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(回答先: 「御巣鷹山でのJL123便事件の撃墜命令を出したのは誰か? 新幹線で群馬選挙区から帰京中の売国政治家 中曽根康弘総理大臣 投稿者 救国の草莽の志士 日時 2007 年 7 月 03 日 20:41:20)
(墜落時の政治的背景) その1
日本では、第一次中曽根内閣の時代であり、ユダヤに逆らって米国に刺された田中角栄元首相の「ロッキード事件」公判中であった。「ロッキード事件」こそ、三木内閣の下で田中角栄追い落としの采配をふるっていた中曽根幹事長が主犯の、児玉ルートの防衛庁への対潜哨戒機P3Cオライオン導入にかかわる贈収賄事件であったが、キッシンジャーの手先で田中角栄追い落としの采配をふるっていた中曽根幹事長が、民間機の全日空機の購入にかかわる田中の丸紅ルートのみに、ロッキード事件を矮小化させて、検察とマスコミの追及を逸らせ、ロッキード事件の本質だった児玉ルートにかかわる己れの贈収賄事件を葬り去った直後である。そのい被告人の田中角栄が脳梗塞で病にたおれたのが、この年の2月であった。時の米国大統領は、ロナルド・レーガンで、ソ連ではゴルバチョフ時代に入り、両大国を中心に世界は、軍縮への道を歩み始めた時代でもあった。
その頃、我が国の政局は、中曽根内閣がこの年の末には第二次の組閣を終えて、スタートしたばかりである。中曽根内閣になって、行政改革や教育改革・民活導入と新しい政治姿勢が打ち出される中でも、際立っていたのが防衛問題であった。次期防衛計画、シーレーン防衛論、防衛費の対国民総生産(GNP)比1%枠の撤廃論と、「風見鶏」「との異名の中曽根は、政権につくや否や「急変」した。強硬な右傾化路線を次々と打ち出しつつあった。その発言や政治手法に不安を募らせた中国では「日本軍国主義の復活」としてデモや抗議アピールを繰り返した。そうした中で、日中の子々孫々に亘る友好を進めようと中曽根との間で大規模な相互の青年交流を進めていた、胡耀邦首相が中曽根の右傾化の犠牲者となって失脚した。
日本経済の成長は著しく、この経済成長の基盤には、日本の輸出産業の大幅な伸びがああった。日本は、世界最大の債権国家に伸し上がった。しかし、そのことは同時に海外諸国との貿易摩擦を生み出し、とりわけ欧米諸国の日本に対する不満は、この頃頂点に達して、中曽根内閣にとって、この貿易不均衡の是正解消こそが、最重要課題となっていた。何としても、日本の輸入高を上げて、貿易摩擦の解消をという訳だ。そこに、中曽根特有の旧海軍士官だった中曽根特有の政治理念が持ち込まれたのであり、貿易摩擦解消策という大義名分を得た「防衛費の増大」であった。
昭和60年度予算での防衛費は対GNP比で0.997%となり、自民党内からでさえ、「防衛力が戦力に変わろうとしている」等の異論が相次いだ。冷戦の終了で世界的軍縮が進む中で、日本だけが世界の流れに逆らって、「軍事力強化の道」を歩み始めていたのだ。航空自衛隊の大綱に基づく増強プランは、戦闘機等、航空機購入配備だけでも430機、海上自衛隊となると新造艦船は80艦船にも及び、その配備完了時には米国に次ぎ世界第2の海軍力を持つに到った。
その配備計画の中には、「新八八艦隊」構想があり、旧帝国海軍が配備しようとして、果たせなかった「幻の艦隊」の実現があった。八隻の護衛艦と八隻の搭載戦闘ヘリによって構成される艦隊である。85年3月にはその第1号護衛艦「はるゆき」が引き渡され、横須賀の海上自衛隊第1護衛隊群に編入された。御巣鷹山航空機事故の当日、駿河湾で日米合同訓練中に使われていた、まだ進水式前の護衛艦「まつゆき」もこの中の一隻であった。