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死は決して怖いものではありません。幽体離脱を、死後の世界を知りたい人のために、死を恐れたら、それはできません。
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投稿者 ヤハウエハのタタリ、祟りじゃ〜!! 日時 2008 年 2 月 24 日 01:32:59: DO6P.hRyTTh86
 

 死は怖いものではありません。幽体離脱を、死後の世界を知りたい人のために、死を恐れたら、それはできません。神や仏の導きを受けてやったら、可能になることもあります。それは生きている人が死を怖がったらできません。ただ、興味本位でもで来ません。真剣に死後の世界と真理を知ろうとする態度がないといけません。


 人生は旅のようなもので、死後の世界からこの世へ生まれ変わり、この世から死後の世界へ去っていき、連綿として続く旅だそうです。この旅はで、人はいつも「自分とは何かの意味を求める」自分探しの旅だそうです。その瞬間瞬間が進化途上の今の自分なのだそうです。

そもそも私がこのようなテーマに取り組み始めたのは、それは、1986年の秋頃の頃の体験が始まりになりました。私はいつものように仕事にあけくれていました。そんなある日のことです。めずらしく早く自宅に帰り、ベッドでそのまま眠ってしまいました。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・目の前に青い地球が見えました。周囲の状況がよくわからないのですが、突然、半円状の形をした地球が、青い地球が、海が、陸地が見えました。ねむけまなこから目が覚めたような感じで、ただそれを見ていました。・・・・・・意識がはっきりしてくると、周囲が何も音がしないのです。静寂なのです。心が洗われるような静けさです。”ああ、こんな音が存在しない静寂の世界はなんと心が落ち着くんだ”と思っていました。何だかそんな世界を思い出しているような気がしました。・・・・・・・・・・・・・・・・・
 目の前が今度ははっきり見えてきました。目の前に青い地球がはっきり浮かんでいるのです。宇宙空間に浮かぶ青い地球が生きているようで、海が見えて、雲が動いていました。
 ふと思いました。”まわりはどうなっているのだろう”
すると、不思議なことに、頭を動かさないのに、周囲が遠くまで見渡せました。漆黒の真っ黒な宇宙空間が広がっていました。そのとき、私は自分の状況に気がつきました。”私は宇宙空間に浮かんでいるんだ”と。そう思った瞬間に、遠くに白いイエスたちが昔身につけたような白い服を着た人たちが見えました。彼らは手を左右に伸ばし、1km位の間隔で、地球を取り囲んで、宇宙空間に浮かんでいました。
 すると、私もその人たちの一員であることに気がつきました。青い地球が私のまた目の前に広がりました。・・・・・・・・徐々にその光景が消えていきました。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 私はベッドの上で、目が覚めました。真夜中になっていて、真っ暗な部屋で気がつきました。思ったことは”不思議な夢だなあ。”ということでした。とにかく、目が覚めた後も、先ほど体験した宇宙から地球を見下ろした感覚が鮮明で、夢とは思えませんでした。その後今も、その感覚は忘れることが出来ません。

 後でわかったのですが、これがいわゆる「幽体離脱」というものでした。超心理学の祖であるユングもこのような体験をしたそうです。そして、近年アメリカでは、病気や事故で心臓が停止して、再び生き返って来て体験した「臨死体験」と同じだということがわかりました。医学的に死を体験した人たちが体験する現象です。
 霊が肉体から抜け出して、霊の生きる、死後の世界を体験する現象です。臨死体験が病気や怪我によって肉体活動が停止し体験するのに対し、幽体離脱は突然何らかの理由で霊が肉体から抜け出す現象を言います。
 その後の私の体験から、霊となると、実際、霊は空中に飛び出し、空を飛ぶことが出来るということです。幽体離脱は霊となっているので、肉体の制約を受けないので、爽快な気分で、気持ちがいいです。太陽系の外側の惑星冥王星まで行ってきたこともあります。


(死とは何なのでしょうか)

