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http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/news/CK2008010602077358.html
2008年1月6日 朝刊
パキスタンの野党指導者、ブット元首相の暗殺事件は六日で発生から十日となる。イスラマバード郊外ラワルピンディの暗殺現場の道路脇にある小さな祭壇はバラの花で赤く染まり、今なお、供養の人波が絶えない。「なぜ、殺されたのか」「誰がやったんだ」。人々に込み上げる怒りとは裏腹に、その真相は過去の暗殺史と同様、謀略の闇にある。 (パキスタン北部ラワルピンディで、林浩樹)
「ブットは私の鼓動だった」。支持者のフセインさん(56)は連日、痛む右足を引きずって祭壇を訪れ、祈りをささげる。顔のやけど傷が生々しい。十二月二十七日の事件当時、約七メートル先に車のサンルーフから手を振るブット氏がいた。
フセインさんによると、演説会場リアカット公園に隣接する行政施設の門から出たブット氏の車は、車道に入ったところで支持者に囲まれた。ブット氏が車から上半身を出すと「ブット首相万歳」と歓声がわき、直後に三発の銃声が聞こえ、すぐ爆発が起きたという。
「爆発前にブットは崩れ落ちた。ムシャラフ(大統領)はうそつきだ」。フセインさんがまくしたてた。
「遺体には弾痕」
死因をめぐる政府の発表は、銃撃から二転三転し、爆風により頭部を車のレバーに強打したことが直接の死因とされた。しかし、ブット氏が率いたパキスタン人民党(PPP)は「遺体に弾痕があった」と反発。事件の首謀者も、政府は国際テロ組織アルカイダと深い関係を持つイスラム過激派幹部との見方を強めているが、PPPには軍情報機関の関与を疑う声が根強い。
「英国の協力を得て謀略説を一掃したい」。ムシャラフ大統領は、三日の会見でこう強調した。国際社会からも噴出した捜査批判をかわそうと、ロンドン警視庁に協力を要請し、専門家チームが四日、イスラマバード入りした。
だが、地元英字紙記者は「政府は現場の血痕をすぐ洗い流した」と科学的見地からの捜査進展には悲観的な見方を示す。PPPも国連による中立調査を要求し、埋葬したブット氏の再検視に応じる気はない。
事件直後のブット氏の様子を聞こうと、運び込まれた病院を訪ねた。遺体を検査し、会見で弾痕に言及した医師の姿はなかった。カーン副院長は「所在を教えるなと政府に言われている」と首を横に振った。
ブット氏が最後の演説をした場所は、一九五一年に暗殺された建国時の臨時首相リアカット氏の名を冠した公園だ。
一族の死も殺害説
ブット一族の悲劇にも謎が多い。弟の一人は八五年フランスのアパートで遺体で発見され、上の弟は九六年カラチで警察と対峙(たいじ)した後に死亡したが、ともに殺害説が消えていない。一方、父ズルフィカル・アリ・ブット元首相をクーデターで倒したジアウル・ハク氏は、大統領就任中に原因不明の飛行機事故で死亡している。
過去の暗殺、不審死をめぐっては、いまだ論争が続く。イスラマバード政策研究所のチーマ所長は「パキスタンは独立以来、ほぼ半分の期間を軍政が掌握し、捜査はいつも、政権の圧力でうやむやに終わっていた」と指摘。「だが、今回は違う。国際社会が見ている」と真相究明に期待を寄せる。
繰り返される「謎」の歴史に終止符が打たれるのか。ブット氏の遺影の前には、反政府運動に身を投じ、自らも九六年に暗殺された同国の詩人ナクビの詩が供えてある。
「誰が税金(暗殺)を頼んだのか もう十分血を飲ませて寝たのに」