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(回答先: <日米戦で米軍に日本の作戦が筒抜けになったわけ>古賀峯一提督殉職(海軍乙号事件)【土佐高知の雑記帳】 投稿者 gataro 日時 2007 年 4 月 02 日 10:51:26)
http://hope.way-nifty.com/a_little_hope/2007/04/post_bf66.html から転載。
2007/04/01
生命と引き換えの市民権と、日本の戦争遂行における農村の犠牲について
今日夕方のNHKの報道番組を見ていたら、米兵のリクルートを取り上げていました。
米軍は、イラクにおける長期にわたる先の見えない戦闘で、兵力が常に不足気味になっています。しかし、73年に米国は徴兵制を廃止しているので、なんとかして志願兵を集めなければいけません。
本来海外での任務のない州兵も駆り出され、悲惨な帰国となった人も少なくありませんが、兵士の供給源としていちばん注目されているのは、白人の低所得者層、黒人やヒスパニッシュ等のマイノリティ、そして今日の報道の主役だった米国市民権を持たない外国人です。米国はすでに格差が固定した資本主義社会ですが、逆に言えば、中所得者以上は戦争に対する関心が低い。自分達や子どもが戦場に行く可能性がほとんどないからです。「華氏911」は、まさにこの構造を告発するための映画と言ってもいいと思いますが、ムーア監督が描き出した矛盾は一層深刻化しているようです。
米国市民権をもたない外国人に志願を持ちかけ、戦場に行って米国のためにたたかえば、それだけで本人にも家族にも市民権を与えると誘います。しかし、生きて元気に帰ってくるとは限りません。息子をイラク戦争で失った父親は、死んでから市民権をもらったとして何の意味があるのか、とこの制度に反対するプラカードを下げて街頭に立ちます。大学へ進む学資の援助も最近は増額され、「一般企業ではこんな待遇はありえない」と高校生を煽っています。当たり前です。生命を差し出すわけですから。でも不安で踏み切れない青年には、必ずしも戦場に行くとは限らない、と説得していましたが、そんな上手い話があるはずがありません。鉄砲玉にもならない若者の学費援助ができるくらいなら、その地域の普通の就職の面倒を見ればよいのです。
様々な特典をちらつかせて特定の階層の人々を志願へ追い込むやり方を批判されても、軍のリクルートの担当者は意に介しません。これは名誉ある仕事なんだ、と。しかし、志願兵におけるマイノリティの割合は米市民全体の割合より常に多く、更に戦死者での割合ならもっと多くなります。
こうした現実を、米政策の行き詰まりと言う見方だけではなく、戦場に行くしか選択のない人々の悲しみ、悔しさをもっと共感する視点で報道できないものでしょうか。
報道を聞いていて、中世自治都市間で行われた傭兵同士の優雅な戦いをのぞいて、いつの時代もこれが戦争と言うものだ、と思ったのです。
先週私は、石川宮沢賢治を読む会で「賢治の見た兵隊」という題でした話をさせていただきました。賢治が戦争をテーマに描いた童話や戯曲として、「烏の北斗七星」「飢餓陣営」「北守将軍と三人兄弟の医者」がありますが、いずれも主人公は兵士です。しかも、「飢餓陣営」「北守将軍と三人兄弟の医者」には戦闘場面もなければ、何の目的で戦争をしているかも分かりません。極端に言うと勝敗さえ重要ではないように思えます。
賢治の最晩年の作品「北守将軍と三人兄弟の医者」の完成稿が「児童文学」に発表されたのは、柳条湖事件が起こった1931年でした。翌年新聞社は「満州事変」を支持する共同宣言を発表、五一五事件で犬養首相が殺害されました。一方で東北、北海道地方は冷害によって大凶作となり、各地で欠食児童、娘身売り、家族離散続出します。政府は救済事業に乗り出しますが、それもすでに国家予算の4割に達していた軍事費に圧迫され、わずか3年で頓挫します。こういう時期に、戦場から帰還した将軍が人間に戻る話を書いた意図はどこにあったのか、私は調べていました。そして、やはり賢治の視点が農村、農民に注がれていたことに気付いたのです。
日本陸軍の兵士はほとんど農村出身者で占められ、日本の「近代化」と戦争は農村の犠牲なしには進められなかったのは明らかですが、これほどの犠牲を払っても、軍需で儲けた財閥は国内消費に期待せず、輸出に精力を注ぎ、近代化の恩恵は国内には還元されませんでした。
農民は、従来の封建体制の下での領主の年貢に匹敵する高率の小作料という形で収奪を受け、自家用酒造法や葉 煙草専売法の実施以降は、わずかな嗜好品の自給自足も禁じられました。さらに、日露戦争では農村から兵士百万人が派兵され、5万人が亡くなりました。馬も二十万頭が徴用されました。農村では、戦争で働き手をとられたため堆肥は十分につくれない上、大豆粕の満州からの輸入は止まりました。こういう時に気候不順が重なった結果が日露戦争後の大凶作でした。政府はそれでも、膨張政策をばら色に脚色し、自由な言論活動を弾圧することでその不満の目くらましをはかりました。村税も集まらず、信用組合も半潰れで、小作料が5年も滞り、いよいよ農村社会が崩壊寸前になればなるほど、「満蒙に渡れば十町歩の自作農になれる」という宣伝にしがみつくしかなかったのです。戦争は、この時期威勢の良い進軍ラッパではなく、疲弊した農民から選択肢を奪い取っていきながら徐々に進められていったのです。
やがて、農村で次男坊以下の徴兵は、貧しい農家でも食い扶持が減るだけでなく、場合によっては仕送りも可能であり、一般社会に比べ出身による差別が少ない、ということで歓迎する家も現れます。中でも、日清戦争以後戦功をあげた軍人にのみ制度化された金鵄勲章の年金百円は、小作農の年収の2倍半に相当し、借金で首の回らない小作農には大きな魅力でした。それがかえって、戦争の目的や悲惨さを覆い隠すことにもなっていったのです。
当時の日本で戦争を考えることは、農村を考えること、農民を考えることと切り離すことはできませんでした。「大義」のためではなく、生活困窮のために戦争に借り出されていく兵士を農村に取り戻し、人間性を回復させることを、賢治が死を意識した人生の最終盤の夢として選んだのは、自然なことのように思えます。
人間の生命に軽重をつけるやり方には、どんな正義もあり得ない、と声を大にしていいたいです。