 この世には「霊界通信」という本があります。宗教や超心理学のジャンルに入りますが、これから「死後の世界=霊の世界」を紹介します。20世紀初頭の欧米で、降霊会が行われ、霊媒を通して語られることが本当かの研究が科学的に始まったのです。日本では出口王仁三郎が出てきた頃のことで、カトリック教会では聖母マリアの出現が騒がれ始めていました。目に見えない世界からの通信が霊媒を通してどんどん花開いたように起こりした。欧米では、霊人たちが霊媒を通して死後の世界とその構造などをどんどん語り出し始めたのです。これに参加した欧米の知識人たちは相当な数にのぼり、イギリスの小説家であるチャールズデイキンズは霊界通信として「クリスマスキャロル」を書きました。推理小説家のコナンドイルも降霊会に参加し、作品に青白い顔をしたシャーロックホームズを登場させ、部屋を暗幕で暗くし、霊感で事件の真相を追究させるその姿に、なにやら降霊会を思わせます。エジソンは霊界通信を霊媒を通してではなく、ラジオで受けることが出来るような霊界ラジオを作ろうとしたそうです。アメリカの自動車王フォードも降霊会に積極的に参加したそうです。「日月神示」も実は降霊会と同じような手法、霊媒を通して、霊人たちが見えない世界から送って来たものです。

 上のことを日月神示の延長、伊勢黙示録龍音之巻では以下のように説明しています。

「世界中が霊かかりとなると申してあるのは今のことであるぞ、・・・・目に見えぬ所からの通信は高度なもの(高級神や高級霊)ほど肉体的には感応が弱くなり、暗示的となるものであるぞ、(横溝正史の作品、八つ墓村 、犬神家の一族 のように、残酷で)ドタンバタン、大声でどなり散らすのは下の下。神もフトマニに従わねばならん。順を乱すわけには参らん。高度の霊が直ちに肉体人に感心することはなく、それぞれの段階を経て感応するのであることを忘れてはならんぞ、下級霊は現実界(この世)と紙一重のところに住んでいるのであるから、その感応は極めて強く、如何にももっともらしく人民の目にうつるものであるぞ、高度のものは、その人民のミタマの如何によって、それと同一波長の神霊に伝達され、その神霊の感応によって表現されるのであるぞ。特別な使命をもつ天使は、最下級の霊界まで降って来て、人民に特別な通信をなし、指示することもあるぞ。また天使の霊が母体に宿り人民として生まれてくる事もあるぞ、末世にはこの種の降誕人が沢山あるぞ。」
(伊勢黙示録龍音之巻 第三帖)

要旨
@イエスが警告したが世の終わりの終末になると、世界中でいろんな霊が人間にとりついて(霊かかりになって)、いろんなことをいい、自らがキリストだと宣言したり、予言をしたりなる。
A高級霊が人に何かを言うときは肉体的には暗示的となる。一方下級霊は人間に憑依したりすると、ドタンバタンと騒ぎまわり、大声で怒鳴り散らすので、態度や通信内容で区別できる。
B霊かかりと言う現象は魂の波長が合致しているから起こる。高級な魂には高級な霊が通信する。低級な波長の者には低級な霊が通信する。
Cこの世には天使の魂(「高級霊や高級神)が母体に宿って生まれ変わって来る時がある。それは神の計画の実行を行うものとして生まれ変わって来る。一方、神々の世界の方でも、神の計画に従って、予定された天使の霊に通信をして、世の終わりに準備をする。
D「霊界通信」というものもこの流れを汲むものがある。高級霊がこの世の人間に死後の世界の存在を通信し、世の終末の準備に備えるようにするものである。

*注釈、私の場合は八つ墓村の作品の、金田一耕助を待っていてタタリじゃ〜をハングルネームにしておりますが、この方が私の言いたいことを日本人に伝えることが出来るとパロデイ風に使っておる積もりです。「ハヤウエハのタタリ、祟りじゃ〜!!」はどのようにお受け取りになられますか?

