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Re: 大学に「商品としての教育」を持ち込んだ男−桐蔭学園学長・鵜川昇の「教育はサービス業である!」
http://www.asyura2.com/07/social5/msg/315.html
投稿者 こげぱん 日時 2007 年 11 月 30 日 22:50:29: okIfuH5uFf.Lk
 

(回答先: 桐蔭学園高1年の男子柔道部員を逮捕/横浜・青葉区で路上強盗【速報】(神奈川新聞) 投稿者 こげぱん 日時 2007 年 11 月 28 日 21:50:22)

はて、教育は市場原理とは反りのあわないところ、のはずなのだが。

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http://www26.tok2.com/home/kirikage/01.htm#

大学に「商品としての教育」を持ち込んだ男

たったの十年で桐蔭学園高校を”超一流進学校”に仕立てあげた学校経営の怪人、
桐蔭学園横浜大学学長・鵜川昇の「教育はサービス業である!」

 

 大学の経営者ほど「今」を謳歌している経営者はいないだろう。
資金繰り、社員教育など経営者の苦悩は尽きないが、いつの時代でも最大の悩みは客をつかむことができるか、商品が売れるかどうかであった。ところが、大学の経営者はその悩みから開放され、商品の売り先にまったく困らなくなってしまった。黙っていても客が押し寄せているのである。しかも、地方からの“出店要請”も相次ぎ、「造成済みの土地を無料で提供するから進出して欲しい」「経常赤字がでるようなことがあれば、半分は地元で負担するから」などと信じられないような“おいしい話”が理事長室に持ち込まれている。
 それは周知のとおり、大学経営者の努力とはまったく関係なく、第二次ベビーブームによって十八歳人口が急増しているためである。その増加数は、大学人にとってゴールデンセブン(86年から92年)に一挙に二十万人である。進学率を約40%とすれば、何もしないで八万人もの客が湧いてくることになるのだ。
 しかし、ブームのピークは92年で、翌年から一転して激減する。増加に比べ減少の速度は早く、七年間で五十四万人に達する。お客さんは一挙に二十一万六千人(進学率40%)減ってしまうのである。その激減は地方分散化を進めている国土庁をして「数十校の大学が倒産する」と言わせるほどだ。だから、大学経営陣のあり様は、高度成長を満喫しながらも確実に予見できるオイルショック後の低成長に恐れおののいている、といった方が正確であろう。心情は「春来たりなば、冬遠からじ」か。
 今を謳歌する一方、その危機感も相当なもので、冬に備え、校名を変更したり、男女共学にしたり、あるいはスポーツに力を入れたりと賑やかだ。“国際化” と称しながら帰国子女を狙ってアメリカにちゃっかり高校を作る大学もある。冬への備えは何も偏差値上で二流、三流校に止まらず、倒産など無縁も無縁の東大でも動きだしている。それは「大学院重点大学」構想、簡単に言えば六年制大学の実現である。生き残り競争の結果、“超一流大学”から“四流大学”まで生き残り戦に戦々恐々としているなかで、
「生き残り戦なんて、うちはまったく無縁。近く大学院を設置するがその大学院に入れないような学生には東大の大学院に行ってもらう。『落ちこぼれは東大に行け』だ。ガッハッハッ。狙うのはずばりノーベル賞。うちの大学卒業生からノーベル賞授賞者を出す。そういう大学にしてみせますよ」
 と豪語する大学経営者が現れた。鵜川昇である。年齢は68歳大学名は桐蔭学園横浜大学、各大学の生き残り戦が進行中の88年に新しくできた大学であり、鵜川はその理事長兼学長である。


