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株式日記と経済展望
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「弁論勝負の米国人、文章で勝負する日本人」 おとなしいはずの日本
人がインターネットの世界では日本人は決しておとなしくはなく多弁だ。
2008年5月14日 水曜日
◆弁論勝負の米国人、沈黙の日本人 5月12日 竹中正治
http://bizplus.nikkei.co.jp/colm/nbonline.cfm?i=2008051200587cs&p=1
米国の政治家、企業トップに雄弁家は多いが…
リーダーの雄弁だけではない。米国では1時間の講演なら講演者が一方的に喋るのは普通30分までだ。それ以上喋ると聴衆がフラストレーションを起こす。半分以上の時間は質疑応答、討議に当てられる。討議の時間になると、「俺にも言わせろ」「あたしにも質問させて」という聴衆が尽きない。
もちろん、議論を発展させる建設的なコメントや質問が歓迎されるが、ピントの外れた質問や、勘違いコメント、講演内容に関わりのない質問まで臆面もなく飛び出す。それでも公論の場でのエチケット(例えば1人で長々と喋らない)を守って発言する限り、「沈黙」よりも「発言」が歓迎される。
反対に日本の講演会はほとんど講演者が一方的に喋り、質疑応答は最後の10分だけという場合が多い。質疑に時間を取っても、シ〜ンとして質問もコメントもなかなか出てこない。いったい、この日米の違いはどこから生じるのか。
ちょっと「日本通」の米国人に聞けば、こんな答えが返ってくるかもしれない。「日本の社会や組織は閉鎖的、権威主義的で、意思決定は事前の根回しであらかじめ準備されるでしょ。だからオープンな討議やプレゼンテーションにあまり価値が置かれない。それだからじゃない?」。
しかし多少でも米国に身を置いて観察すれば分かることだが、米国の政治も見た目ほどオープンではないし、企業統治ではCEOの独裁的な力が問題になっている。それでも米国の文化的な規範・価値観が演説やディベートに日本よりもはるかに高い価値を置いていることは間違いない。
実際、海外ではあまり喋らない日本人は損をしている。英語の上手下手の問題ではない。下手な英語でもガンガン主張している連中はたくさんいるのだ。それでも全体としては、「日本人は何事も集団主義的で、個人の意見がないのじゃないか」などという偏見がまかり通ってしまう。ではなぜそうした日米の相違が生まれたのか。実は分かりやすい事実の中に、日本人のプレゼンテーション下手の原因があると私は思う。
膨大な時間を奪う日本の子供の読み書き訓練
米国に駐在中のこと。娘の小学校のクラスメイトの米国人宅で、話題が日米の小学校での国語教育に及んだ。米国の子供と比べると、日本の子供たちは、表音文字としてひらがなとカタカナを学び、表意文字として漢字を学ぶ。さらに小学校高学年からアルファベットでローマ字を学び、中学1年から英語を学ぶわけで、米国の小学生に比べると読み書きに要する学習量は大変に多い、と私は語った。
米国人の奥さんが、漢字はどのくらいの数があるのか、100か200かと問うので、一般に使用されている数で1000とか2000だと言ったら、目を丸くされた。さらにアルファベット24文字に対して、ひらがなは50音文字で、そのままだとパソコンのキーボードに乗り切らない。
だから私たち日本人の多くはワープロソフトを使用する時、アルファベットのキーボードを叩きながら、パソコン画面上にひらがな、カタカナ、漢字の3種の文字で構成された日本語文章を作成するのだと話したら、「信じられない。魔法みたいだ」と言う。そうりゃあそうだろう。英語ワープロユーザーは「文字変換の魔法」を知らないのだ。
■文字体系の複雑さが生み出した相違
米国人にそういう説明をしながら、はっと気がついた。実際、日本人は子供時代に「書く」ことを学ぶために米国人とは比較にならないほどの学習労力を費やしている。しかも計算訓練にも米国人以上の訓練を費やす。だから日本の小学生で算数の計算能力が平均的な子供でも、米国の小学校ではトップ水準だ。
しかし、学習に費やせる時間には限りがあるので、それだけ日本の子供が書く訓練に多くの労力を費やせば、必然的に犠牲になる訓練が出てくる。それが口頭プレゼン能力、大勢の前で話す能力の訓練である。
