され、「そうですか。単なる読み間違い」と答えた。【塙和也】
(私のコメント)
このように、有無(ゆうむ) 詳細(ようさい) 踏襲(ふしゅう) 前場(まえば)措置(しょち) 頻繁(はんざつ) 未曾有(みぞゆう) と頻繁に読み間違いするのは、高等教育を受けた日本人には考えられない事だ。だから漢字の多い本を読むのが苦手でマンガを読むようになったのだろう。つまり海外留学が長くて頭が英語脳になってしまって漢字を受け付けなくなってしまったのだ。
このようにバイリンガルと言うのは安けれど、複数の言語を完璧に身につけることは不可能だと思う。つまり英語も日本語も100%読み書きできる人は存在せず、英語が100%なら日本語が50%程度の能力だったり、両方とも50%だったりする。会話程度ならどちらも出来る人は沢山いるが、専門分野の事までのレベルになると片方でさえ難しいのだから両方はまず無理なのだ。
だからどちらかの言語を100%身に付けてから外国語を50%とか70%まで身に付けていく事しかないだろう。気の毒なのは海外生活が長かった帰国子女たちであり、十分な日本語教育を身に付ける機会がなく、日本語も外国語も不十分なレベルでいた場合は悲劇だ。最初から自分の子供をアメリカ人として育てるつもりなら子供の頃からアメリカに留学させるのもいいが、そうでないのなら子供のうちから英語教育は無駄だ。
去年、韓国人でアメリカで33人殺害した犯人は8歳でアメリカに来た事で、韓国語も英語も不自由なまま育ち、発音など馬鹿にされた事を根に持っていたようだ。だから一つの分野のエキスパートになってアメリカで仕事をするようになって英語を必要に迫られてから勉強したほうがいいのだろう。それなら英語が下手でも当たり前であり馬鹿にされる事もない。
「日本語が亡びるとき」という本は読んではいないのだから書評するわけには行かないのですが、発展途上国においては高等教育は英語やフランス語などでないと出来ない状況になっている。英語で書かれた専門書を翻訳しようと思っても該当する言葉がなくて翻訳できないのだ。中国人や韓国人の異常な数のアメリカへの留学は自国では十分なレベルの教育が出来ないからだろう。
◆日本がノーベル賞を取れるのは自国語で深く思考できるから。我が国も英語ではなく韓国語で科学教育を行なうべき [10/09] 韓国日報
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1223507539/-100
日本は初等・中等過程はもちろん、大学でも日本語で科学を教える。そのため、西洋で発達した科学を日本語に訳すのを当然の基礎過程だと考えている。漢字文化圏である東洋4国があまねく使っている「科学」「化学」「物理学」などの用語自体が、アルファベット圏言語を自国語で把握しようとした日本の知識人たちによる翻訳の所産だ。「素粒子」「陽子」「電子」などの用語も、すべて日本人が作ったものだ。
そのおかげで、日本人にとって世界的水準で思考するということは世界で一番深く思考するということであり、英語で思考するということではなくなった。これは外国語が苦手といわれる日本人たちが基礎科学分野でノーベル賞を多く取っていることや、益川と小林の研究が日本の大学から誕生したことにもよく現われている。
一方我が国は、小学校・中学高校過程では科学の基本概念をきちんと把握する教育をしないで、大学に入ると突然英語で科学を教える。名門大学であればあるほど、理学部・工学部・医学部の物理・化学・生理学などの基礎分野に英語教材が使われる。内容理解だけでも不足な時間に外国語の負担まで重なっては、韓国語で学ぶ場合に比べると半分も学べない。韓国の基礎科学は外国に留学に行くことを初めから想定して教えているわけだ。
(私のコメント)
もし日本の大学が英語で教育がなされるようなことになれば「日本語は亡びる」かもしれない。株式日記でもアイルランドがアイルランド語を失い英語が公用語になった悲劇を書きましたが、それはつい最近の出来事なのだ。やがてはドイツ人もフランス人も英語を公用語として使い、ドイツ語やフランス語は現地語として消えていく運命にある。アイルランド語が消えてしまった事がそのいい例だ。
◆アイルランド語を失ってしまったアイルランドの悲劇 母語を失った人々の悲哀を通して学ばなければならないことがあるのではないだろうか? 2007年11月15日 株式日記
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/e/6fcab8e94277cd9459f579f4a4ff371b
田中氏も言っているように、日本は自ら進んで他国語を公用語にしようとしている珍しい国民だ。最近は小学校も英語教育が義務化されているが、文部省はまさにアメリカ政府の出先機関なのだ。アメリカ軍の基地が日本に存在する限り英語教育の強制はますます広まっていくだろう。それに対して日本国民は10年間も英語教育を受けても英会話一つ出来ませんが、これは国民の一つの抵抗運動だ。
アイルランドはほぼ母国語を失う事でアイルランド文化を失ってしまった。イングランドによる長い支配がそうさせたのですが、日本もアメリカによる長い支配を脱しないと英語教育の義務化によって日本文化は切り離されて行き、やがては英語が公用語となり日本の歴史文化は忘れ去られていくのだろうか?