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「カルマからの脱出」とは「自分を神に明け渡し、自我を捨てること、すると、人は神に合一すること、そうすると、自然にカルマから脱出した自分を見る」
(私の個人的感想)
この天界からの脅迫という本は難しい仏教哲学やキリスト教神学からの難しい概念を使わないでかかれていますので、私は本当に判りやすい説明がされているように思います。難しいことを優しく誰にも説明することは中々至難の技です。これは真理を会得していないとこんな説明は出来ないと思います。この話し方が神なり仏なりの発想で、諭し方がうまいと思います。本質的にはカルマから脱出は神なり仏なりの導きを受けないとなかなか出来ないように思います。しかし、これは宗教の範疇に入りますので、無理に押し付けはしません。信教の自由です。
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神界通信「天界からの脅迫」 TIS出版 三穂希祐月
「第十一の警告」を引用
(カルマからの脱出は、生きていく上での価値観を変えることにあります。怒り、こだわり、自我意識を捨て、現社会の価値あるものを無いと思うことです。人間が生きることは、大宇宙の条理の一部と考え、物事の執着を忘れるように心がけるのが幸せの近道です。)
「カルマからの脱出」とは「自分を神に明け渡し、自我を捨てること、すると、人は神に合一すること、そうすると、自然にカルマから脱出した自分を見る」
道分命(イエス):
「 カルマから脱出か、スサノオ様もなかなかの詩人だなあ。人間達よ、あの神様もほんと苦労しているんだぞ。口が悪いが、なんだかんだ言っても、本当は優しい神様なんだ。・・・・・
カルマからの回避は、やり方としてはいろいろあるが、ただ、本当に難しい。私も、そんざんその事は前に言って来たんだが、なかなか分かってくれた人間はいなかった。今でも分かってくれる者はなかなか居ないだろう。
わたしは、これについていろいろ説明したんだが、あまりにも難しいことなので、つまずきの神なんて言われてしまった。確かに人間である以上、私のいうことにつまずかない者はいないだろう。つまずかなければ神だからな。まして、神でもつまずく者もいるくらいだからな、誰とは言わないが。」
<新約聖書でいうつまづきとはこんな風に使います。>
「貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまづかない人は幸いである。」
洗礼者ヨハネとイエス(
(ヨハネの弟子達がイエスのなさっておられることを見聞きして、ヨハネに伝えた。)ヨハネは弟子の中から二人を呼んで、主(イエス)のもとに送り、こう言わせた。「(救世主として)こられる方はあなたでしょうか。
・・・そのとき、イエスは病気や苦しみや悪霊に悩んでいる多くの人々をいやし、大勢の盲人を見えるようにしておられた。
「(あなたがたの先生のヨハネのところへ)行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまづかない人は幸いである。・・・」(新約聖書ルカによる福音7章11節)
「確かに、あなたたちがいる世界では、富や名声を得ることは、幸福なことかもしれないが、神にとって、いや、あなたがたにとって、本当はそんなことどうでもいい事なんだ。本当の幸福とは、お金では買えないものなんだ。世の中全て金だと思う者には、それだけの事しかわからない。そういう者は本当の神の恵みを知ることは出来ない。
本当の神の恵みを知ることができれば、この世の事なんてどうにもよくなるはずだ。そうすれば、宇宙に無限に広がっていく自分の魂が活動を始めるのだ。その宇宙は、自己の殻から脱した魂を、すべて受け入れてくれる寛大なものなんだ。自分が全宇宙の一部なんだ、ということで感じられるはずだ。この大宇宙の中に同化していく自己に気がついた時、あなたがたは神になる。自分が神になれるという事を、最後まで信じることが出来れば、神は誰にでも恵みを与えられるはずだ。
自分を宇宙の一部として考えるようにしなさい、そう実感出来るようになれば、カルマなんて無くなってしまうはずだ。自分だけではなかなかカルマを無くすことは難しい。どうしても神の助けが必要なのだ。祈りなさい。わかりましたかな。難しいのはあたりまえだ、それほど簡単な事ではないと思う。しかし、このくらいの事は理解してもらわないと。