自分の子供時分の記憶をたどると、幼稚園から小学校初期の頃までは、「みんなの前でお話をしましょう」というレッスンがあった。ところが小学校の半ば頃からそうした「お話レッスン」は乏しくなり、その後ほとんど復活しない。読み書き、算数に必要とされる訓練時間が多くなり、さらに社会や理科の知識習得が増え始めると、口頭プレゼンの訓練時間は切り詰められ、ほとんどゼロになってしまう。大学受験でも口頭試問などはないから、中学、高校での受験勉強でも口頭プレゼン訓練はほとんど復活しない。
一方米国の小学校では、「みんなの前でお話ししよう」のレッスンは継続し、かなりの時間が費やされている。娘が通っていた米国の公立小学校でも、かなり多くのレッスン時間が口頭プレゼン訓練に費やされていた。例えば「Book Report」「News Report」と呼ばれ、読んだ本や新聞ニュースについてリポートする作業がある。日本なら「読書感想文」を書いておしまいだろうが、「Book Report」ではリポートを書き、その後クラスの生徒の前で口頭プレゼンをする。そのプレゼン内容がいくつもの評価項目で評点される。
米国における口頭プレゼン能力の訓練は、初等中等教育のみではない。日本人が米国の大学、大学院に留学すると、口頭プレゼンやディベートの時間が多いことに驚き、日本の大学教育との大きな相違を経験する。
訓練に費やす学習労力にこれだけの日米格差があれば、日本人の相対的な口頭プレゼン下手も無理からぬことである。そして米国の小学校がこれだけ口頭プレゼン訓練に時間が割けられることの前提条件として、文字を書く訓練に要する時間が日本に比べて相対的に少ないことがあると私は思う。
■文章文化の日本人はブログ書き込みが世界一好き
日本人が文章文化だと考えると、講演会では静粛過ぎる聴衆が、一転ブログの世界で大胆・活発に書き込み合っている日本の事情が理解できる。某ブログ調査データによると、世界のブログ書き込み言語のシェアで日本語は37%と英語の33%を凌駕しているという。英語ユーザーの人口が日本語ユーザーの数倍であることを勘案すると、これが本当なら驚くべきことだ。
ブログの匿名性によって助長されている面もあろうが、文章文化の日本人はブログの書き込みが世界一好きな国民だということになる。NBonlineでも「俺にも言わせろ」「あんた、何言ってるの」と溢れんばかりに寄せられるコメントの群れは、「百家争鳴」と言うべきか、「暴言有理」とでも呼ぶべきか。
文章文化の日本人の特性は外国語の教育、勉強でも出てしまう。英語の読み書きがかなりできるのに、英語会話となるとまるでお手上げの日本人は多い。反対に米国人は日本語を勉強してかなり流暢な日本語を話す場合でも、日本語文章を書くのはとても苦手というのが一般的だ。
もちろん、学校教育内容にはその社会の文化的な価値観が反映される。従って、米国が口頭プレゼンを重視する文化である故に、教育でもプレゼン訓練に多くの時間が割り当てられるという逆の説明も可能である。しかし、アルファベットという比較的簡単な文字体系を持ったこととが、口頭プレゼン訓練により多くの時間を費やすことを可能にし、この2つの文化要素は相補的に強化されてきたのではなかろうか。反対に日本では複雑な文字体系を持ったことと、文章論述を重視する文化要素が相補的、相互強化的に発展してきたと言えないだろうか。(後略)
(私のコメント)
日本の政治家はどうして演説が下手ななのだろうか? アメリカの大統領選挙の予備選挙のバラク・オバマ氏の演説を聴いてみると、内容はたいしたことはないのだが非常に雄弁な感じを与える。ナチスドイツのアドルフ・ヒトラーの演説の上手さは天才的であり、聴衆を巻き込む能力は魔術師を思わせる。
日本でも演説の名人はいるのですが、政治を動かせるほどの力を発揮できないでいる。小泉純一郎の演説も扇動的であり攻撃的な演説はマスコミにも受けて支持率のアップに貢献した。しかしその後を引き受けた安倍晋三や福田康夫は紋切り型の演説しか出来ず、支持率は日を追うごとに低下していった。
政治的能力は小泉氏も安倍氏も福田氏も大して変わりがないのですが、大衆を扇動する能力は小泉氏にはあった。演説に際しては聞いている大衆に分かりやすく繰り返し話す事が必要だ。大衆を扇動するには敵を作り攻撃的な演説をすることがコツであり、ヒトラーは絶えず敵を攻撃し続けた。