桐蔭高を十年で“一流”にした男の大学づくり

「これから、つぶれる大学は出てきますよ。高校もね。出れば出るほどいい。つぶれること、大歓迎ですよ。だいたい、大学だからといってつぶれなかったこれまでの方がおかしいいんだ。客がいい店を選ぶ。その結果悪い店はつぶれる。大学だって同じ。当然のことですよ」 「横浜の名がつく大学で有名なのは横浜国大と横浜市大だけど、すぐにうちの大学の方が有名になりますよ。横浜の大学と言えば桐蔭学園横浜大学を指すようになる。ガッハッハッ。」
 鵜川の話は、自分でも自信がありすぎるのが欠点だというほど、自信に満ちあふれている。話す内容は大言が多く、大学経営者のなかでもここまではっきり物を言う人は珍しい。が、あながちホラばかりとは思えないのは、桐蔭学園高校を開校してからわずか十年間で、“一流”進学校に育てあげた実績があるからなのである。
 高校の業界ではつとに有名になった桐蔭学園高校が横浜に開校したのは、64年のことであった。入学者は中学校の“落ちこぼれ”か、公立高校の受験失敗組。最初の卒業生をだした67年は国立大学の合格者はゼロ、早稲田もゼロ、慶応にかろうじて一人という状態であった。それが二年目に一橋(二人)、千葉(一人)、東北(一人)、横浜国大(二人)、早稲田(七人)、慶応(九人)に合格するようになり、七年目に東大の合格者を出した。七七年からは東大二桁合格となり、昨年の88年には東大合格者五十五人、京大四十六人、早慶四百四十八人(日本一)を出している。
 高校が開校した64年と言えば、大学ができた88年と似ていた。64年は第一時ベビーブームで十八歳人口の急増期。しかもそのピークが65年で、それから先は激減するよいう状況にあった。神奈川の私立関係者は桐蔭の開校について「無謀」と評し、運営の存続すら危ぶんだものがいたほどだ。ところが、今では神奈川の名門の湘南高校を抜き、東大合格者では県下二位の高校にまでなったのである。
 また、スポーツでも実績をあげ、野球では四回甲子園に出場し、七一年に全国優勝している。昨年プロの誘いをすべて蹴って話題を集めた、慶応の志村亮投手は桐蔭の卒業生である。「落ちこぼれは東大に行け」という鵜川が作った大学は工学部一学部、制御システム工学科、材料工学科の二学科で百六十人の小さな大学である。大学の生き残り戦で有力な戦略となっているのは、高校と大学の相乗効果である。つまり、高校が大学をつくり、大学が高校をつくる。“大学のある高校”高校自体の魅力が増し“高校がある大学”は大学の入学者の確保が計算できるというわけだ。どちらも客の固定化を狙ったもので「高校からストレートで大学に行ける」ことを最大限にアピールできる。桐蔭学園が大学をつくったねらいもその点にあるのかと聞くと、鵜川は大きく頭を振って、どぎついことをしゃべった。
「そんな作戦、必ずしも成功するとは限りませんよ。例をあげましょうか。武蔵高校がありますね。有名な高校ですが、その高校の大学、武蔵大学なんて、有名でも何でもない。武蔵高校から武蔵大学に行くような生徒はいないんじゃないのかな。広島の名門修道高校が大学を作りましたが、大学をつくって逆に高校のレベルが下がってしまった。ガッハッハッ。玉川学園は小学校から大学までありますが、はっきり言えば下にいくほどいい学校ですよ。うちの狙いはノーベル賞がとれるような、これまでにない大学をつくることです」


