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2007/08/29
24年前、サハリンで撃墜された大韓航空007便 [ パワーポリティックス非公式情報 ]
http://plaza.rakuten.co.jp/31sakura/diary/200708290000/
今から24年前、1983年の8月31日18時26分(グリニッジ標準時、日本時間9月1日午前3時26分)にサハリン上空で大韓航空007便が撃墜されるという事件があった。カムチャツカとサハリン、ソ連の領空を2度にわたって侵犯した航空機にソ連の迎撃機がミサイルを2基発射、いずれも命中したとされている。1基は赤外線を追尾する方式、もう1基は迎撃機が発する誘導電波を利用するセミ・アクチブ方式だった。
三一書房から出版された『大韓航空機事件の研究』(1988年)や『大韓航空007便事件の真相』(1997年)、あるいはICAO(国際民間航空機関)の報告書などによると、007便は次のように飛行している。
大韓航空機は13時にアンカレッジ空港を離陸、その7、8分後から航路を逸脱し始めた。カイルン山のあたりで北へ6マイル(約10キロメートル)、重要な位置通報点で航法支援施設が設置してあるベセルでは北へ12マイル逸脱している。これはNORAD(北米航空宇宙防衛軍)のキング・サーモン・レーダー基地が記録していた。
万一、航路を逸脱しても通常はベセルで正しいコースに戻るのだが、007便は航路からさらに離れていく。その先には「バッファー・ゾーン」が横たわっている。その先には飛行禁止空域、「ノンフリー・フライング・エリア」がある。勿論、民間航空機が侵入してはいけない。14時32分からアンカレッジの管制官が007便に対して盛んに呼びかけているが、これは当然だ。34分には「警告しなければならない」という管制官と思われる人物の発言も記録されている。(アメリカ政府は「聞こえない」と言い張っているが。)
おそらく、14時50分前後に007便はバッファー・ゾーンへ入った。NORADのアラスカ航空指揮規則によると、飛行禁止空域に迷い込みそうな航空機を発見したなら、すぐに接触を試み、FAA(連邦航空局)へ連絡しなければならない。にもかかわらず、アメリカ軍は撃墜も予想される飛行禁止空域へ向かう民間機に対して何もアクションを起こさなかった。おそらく15時過ぎに007便はノンフリー・フライング・エリアに入った。
カムチャツカが目前に迫ってきた15時51分頃、大韓航空機はソ連防空軍の早期警戒管制レーダーに捕捉されるが、その頃にアメリカ軍の戦略偵察機RC135が近くで8の字飛行していた。相手国軍部隊の発するレーダー波や通信電波を傍受する機器のほか、電子・通信妨害(ジャミング)用の機器などを搭載する軍用機である。領空侵犯の4分後から9分間、ソ連軍は大韓航空機を見失った。
その後、007便はオホーツク海を横切り、サハリンに接近していく。18時頃になるとソ連軍は大韓航空機を軍用機とみなし、複数の迎撃機が飛び立っている。この頃、007便のコックピットでは不自然な会話が記録されているのだが、ここでは割愛する。そして18時26分にミサイルが命中、大韓航空機はゆっくりと右旋回しながら降下していったと戦闘機のパイロットは報告している。ソ連軍のレーダー記録によると、侵犯機は左旋回しているが。
事件直後、「自爆説」を唱えるアメリカ軍の退役将校がいた。何を根拠にしていたのかは不明だが、1960年代初頭に計画されていた極秘の「ノースウッズ作戦」を連想していた可能性はある。マイアミなどアメリカの主要都市でキューバ人を装って「爆弾テロ」を実行、最後にはキューバ機による「旅客機撃墜」を演出しようというシナリオだった。乗客を乗せたクローン機と無人で自動操縦の本物を途中で入れ替え、キューバ領空の近くで本物を自爆させることになっていた。
作戦の中心人物のひとりは統合参謀本部議長を務めていたライマン・レムニッツァー将軍。当時のアメリカ大統領、ジョン・F・ケネディがこの作戦をどの程度知っていたかは不明だが、この将軍の議長再任を拒否、ヨーロッパに追い出している。1962年のことだ。なお、アメリカの軍や情報機関の強硬派は、1963年末ならソ連との全面核戦争で圧勝できると考えていたと言われている。1963年11月、ケネディ大統領はテキサス州ダラスで暗殺された。
Last updated 2007/08/29 12:53:55 PM