「霊界通信の優れもの(霊界通信小桜姫物語)から、死後の世界について」

「霊界通信小桜姫物語」浅野和三郎著
http://www.paperbirch.com/sakura/

(浅野和三郎と霊界通信小桜姫物語について)

 浅野和三郎は英文学者で、20世紀の初頭、欧米で盛んになっていた霊界通信を日本に初めて紹介した人です。この「霊界通信小桜姫物語」は浅野和三郎という人によって出版されましたが、彼の妻が霊媒となり、彼女の守護霊が語ってきた内容を記録し、それをまとめました。一読してみると、海王星の人たちには好感を得ると思います。どうも守護霊小桜姫もその守護される浅野和三郎の妻も海王星のようなのです。通信で伝えてくる、内容は原点日月神示や霊界物語の龍神の世界にまで及びます。大抵の通信はこのような龍神の世界を覗き込むことは出来ません。ですから、日月の神の世界を知る重要な参考文献になりますので、お勧めします。

 「霊界通信小桜姫物語」はこんな感じで始まります。


「私のように修行も中途半端で考えも足りない一人の昔の女が、おこがましくもしゃしゃり出る幕ではないことはよくわかっています。でもこのように度々お呼び出しを受け、ぜひ詳しい通信をと続けざまに催促を受けましては、ついついその熱心さに心動かされ、むげにお断りもできなくなってしまいました。それに神様からも
『せっかくだから通信してみれば?』とのおぼしめしがありましたので、今回思いきってお言葉に従うことにしました。私としては精一杯古い記憶をたどり、自分の知っていること、また自分の感じたままを、作らず飾らず、素直にお話することにします。それが少しでも、現世の方々の研究の助けになるのではと考えます。どうぞあまり過度な期待をかけず、気楽にお聞きくださいますようお願いいたします。

 ただ前もって一つお断りしておきたいことがあります。それは私の生前の生活の模様を、あまり根ほり葉ほり聞いてほしくないということです。私にはそれが何より辛く、今更何の得にもならないので、自分の昔の身の上などちっとも話したくはありません。というか、こちらの世界へ移ってからの私たちの第一の修行は、なるべく早くみにくい地上の執着から離れ、少しでも現世の記憶から遠ざかることです。私たちはこれでも色々と工夫した結果、やっとそれができてきたところなんです。だから、私たちに向かって身の上話をしろとおっしゃるのは、せっかく治りかけた心の古傷をもう一度えぐり出すような、ずいぶんむごい仕打ちです。幽明の交通を試みられる人たちには、いつもこのことを頭に置いておいて頂きたいと思います。というわけで私の通信は、だいたい私がこちらの世界に引き移ってからの経験、つまり幽界の生活、修行、見聞、感想といったような事柄に力を入れてみたいと思います。またそれがこの道に携わる方々の、私に期待されるところかと思います。もちろん精神を統一してじっと深く考えこめば、どんな昔の事柄でもはっきり思い出すことができますし、しかもその当時の光景までがそっくりそのままの形態を保って、目の前にありありと浮かんできます。だって私たちの境涯には、ほとんど現在、過去、未来の区別なんかないんですもの。でも無理にそんな事をして、足利時代の絵巻物をくり広げてお目にかけたところで、大した値打ちはないでしょう。現在の私は、とうていそんな気分になれないのです。

 とは言っても、今いきなり死んでからの物語をはじめたんでは、なんだかあまりに唐突で、この世とあの世のつながりが少しもわからない、取りつくしまがないと思われる方もあるかと思いますので、すごく不本意ですが、私の現世での経歴のほんのあらすじだけをかいつまんでお話することにいたしましょう。これも乗りかけた船、現世と通信を試みるものの逃れられない運命、業かもしれません。


 私は実は、相州荒井《そうしゅうあらい》の城主三浦道寸《みうらどうすん》の息子、荒次郎義光《あらじろうよしみつ》という武士の妻だったものです。この世に生きた時の名前は小桜姫といい、時代は足利時代の末期、今から四百年ぐらいの昔です。もちろんこちらの世界では昼夜の区別も月日の流れもありませんので、私はこれらのことをただ神様からうかがって、なるほどそうなんだと思うだけのことに過ぎません。四百年といえば現世では相当長い年月ですが、不思議なものでこちらではそれほどにも感じません。たぶんじっと心を鎮めて、無我の状態を続けている期間が長いせいでしょう。」