かっぱらい物資の輸送屋、高校の国語教師になる

 鵜川の大学作戦に話を進める前に、彼の経歴について触れておこう。
 生まれは大正九年(1920)。東京・大井町の町工場街でうまれた。「家は貧乏だった」といい、父親は映画のコードとなる電爛づくり、母親は洋品屋のようなことをしていた。官僚になろうと一高を受験したが失敗し、今度は作家になろうと一浪して東京高等師範学校(現筑波大学)に入学した。
 学徒動員が下る前年の42年に招集を受ける。が、体重が四〇キロしかなかったため試験の結果は第一乙種合格に。不合格ではないが、「使えない歩兵」要員というわけだ。軍隊生活は、少年航空兵の所沢整備学校の物理の助教師(鵜川の専門は国語)から始まった。その御、名古屋の機体工場、浜松の特攻機の整備工場を経て、敗戦のときには宇都宮航空廠金丸原分遣隊のもとで本土決戦に備え、地下防空施設をつくるために那須の山で地下濠を掘っていた。
 鵜川が商才を発揮するのは、このときからである。大野伴睦や皇族とも付き合いのあった軍の御用商人という鈴江弘次なる人物と知り合い、その手先となって働くようになった。仕事は地下濠に残された生ゴムや落下傘の絹布など豊富な軍需物資をかき集め、それをトラックで東京に運ぶことであった。簡単に言えば、泥棒の片割れである。
「鈴江って人がどういう方なのか今でも正体がわからないが、赤坂の方に家を持ち、そこに大野伴睦が来たり、宮様が服を取りに来たりしていました。あの頃は、ともかくおもしろかった。かっぱらい物資のヤミ輸送でしたからね。いろんなもを運んだ。栃木の薪も売った。薪は統制物資ですが、忘率っていい加減でして、鋸で木を切ったのが薪で、ナタなら粗朶というんです。粗朶なら引っ掛からない。それを東京に運んで、船橋で魚と取り替えたこともあった」
 こうした話をしているときの鵜川は実に楽しそうで、小柄ででっぷり太っているためか、鼈甲緑の眼鏡のサングラスに代えれば泥棒の親分そのものである。かっぱらい物資の深みはまれば小佐野賢治だが、鵜川は鈴江から三万円もらい、かっぱらった生ゴミをもとに、今泉自動車商会を設立、ヤミ輸送と地頭者の修理工場を始める。相当豪遊したといい、そのために警察に狙われ、「ヤミ輸送で近く逮捕」の新聞記事が載ったこともあったという。
  豪遊生活のピリオドを打ったのは、47年9月14日のキャスリーン台風であった。関東に大水害をもたらしたこの台風は死者二千二百四十七人を出し、鵜川の工場の資材もろとも濁流に流し込んでしまった。
「今度は一転して借金生活になった。金屑を広い、それでコッペパンを食べていた。仕方ないので、栃木県庁に就職相談をすると栃木高校に教員の口があった。それで国語の教師になったのです。」
  鵜川にとって、学校教育との本格的な出会いであった。49年のことである。

 

栃木高校から鵜川追放!?誓約書を書いて小山台高へ移る

 栃木高校では異色の存在だったようだ。鵜川の影響もあって作家となった佐江衆一は、次のように語る。
「鵜川さんは、私が一年生のときの担任でした。教科書とは関係なく、藤村の『若菜集』を文学の立場から熱心に教えてくれたことを覚えています。それによって私は文学に開眼した。読み書きなど今のような授業は一切やらなかった。他の教師に比べて際立った存在で、とにかく熱心でした。若くて進歩的だった。あの頃は、革命的精神主義に燃えていらっしゃったのではないか」
  進歩的、革命的精神について、鵜川は、
「マルクスやレーニンは読んでいたし、『アカハタ』も取っていたが、党員ではなかった。ただ、まわりに党員がいたため、セミ党員のように見られていたのではないか」
と言い、
「その頃の私はアメリカ(占領軍支配下)のもとで教育はできないと、アンチな考えをもっていた。一方で社会は混乱に満ちていたけど、学校に入ってこんな清純な社会があるものかとびっくりして、文学にのめりこんでいった」
 鵜川が栃木高校で教壇に立っていた49年から50年は、時代が急激に右旋回をとげつつあったときだ。下山、三鷹、松山事件の後を受け、49年の9月から教員に、50年の7月から全国的なレッドパージの嵐が吹き始める。
 教員組合の熱心な活動かであった仲間二人がレッドパージを受け、高校から追放を受けた後、「鵜川追放」の声が一段と高くなった。追放が避けられなくなったとき、つてを頼って東京の小山台高校に、「政治活動はしない」という誓約書を書いて、移った。誓約書は別にしても、実質的には栃木高校からの追放であった。
 栃木から離れるとき、新栃木駅に授業を放棄して生徒が見送りにきた。
「人数は忘れたけど、大勢の生徒が集まったのを覚えています。僕の場合は担任だったし、文学を教えてもらったことが印象深く、泣きはしなったけど別れが辛かった」
 と佐江は語る。
 この授業放棄を扇動したのは佐江の一級先輩の初純(現沖縄大教授)であったという。その当時は生徒会長であった宇井純が次のように証言する。
「私の父親も当時宇都宮女学校の教師をしていてレッドパージにあったので、栃木高校でも抵抗しました。鵜川さんは自分が先に立って行動するような熱心な先生で私が勉強するようになったキッカケも鵜川さんの影響があったように思います。その後、小山台に行かれたと思うのですが、その教え子がうちの学長の新崎さんなんですよ」
 話は横道にそれるが、三鷹事件がおきた日、鵜川は宇井と一緒だったという。
「宇井ら四人で日光にキャンプに行ったことがある。夜、テントの中で彼らが歌を歌っている。何事だと菊と、『先生、三鷹事件がおきた、これからい社会がやってくる』と言う。歌はインターのようだった」
 当時の雰囲気を物語るエピソードである。

