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(回答先: YouTube - 沖縄コザ暴動 - 1970(1970年12月)映像ほか【タックルシェー!アメリカー!】 投稿者 竹中半兵衛 日時 2007 年 10 月 10 日 22:24:41)
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ウマチード宮永英一
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第11回 Violence City KOZA
(コザ暴動編パート3)
http://umachido1.cool.ne.jp/essay/essay11/index.html
もうこれ以上一歩たりとも前進させまいと、島袋三叉路に最後の砦を築いた軍隊側の陣容は、日本の機動隊が最前列から10列ほどを占め、後方には米軍、さらにその後ろでは、軍車両やパトカーなどがいつでも動けるように待機していた。
なぜ島袋三叉路かというと、このすぐ先にはライカムの米軍高級官僚の住宅、外人商社があり、何が何でも島袋でシャットアウトせよとの厳命が発令されていたからだ。
両者の動きが止まり、距離を保ったままの睨み合いが続いていた。
時折、群集からの投石に対し機動隊からはガス弾が発射され、あたりは燃えさかる車両から上がる煙や催涙ガスの煙が立ち込め、まるでコザの街が戦場と化してしまったかの錯覚を覚えた。
緊迫した空気をぶち破るかのように、群集は火をつけた車を仕掛け、軍側の隊列を突破した。
そのたびに煙の中をパトカーがサイレンをけたたましく鳴らし、突入してきた車の後を追う、こんなことが何度も何度も繰り返されていた。
この様子を私は、群集と軍側の隊列のちょうど真ん中くらいに位置するビルの上から見ていたのだ。群集の中には日頃からよく見る顔が何人もいたのだが、後ほど行なわれた取調べに対しては「知らぬ、存ぜぬ」で通した。
やがて夜がしらじらと明けようとする頃には、群集もだんだんと減っていき、騒ぎはようやく沈静化を見せてきた。
太陽が昇って明るくなれば、顔を見られてしまう事を恐れてのことであろう。
何十人かの逮捕者を出したコザ暴動はこうして終わったのだが、不思議なことにこれほどの騒ぎであったにもかかわらず、死者はおろか重傷者さえ出なかったのだ。
もし世に「暴動史」というものが存在するならば、是非とも特筆してもらいたい出来事だと私は思う。
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CHIBI’S ESSAY
第12回 Hidden Truth
(隠された真実)
猫も杓子も「祖国復帰、祖国復帰」と、草木もなびく世紀の茶番劇の、はじまり、はじまり〜。
私が小学生のころに始まった祖国復帰運動は、沖縄中の子供からお年寄りまでが駆り出されてのビッグイベントであった。
といっても、小学生の私に祖国復帰の意味など分かろうはずがない。普段日本語を使うことのないお年寄りも同様だったと思う。
では誰がこの本質を理解していたのだろう。日教組?高教組?右翼団体?いや左翼団体?それともいわゆる有識者と言われている人たちか。
疑問の中で展開された祖国復帰運動に子供たちはもちろん、一般市民も参加し「オキナワを返せ!」と叫び、気勢を上げた。
年を追うごとにパレードはエスカレートし、気が付いてみれば毎年恒例のお祭騒ぎになっていた。
そんなお祭騒ぎが何年続いたころだろう、いよいよ大願成就するとなったとき、祖国復帰が本土復帰に摩り替わっていた。
まさにこれこそ世紀の大茶番劇以外の何物でもない。
そもそも「祖国復帰」の祖国とは我々にとって何処なのだろう。
三山を統一して出来上がった琉球か?
薩摩が侵略し、無理やり日本に帰属させ、沖縄県と名乗らされた沖縄か?
それとも第二次大戦において日本の防人として壊滅的な打撃をこうむり、敗戦後に瓦礫の中から米軍の手によって助け出され、成立した傀儡の琉球政府当時の沖縄か。
私には未だに真実が分からない。
私のアルバム「WAKE UP! 琉球」は、この疑問点を追求し、明らかにすることがテーマである。
歴史の中で常に国と国の間を、まるで舞い落ちる木の葉のように踊らされてきた我々。数々の困難に立ち向かってきたはずの琉球民族が、いまやそのアイデンティティと誇りを失い日米の援助に浸かりきっている。
オキナワの未来は?そして祖国とは?琉球民族よ、何処へ行く。
(南日本新聞 「南点」2004年6月18日)(了)