竹中正治氏によれば、アメリカでは小学校の頃から口頭プレゼンスの授業が多いそうですが、私の記憶では学校では人前で話す授業は受けた覚えがない。国語の時間も教科書を朗読する事が多く、自分の意見を述べる事は学級会の時ぐらいだった。そして討論するという訓練もほとんど無かったように思う。
政治家というのは演説する事が仕事なのですが、どうして日本の政治家は演説が下手なのだろうか。選挙の時だって選挙カーが名前を連呼するのみで、日本の選挙法では立会演説会は認められていない。後援会同士の演説妨害が酷くて1983年に禁止された。
立会演説会が禁止とは民主主義政治が機能していない事の証明のようなものですが、立会い演説合戦がないから演説の上手い政治家が生まれない原因ともなっている。さらには候補者同士で討論でもしてくれれば有権者はより候補者を理解しやすくなるだろう。そうなると相手候補をより効果的に攻撃する事が必要になってくる。
そもそも討論とは相手を攻撃する論争ですが、日本人はそのようなメンタリティーは歓迎されない。だから学校でも討論の授業はしないし、選挙などでも立会演説会は禁止される。それに対してアメリカでは小学校の時から討論の授業をするし、選挙でもテレビ立会演説会を行なう。
アメリカ人は討論が好きだし攻撃的だ。それに対して日本人は討論を避けるし、攻撃的性格は煙たがられて嫌われる。このようなところがアメリカ人から見れば日本人は閉鎖的に見えるのだろうが、日本人から見ればアメリカ人はどうして議論を仕掛けてくるのか煙たがられている。和気藹々と言うことは日本人にしか理解できない事であり、アメリカ人は議論して決着をつけようとする。
国際社会では、日本国内のような共通した文化がないから、何事も議論して決めなければならない。だからどうしても攻撃的になり自分の意見を押し通そうとする。日本人はこのような社会に慣れていないから議論を避けて沈黙してしまう。その代わりに怪文書が出回って、有権者もそちらのほうを信じてしまうような傾向がある。
口頭による議論だと、議論の内容よりも印象が決め手になりやすい。より攻撃的な印象を与えて相手を受身にしてしまえば勝ったような気になる。演説にしても内容よりも印象が大切であり、より効果的な表現で言葉を並べれば聴衆は熱狂する。国際社会ではこのような訓練を受けてきた政治家がしのぎを削っているのですが、日本ではこのような文化が無いから議論すら嫌われてしまう。
日本では議論を避ける代わりに、出所不明の文書が出回ってそれが議論の勝敗を決める事が多い。日本では学校でも国語の授業といえば読み書きの事であり、話し方はあまり教えない。しかし英語圏ではアルファベットで単純だから読み書きよりも話し方に重点が置かれるのだろう。だから議論で決めるか文書合戦で決めるかの違いが出てくるのだろう。
インターネットにおいても、英語文化と日本語文化の違いが出てきて、ブログなどにおいては日本語のブログが英語のブログを投稿数において上回っている。議論で決着をつけるつける英語圏と、文章記述で決着をつける日本語文化の違いが出てきたとも言えるのだはないだろうか。
英語というのは表音文字だから、文書を読んでも一旦は音声に改めて理解するが、日本語は表意文字だから音声に変換することなく意味が理解できる。だから意味を伝える上において英語においては口頭でも文書でも理解のスピードはあまり変わらない。それに対して日本語は文書を見るだけで理解できるから数倍のスピードで意味が理解できる。
英語はあくまで話し言葉であり、アルファベットで書かれた文章は表音記号であり、頭の中で音声変換して意味を理解する。だから失語症になると言葉が理解できなくなる事がありますが、日本語のの場合は言葉を読むことが出来なくても文字を見るだけで理解できる人がいる。言語領域は英語母語の人は左脳にありますが、日本語母語の人の場合は文字を図形として理解できるから右脳も言語中枢として使っているのかもしれない。
分かりやすく言えば英語文化では口頭で話したほうが理解しやすく議論で決着をつけるのに対して、日本語の場合は文書にして相手に渡したほうが冷静に理解してもらえる。だから国語教育においても話し方に重点を置くアメリカと、読み書きに重点をおく日本とでは違いが生じるのは当然なのだろう。
竹中正治氏のブログでも「弁論勝負の米国人、沈黙の日本人」と題していますが、「弁論勝負の米国人、文章で勝負する日本人」と変えた方がいい。おとなしいはずの日本人がインターネットの世界では日本人は決しておとなしくはなく多弁だ。