 

駿台予備校で学んだ「商品」としての教育

 51年、鵜川は東京の小山台高校に着任する。小山台高校は旧制の府立八中で、戦前は進学校で鳴らしてきた学校である。が、戦後は日比谷高校(旧一中)に大きく水おあけられ、中学でオール5の子は日比谷、4の子は小山台という状況だった。日比谷にコンプレックスをいだきながらも、いい大学に入りたいとい雰囲気が蔓延していたという。
 純朴な栃木高校から進学校の小山台高校。鵜川に一つの転機が訪れる。
「オール5の子は日比谷で、4の子は小山台。知能の識別、今でいう。偏差値による区分が行われていました。私はこれに反発した。4の子であっても、能力をのばしてやれば東大にだって入れるはず、と思った。これに応えてやるべきだと考えたわけです。そこで、私と受験教育が結び付いていったのです」
 すぐに三年の進路指導を担当し、徹底した受験教育に力を入れた。徹底という意味は詰め込み教育というのではなく、たとえば東大の試験問題の出典の本をすべて購入し、そのすべてを読むというよな徹底ぶりであった。同僚の一人は、「鵜川先生が生徒に返す答案用紙は赤インクで真っ赤になっていた。それほど熱心でした」と言う。
 小山台高校の教員生活は十一年続くが、その後の鵜川に大きな影響を与えたのは、高校よりもバイトで教えた駿台予備校の方であった。高校での経験はむしろ反面教師となったことが多かったようだ。
 駿台で学んだのは、「商品」としての教育であった。予備校生は高い金を出して授業を聞きにくる。教師が授業に遅れてくれば、生徒から見れば詐欺である。生徒は授業を買う客であり、そのためには教師はチャイムが鳴る前に教室に入らなければならない。また授業がおもしろくなければ、生徒は帰ってしまう。人気がなければ、「商品」を売る教師としては失格である。こうした関係が「公立」という環境で曖昧になってしまう小山台高校と比較し、駿台はひどく印象的だたようだ。
 このとこの経験がその後の桐蔭学園高、昨年つくった大学の経営にも色濃く反映されたことになる。鵜川は話す。
「資本主義社会の関係は交換価値によって規定される。マルクスは実にいいことを言っている。ならば、教師は何を売のか。生徒はお客様だ。本を読んで分からなければ、その分からないところを教えてやるのが、教師の売るべき商品ではないか。生徒にへりくだるつもりはないのですが、教育というのはサービス業なんですよ」
 鵜川は偏差値の低い生徒であっても、教育の力によって伸ばせると考えた。しかし、それを実現するには規制の多い公立高校では無理だと判断し、自分で学校をつくろうと考えるようになった。それが桐蔭学園高校につながっていく。

 

学校開設資金を農協からかりるために、百姓になる!?