なるべく、物事に執着しないように心がけるようにしなさい。そういう事から訓練していけばいいのかもしれない。怒り、こだわり、自我意識を捨て、神に魂を明け渡し、早く神と一対になるよう努力すればよいのです。」
キリスト教の本家の新約聖書ではイエスは弟子達に神になるにはこんな言い方をしています。
「・・・フィリポが主(イエス)よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます、というと
イエスは言われた。フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。私を見た者は、父を見たのだ。なぜ、わたしたちに御父をお示しくださいというのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたにいう言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないならば、業そのものによって信じなさい。
はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。・・・・・・・・」<新約聖書ヨハネの福音書 イエスは(天の)父に至る道 14章8節>
*新約聖書からのイエスキリストの注釈コメント補足説明
新約聖書のイエスの直接の弟子達が書いた福音書でも、ヨハネの福音書はこの世と霊的世界とを結ぶ説明がなされ、霊能力を持った人たちは分かりやすいが、普通の人はなかなかその意味を理解することは難しいです。ただ、物事に執着しないように心がけ、そういう事から訓練していき、怒り、こだわり、自我意識を捨て、神に魂を明け渡し、早く神と一対になるようにすれば、不思議な体験をすることはあります。これによって知ることができるのではないかと思います。キリスト教では聖霊がキリスト教に信仰を持つ人に訪れ、不思議な働きをするということは知られています。聖霊は真理や真実を語り、その人に近づく危険を警告することがあります。
(付記資料)
これは兵庫県南部沖地震を体験した記録です。
1)地震の夢を見たというのです。この夢などは仏教系の聖霊が働いているように思われます。
前日見た穏やかな海と岸壁の夢が、テレビに映った行ったこともない淡路の海に似ていた。地震前日の1月16日未明、夢を見ました。真っ青な海、波はなしの穏やかな海面、自分のいる場所は岸壁の上、そこで立っている私でした。あまりきれいな海面なので言葉に表すことができません。次に須磨寺へお参りに行きました。私が先頭で次々と5〜6人の人が続いて来ていました。本堂の中には大勢のお坊さんがいてお経をあげていました。その後、集会所のような所に入り椅子に座ってひと休みしました。お子さん、お母さん、男の方々など10人ほどいるように思いました。「私はもう帰らなければ」と思ったところで目が覚めました。翌日の地震で驚きました。テレビで見ると夢で見た海は淡路島で見た海とよく似ていました。あの夢はやはり何かの知らせであったのかと、いま考えています。私は地震の場所と夢の様子の所には何のかかわりもありません。したがって行ったこともなく、ただ不思議に思っています。
2)こんな夢を超心理学では聖霊が絡んで、危険を警告する霊夢といっています。
前日の夢の中に3匹のナマズが現れて、のたうったり消えたりしてスーッといなくなった。私は自分の見た夢と現実とが符合して困惑しています。確か1月の15日か16日でした。夢の中に3匹のヒゲの立派なナマズが現れて来たのです。ナマズは何も言ったわけではありませんが、ただのたうつといった感じで動いたり消えたりしていました。一方で変な夢だなと感じつつ見ていました。そのうちスーッといなくなって、そのうちまた眠ってしまって目が覚めました。おかしな夢を見たものと思いながらも気にしませんでしたが、こうして地震が来てみるとビックリしています。
3)これも聖霊が絡んで、危険を警告する霊夢といっています。