<自分の臨終> 小桜姫物語より

 前にも言ったとおり、私の体はだんだん衰弱していきました。床についてもさっぱり眠りにつけず、はしをとってもぜんぜん食事がのどをとおらず、心の中はいつもむしゃくしゃしていました。くやしい、うらめしい、味気ない、寂しい、なさけない…。自分でも何がなんだかよくわからない様々な妄念妄想が、嵐のように私の衰えた体の内を駆けめぐっていたのです。・・・・・・・・・・一口に言ってそのころの私は、消えかかった青松葉の火が、プスプスと白い煙を立ててくすぶっているようなものだったのかもしれません。

 現世の人たちから見れば、死というものはなんだか薄気味悪い縁起でもないものに思われるでしょうが、私たちから見れば、それは一匹の蛾がまゆを破って抜け出るのにも似た、格別不思議でも不気味でもない、自然の現象にすぎません。・・・・・

 何よりもまず感じたことは、気がだんだん遠くなっていくことで、それはちょうどうたた寝しているような気持ちに似て、正気のあるような、ないような、何とも言いようのないうつらうつらした気分です。傍から見れば、顔が引きつったり、冷たいあぶら汗がにじみ出たり、死にゆく人の姿は決して見栄えのよいものではありませんが、実際自分が死んでみると、それは案外楽な仕事ですよ。痛いも、かゆいも、くやしいも、悲しいも、それは魂がまだしっかりと体の中に根を張っている時だけの事です。臨終が近づいて、魂が肉のお宮を出たり入ったりうろうろする頃には、いつとはなしに一切がどこかへ消える、というよりむしろ遠のいてしまいます。誰かが枕もとで泣いたり叫んだりするときは、ちょっと意識が戻りますが、それもほんの一瞬で、やがて何にもわからない、深い深い無意識のもやの中へと入り込んでしまうんです。私の場合はこの無意識の期間が二、三日続いたと、後で神様からうかがいました。でも二、三日というのはどちらかといえば短い方で、人によっては幾年、幾十年と長い永い眠りを続けている場合もあるんだそうです。とにかくその長さにかかわらず、この無意識の状態から目を覚ましたときが、私たちの世界の生活の始まりで、舞台がすっかり変わっちゃってるというわけなんです。

(死についての話しの要旨)

@死というものはなんだか薄気味悪い縁起でもないものに思われるが、本質の世界に帰ることで、自然の現象。それは霊が肉体から抜け出でるもので、その姿は一匹の蛾がまゆを破って抜け出て空に飛んでいくのと似ている。

A臨終間際に成ると、夢を見るような感じになる。生から死へ移る時は気がだんだん遠くなっていくことで、それはちょうどうたた寝しているような気持ちに似て、正気のあるような、ないような、何とも言いようのないうつらうつらした気分である。傍から見れば、顔が引きつったり、冷たいあぶら汗がにじみ出たり、死にゆく人の姿は決して見栄えのよいものではないが、実際自分が死んでみると、それは案外楽な仕事ですよ。
 臨終が近づいて、魂が肉のお宮を出たり入ったりうろうろする頃には、いつとはなしに一切がどこかへ消える、というよりむしろ遠のいてしまう。誰かが枕もとで泣いたり叫んだりするときは、ちょっと意識が戻るが、それもほんの一瞬で、やがて何にもわからない、深い深い無意識のもやの中へと入り込んでしまう。

B死後、無意識の期間が続く。二、三日続いたと、後で神様からうかがいました。でも二、三日というのはどちらかといえば短い方で、人によっては幾年、幾十年と長い永い眠りを続けている場合もあるそう。これが無神論者ともなると、20〜30年はコンコンと眠り続けるそうです。超常現象バトルもいいですが、あまり馬鹿なことをやっていると、
・・・どうなるかはもういえません。

Cこの無意識の状態から目を覚ましたときが、私たちの世界の生活の始まりで、舞台がすっかり変わっている。小桜姫様は普通の霊魂の場合お違い、中幽界(精霊界)を通らずに、霊界(神界)の一部に修行場として移されたようです。ある事情があるようです。

