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(回答先: ユダヤ・イスラエルの日本民族に対するルーツ探しのDNA鑑定を断固拒否せよ 投稿者 不動明王 日時 2007 年 1 月 25 日 22:26:25)
今でも、ユダヤは、漢字で「猶太」と書くが、これは大和朝廷以前の昔も同じであったものと思われる。即ち、中国人による「ユダヤ」に対する名称は同じものであった可能性が高いと言えよう。当時の日本はユダヤ国家であったことは、色んな風習や文字、話し言葉にも片鱗が伺えるというものだ。
例えば、数え方であるが、「一、二、三、四、・・・」は、中国風の「イー、アール,サン、スー、・・・」であり、本来の縄文大和言葉は「ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、・・・」であった。その他に「ひ、ふ、み、よ、・・・」があるが、これこそ、ユダヤ・ヘブライ語によるもので、人称を現すものが数え方に転移したものであった。
また、民謡の囃子言葉も殆どヘブライ語で解釈すれば意味が通じるのも事実であろう。また、、「はっけよい、のこった、えっさほいさ、よいしょ、どっこいしょ、わっしょい、・・・」などもヘブライ語由来のものであるようだ。京都の祇園祭にしても、「祇園(しおん)の祭り」であり、「平安京」は「エルサレーム」に通じるものでもあった。
そこで、当時の日本の名称である「倭奴」であるが、当初はユダヤ国家であるように「猶太」などと中国側から、「獣偏」を付けた「猶」の文字が当てられていたものだが、日本側は交渉して「猶」を「倭」に変えさせたように思われる。そこで中国側も、生意気だと反応したかどうかは解らないが、「太」を「奴」に変えたのが真相ではなかろうか。
実際、「倭」の名称の由来には「委(ゆだ)ねる」と言うように、「ユダヤ」の痕跡が伺えるというものだ。他にも、神道におけるユダヤの風習や、各地の習慣・風習、天皇家の儀式などを初め、色んな言語や物的証拠、状況証拠があるが、倭国当時の日本はユダヤ民族が支配していたことが理解出来るというものだ。
ところが、大和朝廷の時には、中国弥生系の前に排除されていったようだし、ユダヤも、秦氏に見られるように、自らその痕跡を抹消していったように思われる。古代ユダヤの痕跡は、文献などの書き言葉、文字からは抹消されたが、一部の名称や話し言葉には多く残ったと言うことだ。
古代ユダヤの痕跡の抹消の背景や原因は、実に、漢字の流入であり、仏教の伝来であり、漢字文化や、仏教文化の前に、ユダヤ・ヘブライ文化は排斥、淘汰される運命に遭遇したものと思われる。日本は神道と仏道の対立以前に、原始・キリスト教の存在があったのだが、両者の対立の中で埋没し、何れかに付くように旗幟鮮明を迫られたとも言える状況があったように思われる。
聖徳太子も、そのような状況の中で、原始キリスト教の流れを汲むように、馬小屋で生まれたイエス・キリストと符合するように、「厩戸皇子(うまやどのおうじ)」と命名されたのであろう。実際に、「厩戸皇子」は存在したが、聖徳太子はいなかったともされているものだし、案外、真実であろうと思われる。
聖徳太子が仏教の守護者だとされるが、実際、太子ゆかりの四天王寺にしても、法隆寺にしても、本来の仏教と言うよりも、バール信仰を初め、原始・キリスト教の名残が感じられるものである。また数々の逸話や伝説に関しても、実に不可解なものが多く存在しているのも事実だ。しかし、日本民族全体がユダヤ人であるとか、ユダヤと縁戚関係があるとかで錯覚してはならない。こんな妄説は、入り口段階で止めておいて、最後まで付き合ってはならないものだ。
これからも、日猶同祖論などが登場するが、それが真実だとしても、今更どうなるものでもないことだ。数百年前に、祖先が同じであったとしても、今更、仲間でも家族でもあるまい。既に大きく宗教観や信仰観が異なっているものであり、何よりも、既に民族の歴史、民族性自身が大きく且つ根本的に異なっていると言う認識が大切なのだ。
悪しき偏狭で排他独善的なユダヤ教を盲信し、郷に入っては郷に従わずに世界中から排斥されてきたているユダヤ民族と、それを排斥して、複合多民族国家として同化した日本民族とは、根本的に異なる民族であると言うことだ。
DNAや姿形、風習が一部同じだからと言って、それも一部の日本民族の中に混入しているからと言って、仲間だというのも、牽強付会の屁理屈として、断固排斥していくことが大切だろう。