当日未明、不可解な夢を何度も見て目覚めたが、阪神高速道路の倒壊現場に酷似していた。虫の知らせというか、ただの偶然かも知れませんが、1月17日午前1時か1時半ごろ夢を見ました。すぐに目覚めたが何も思わなかった。そのまま眠り3時半ごろまた同じ夢を見た。すぐに目覚めトイレに立ち、その時は「恐いな」「変だな」と感じた。そして地震があって正午ごろだろうか、電気が通じてテレビの配線を主人がなおし時々映る地震の画像を見ていて「この場面は見たことがある」と感じた。そして忘れていた夢のことが頭をよぎった。夢は高い土手の上を猛スピードで走ってきた機関車が前の車輌から順番に落ちていき、下の車や人をはね散らしていく様子。ものすごい破壊の音と人々の叫び声が続き、自分は夢だと半分知っていながら現場の斜め上空からそれを見ている。阪神高速の高架が落ちた場面に似ていると思った。なお私はロサンゼルス地震の時も寝ていて突然多くの人の悲鳴が聞こえ目覚めた経験がある。
4)これも聖霊が絡んで、危険を警告する霊夢といっています。
数日前、左右から迫ってきた巨大な地面が私の上でぶつかり押し合い最後にクロスする「活断層」のような夢をみた。私は1月9日〜13日の間にその夢を見ました。子供の冬休み明け以降、3連休以前だったのでハッキリ覚えています。2つの地盤(質感が土でした)が左右から迫ってきて私のお腹の真ん中でぶつかり押し合い最後にクロスするという夢です。映画「十戒」の海の分かれるシーンを御存知でしょうか。あの海とは反対ですがちょうどあのスケールで地面がぶつかるのです。そのすごい圧力と胸苦しさに私はハッと目をさましました。外はまだ真っ暗でした。「なんや、この夢は」「なんで地面がぶつかるんや、地震か?」とボンヤリと思い又眠ってしまいました。そしてその夢のことは気にもとめず忘れてしまっていました。ただいくら夢でも地面がぶつかるというそれまでの私の常識から大きくはずれる夢だったので、ハッキリと記憶に残りました。そして17日にあの地震がおきた時も何も気づきませんでした。でも淡路の活断層のずれているシーンをみた時ハッと思い出したのです。私の見た夢の最後のシーンと同じでした。もちろん今回初めて私は「活断層」という言葉と存在を知ったわけで、その奇妙な一致にゾッとしました。
5)これも聖霊が絡んで、危険を警告する霊夢といっています。
「正夢」を見た母は、前日から余震を感じていた。地震について身近な出来事ではありますが、何か役立てばと思い筆をとりました。〔私〕前日より疲れているにもかかわらず、朝5時半(当日)ぐらいまで寝つけず、眠りにつきそうになって地震。〔母〕正月明け初夢で、仏壇の中がぐちゃぐちゃになり父の位はいだけしっかり立っていた夢を見、地震がおさまって仏壇を開けると、夢のままの状態だった。(正夢というものでしょうか?)母は前日からずっと、余震を感じていたそうです。〔友人〕前日夕方ごろ、ふと「地震がきたら、ベットの下に入ればいいんやな」と、別に何の気なしに考えたそうです。(1人暮らしを始めて半年ぐらいだから?)
最後に、イエス様は次のように結ばれています。
「自然体に逆らわず、水の流れのように、雲の流れのように、全てを感謝と反省に変え、信仰心を持って、善に
物事を受け止めて行けば、苦も悩みもなくなります。人生とは、そのように素晴らしいものであるのかと気がつき、そこに魂の喜びがあるのです。これがカルマの清算の一番早い方法であろうと思う。
人間というものは、努力を続けて行かねばならないのですが、努力をすればするだけ、代償を求めようとします。それもまた人間で、更にも負けず努力を続けてください。そして、あとは我々神に任せることが一番よい方法でしょう、そうすれば、悪のカルマの解消となり、善業となり、幸せな人生をおくれます。そうすることが、神の世界に入れる一番近道です。また、ゆるす心が全てに大切なことです。これに勝るものはないのです。
この世で得られる最上のものは神の恵みである。神の恵みを得られた者は、永遠の幸福を得られたと同じにななのだ。そして、神の恵みこそ愛である。」
と、いうわけで、主の歌を聴いてください。
主よ人の望みの喜びよ J.S バッハ
原曲はカンタータ第147番「心と口と行いと命」(BWV147)の中のコラール。ヘスとケンプの編曲が有名。
http://www.youtube.com/watch?v=_CDBcr5cpdQ&feature=related
次回続けて、日本の神道の神様、雨の神、風の神、地震の神、荒の神さまなどのうちの風の神様、志那都比古神(しなつひこのかみ)様が仏教的にいう「カルマからの脱出」を語られます。六根清浄をして煩悩に振り回されるなとのことです。お釈迦様みたいなことを言われます。どうなっちゃってんでしょうか。なかなか、罪穢れ祓い給えげ出てきません。
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