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(回答先: 御巣鷹山でJL123便の撃墜命令を出したのは、新幹線で群馬選挙区から帰京中の売国政治家 中曽根康弘か? 投稿者 救国の草莽の志士 日時 2007 年 7 月 05 日 12:52:16)
(中曽根の動き) その2
艦船の新造は、国内の造船業界に発注されるが、航空機とりわけ高額な戦闘機は、全て米国航空業界に発注される。欧州には申し訳程度のヘリコプターや小型輸送機が発注された。そうして、購入計画の方向は、米国へ、米国へと向かった。軍用機は、マクダネル・ダグラス社とロッキード社が発注を受け、残る民間航空機メーカーはボーイング社に絞られてゆく。その結果、現在の日本の空はボーイング社の項羽空気で占められている。中曽根は、地元が群馬でありながら、墜落現場には行かず、山下運輸大臣に任せて、山下運輸大臣が翌日の8月13日午後ヘリコプターで上野村を訪づれた。では、8月12日の事件発生当時に、中曽根は何をしていて、どんな指示や行動をとっていたのだろうか?
軽井沢で身内とのい休暇を過ごし、17時11分に軽井沢駅を発った「特急あさま22号」に乗り込んだ首相は、大宮駅に18時52分に着き、1分程度停車で、終点の上野駅着は19時15分であった。日航123便の迷走はACCレーダーと自衛隊レーダーで捉えられていたのは、18時25分ごろから18時55分過ぎまでであり、最初の尾翼への衝突の18時23分には、社中にいて全く知らされてはいなかったということになっている。果たしてそうだろうか?上野駅に着いた19時15分には、日航123便
は「行方不明」となっていたので、官邸の秘書官は、「行方不明」だけの情報ではどうしようもなかったので知らせなかったと依田秘書官はいう。上野からは、電話付きの首相専用車であったが、公邸到着の19時47分までに、首相に急を知らせた者は誰もいなかったことになっている。結果的に、公邸玄関で待ち構えていた新聞記者の質問を受けて「ほおー、どこで?」と首相が驚いたということになっている。
首相の日程は、分刻みでえ予め決められているのいだから、常にその居場所への連絡方法は常に確保されているものである。例え車中であTTも、無線電話や携帯電話は常備されていたのは当然であろう。国家の最高指揮官が戦争の攻撃に対してのような緊急事態の発生に対応出来ないなどということがあろう筈はないのである。そうでなければ、いつどこで何が起こるやも知れない現代社会の危機管理などは不可能である。
日本航空はこの当時は、半官半民の特殊法人であり、国営企業だと思われていた時代で、そのジャンボ機の満席のままで、行方不明になったという事態の発生に、一国の最高責任者の首相に、発生以後に情報が全く伝えられなかったし、こんな大事故の発生を新聞記者から知れされるなどという馬鹿なことがある筈はない。
首相公邸に入ったのが19時47分。もう既に、多くの国民が事故の発生を知り、自衛隊機は2回目の現場上空飛行を行なっていた。海外にも、重大ニュース発生は、特報で伝えられていた。ここで、やっと依田秘書官から詳細が初めて公式に伝えられたということになっている。