D幽体離脱も同じ現象です。眠っている時に、霊が肉体から抜け出すことです。個人的なコメントですが、霊が肉体から出るようになると、肉体の制限を受けません。霊になると、目が見えない人は目が見え、耳の聞こえない人は聞こえ、病気の人は痛みも苦しみも無い。
 興味のある人は守護霊の方か聖霊のつながりが出来れば、そのような体験を望めば、ひょっとしたら、できることもあるようです。人間の本質は霊だということを体験できます。

<母の臨終>

 (母が臨終だと自分で分かったので)私はびっくりして、早速鎌倉のあのなつかしい実家に飛んでいきました。しかしその時はよほど臨終が差し迫っていたようで、母の霊魂はその肉体から半分出たり入ったりしている最中でした。人間の眼には臨終の際、衰弱した肉体に起こる悲惨な有様しか見えませんが、私にはその他さまざまな光景が見えました。中でも最も印象に残っているのが、肉体のほかに霊魂、つまりあなた方が言うところの幽体が見えていたことです。

 ご存知のことと思いますが、人間の霊魂というものは、肉体とそっくり同じ形のまま肉体から離れるんです。それは白っぽいいく分フワフワしたもので、普通は裸です。それが肉体の真上の空中に、肉体とそっくり同じ形で浮いているさまは、決して見栄えのよいものではありません。でもその頃の私は、すでに何度か臨終に立ち会った経験がありましたので、そんなに驚きませんでした。だけど初めての時は、なんてへんてこりんなの、ともうびっくりしちゃったものです。

 もう一つ変だったのは、肉体と幽体が白いひもでつながっていることでした。一番太いのがおなかとおなかをつないでいる太いひもで、ちょうど小指くらいの太さがありました。頭同士をつないでいるもう一本のひもは、それよりやや細いようでした。もちろんこのようにひもでつながっているのはまだ絶命しきってない段階で、最後のひもが切れた時がいよいよその人の死んだ時なんです。

 前述したように、私が母の枕元に行ったのは、そのひもが切れる少し前でした。母はその頃もう七十歳ぐらいで、私が最後に会ったときとは全く変わってしまっており、見る影もなく老いさらばえていました。私は耳元に近づいて『私ですよ。』と言いましたが、人間同士で話すのと違い、なんだか見えない壁を隔てているようで、果たしてこちらの思いが病床の母に通じたかどうかはわかりませんでした。もっともそれは肉体をもった地上の母に限った話で、肉体を捨ててしまってからの母の魂とは、その後自由自在に通じ合いました。母は帰幽後間もなく意識を取り戻し、私と母は何度も何度も会って、地上時代のことをあれこれ話し合ったものです。母は死ぬ前に父や私の夢を見たと言っていましたが、もちろんそれはただの夢ではありません。すなわち私たちの思いが夢という形をとって病床の母に通じたものというわけなんです。

 それはともかく、あの時私は母の断末魔の苦悶の様子を見るに見かねて、一生懸命母の体をさすってあげました。これはただの慰めの言葉よりもいく分効き目があったようで、母はそれからめっきり具合がよくなった様子で、間もなく息を引き取ったのでした。何事も真心を込めてやればそれだけ報われるということでしょうね。

 母の臨終の光景を語る時に忘れられないのは、私の眼に、現世の人たちに混じってこちらの世界の見舞い客の姿が見えたことです。母の枕元に、生きた人は約十人あまりいました。皆眼を赤く泣きはらして別れを惜しんでいましたが、それらの人たちの内私が生前顔見知りであったのは二人だけで、あとの人たちは見覚えがありませんでした。一方幽界からの見舞い客は、まず母より先に亡くなった父、次に祖父と祖母、それから肉親の親類縁者や母の親しい友人たち、そして母の守護霊、司配霊、産土の御神使《うぶすなのおつかい》などなど、いちいち数え上げたら大変な数になっちゃいます。とにかく現世の見舞い客よりずっとにぎやかでした。第一双方の気分がまるで違います。一方は自分たちの仲間から親しい人を失うのですから、沈みきっちゃってます。もう一方は自分たちの仲間の親しい人を一人迎えるのですから、むしろ張り切っていると言ってもいいぐらい陽気な表情をしているんですよ。こんなことは生前には思いもよりませんよね。


(母の臨終のまとめの要旨)

@人間の本質は霊であって、霊と肉体の間には白いひもがあり、つながっている。

A霊の体は肉体と同じ形をしている。この姿を幽体(幽霊の体)という。

B臨終間際の人の霊魂はその肉体から半分出たり入ったりしている。「魂」とは生きている時の霊の名前で、死んだ魂を「霊」と一応区別して呼んでいる。

C肉体と幽体が白いひもでつながっている。ひもは2本あり、一番太いのがおなかとおなかをつないでいる太いひもで、ちょうど小指くらいの太さがありました。頭同士をつないでいるもう一本のひもは、それよりやや細いようでした。

Dもちろんこのようにひもでつながっているのはまだ絶命しきってない段階で、最後のひもが切れた時がいよいよその人の死んだ時である。
 死神というのは日本でも欧米でもいいように思われていません。西洋の死神が黒いマントをかぶり、長い柄の先に鎌がついている。これは恐らくこの白い紐を切るためのものを暗示しているのでしょうか。幽体離脱を自由に行っていたスウエーデンボルグなどでは死神は怖い存在ではなく、むしろ死ねない霊魂のために肉体から霊魂を引き離す役割を持つ神だといっているようです。

E臨終間際に、死にそうな人が死んだ先祖が挨拶に来たとか言う時は、死にそうな人が肉体から抜け出して、精霊界で先祖と会ったりしている場合があるという。死ぬ前だから妄想を見たというのは間違いらしいです。

F臨終から死へ移るときに、人は死者を送り泣き叫び悲しみますが、それは本質的には間違いであるという。死後の世界を知らずに最後の別れだと思うから悲しくなるという。死後の世界の霊にとって見れば、それは労苦に満ちた世界からの解放で、霊の本来の世界へ帰ることであり、それは喜ぶべきことだという。幽界からの見舞い客は、まず母より先に亡くなった父、次に祖父と祖母、それから肉親の親類縁者や母の親しい友人たち、そして母の守護霊、司配霊、産土の御神使《うぶすなのおつかい》などなど。

G臨終で、現世の見舞い客よりずっとにぎやかでした。一方この世の人たちは自分たちの仲間から親しい人を失うのですから、沈みきっている。もう一方は自分たちの仲間の親しい人を一人迎えるのですから、むしろ張り切っていると言ってもいいぐらい陽気な表情をしている。

「僕の旅は小さな叫び」 山川啓介/作詞、渋谷毅/作曲・編曲、唱/吉田拓郎
http://www.youtube.com/watch?v=5U8ByikQKPY

 この曲は自分が自分と対話していく時に、生まれた曲なのでしょうか?

 毎日毎日今日が過ぎていく。明日も今日になって過ぎていく。でも何のために生きているのか、わからない。
だから、僕はこうして一日に一度こうして自分の部屋で一人になるのです。この部屋は僕の荒野であり、このひと時は僕の旅です。まぶたを閉じて膝を抱えて僕は自分の世界へ帰っていくのです。僕の海へ。
 一人になってみると、いろいろ思うけど、今日はこれが真実だと思う。これが僕の両手ですくった冷たいなんだ。それが僕の叫びなんだ。そんな思いも何と小さいもんなのだろう。そんな小さな思いがひとつづつ、ひとつづつ形なっていくんだ。それが僕というものなんだろう。

あしたになればあしたが来るのか、そいつは誰にも分からない
生きてくために命はあるのか、そいつは誰にも分からない

この部屋は僕の荒野です。このひと時が僕の旅です。まぶたを閉じて膝を抱えて僕は帰っていく、僕の海へ。

今日をどうして今日と呼ぶのか、そいつは誰にも分からない
両手にすくった一杯の水を早くお飲みよ、こぼれないうちに

言葉にしたら、口に出したら僕の叫びはなんて小さいんだろう
ああ、僕の僕の叫びは、なんて小さいのだろう。ああ、僕の、僕の叫びはなんて小さいんだろう

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