 桐蔭学園高校が開設したのは64年。それから十年で有名進学校になったことはすでに述べたが、鵜川がうそぶく「桐蔭学園横浜大学を日本の超一流大学にしてみせる」が単なるホラであるかどうかを判断する材料として、開校時の話にも触れておいた方がよいだろう。
 何しろ64年には生徒・教職員を合わせて200人足らずの小さな学園が、今では幼稚園から大学まである、8500人のマンモス学園に成長したのだ。この才覚は、敗戦直後にかっぱらいの物資で大儲けしたときを髣髴させる。
 学校の所在地は横浜市緑区鉄町。前の所有者は東急グループの創設者である五島慶太であった。鵜川の先輩にあたら東京高等師範卒の五島は大学経営を考えていた。そのために東急田園都市を敷設する前に、鉄町の土地を買っておいた、その五島が亡くなり昇が後を継ぐが、教育にはまたく興味を示さず、その土地三万坪を桐蔭が坪六千円で購入することになる。
 学校創設の賛同者は、小山台高校のPTA会長で三菱化成会長の柴田周吉(桐蔭学園の初代理事)であった。柴田が賛同者といってもあくまで個人であり、三菱化成が応援するわけではなかった。このため、創設時から資金繰りに困った。柴田の役は企業回りだったが、潤沢に集まるわけではなく、高利の金にも手を出した。建物には四億円かかったが、十五年後に返済したことでも分かるとおり、「借りては返しての綱渡り」(鵜川)だったという。
 戦後のヤミ輸送時代、薪なら統制物資で粗朶なら非統制物資と見抜いたような鵜川の抜け目なさは、資金繰り、学校親切の認可などでもいかんなく発揮される。
 資金手当てのために、農協に融資を申し込んだことがある。が、組合員ではないからと断られた。そこで、鵜川が使った手口は、近くの農地を買い、百姓になったのである。しかも、この農地は馬の火葬場だったところで、誰も買い手が無かった土地であったと言う。実にしたたかなのである。
 開校予定は64年4月。ところが、準備が遅れ、ようやく起工式ににたどりついたのが、開校五ヶ月前。4月に後者が完成しなければ県は認可しない。そのために鵜川は施工業者に頼んで工程表をカイザンし、偽物を県に提出、認可を受けたのである。
「やろうと思えば、何でもできるんですよ。ガッハッハッ」
 したがって、最初の授業はプレハブ校舎っであった。しかも、まだ田園都市線が開通していなかったため、小田急線の柿生駅からのバス便頼るしかなかった。このバスが一時間に一本しかない。このため、当初の授業開始は九時過ぎだった。それに電話線もなく、近くの郵便局からの予備出し電話を利用していた。電話線はすぐに敷設されたが、これは選挙時だけに引かれる特別許可制度のの適用を学校にも認められるよう、鵜川が迫ったからである。

 

これが鵜川流受験生集めの秘訣!

生徒集めは、キャラバン隊を組み、県下の中学校200校を訪問した。
「学校をたずねるでしょ。そうしたら、将棋を指しながら、こちらの説明をろくに聞きもしない。腹も立ったけど、公立の教師って楽だと思いましたよ」
 桐蔭学園高校のセールスポイントは「進学校であること」「能力別教育を行うこと」「建物は一流企業の竹中工務店が手がけること」の三つであった。最初は、建設大手の竹中を生徒募集のケイクに使わざるを得なかったほどなのだ。
 人集めの手段ということでは、鵜川はこんなこともやった。定員は百五十人、合格発表の日、合格者の番号が一番から順に張られたが、ところどころ欠番があった。受験生は不合格者の存在を知ってにんまりとし、競争率は一倍以上になった。鵜川は例の高笑いをしながら、学校経営の要諦について話した。
「落としたように見せかけたんです。架空の番号をつけたのです。受験生の心理は落ちた人がいると喜ぶんです。選ばれた気持ちになる。競争率をつくらなければ次の応募者は少なくなってしまう。ホラ、あれと同じなんですよ。病院の待合室に誰もいないと医者の腕は大丈夫かと不安なり、満員だと腕がいいんだと思い込む」
 もちろん、こんなインチキで進学校になったわけではない。“落ちこぼれ”を能力別教育で大学に進学させたからである。この教育についての紹介は省くが、能力は後天的なものであり、到達度別にクラスを分けた方が教育効果が上がるという考えのもとに、一年単位で英数理の教科ごとにおクラスを再編するというやり方である。
 第一期の卒業生で、現在桐蔭高校の英語教師をしている石井美代志は“落ちこぼれ”だったという。
「中学時代は運動ばかりに熱中して公立高校は失敗しました。そこで、この高校にきたのですが、そのときの私の実力は桜のCHERRYが読めなくて、チャーリーと読むような程度でした。そのため私のあだ名はチャーリーになった。その私が英語のクラスでは上級に選ばれたのですよ」
 その程度の高校であった。
 石井は一年浪人して早稲田に入ったが、公立に合格していれば果たして早稲田に受かっていたが疑問だという。

  

「教育はサービス業である」

 教員になった石井が鵜川から教わったことは、「教育はサービス業である」ということだ。高い金を出して生徒が私立高校に行くのは、能力を伸ばしてもらいたいからである。その要求に応えるのは私学というわけだ。そのために教師は「一時間の授業に二時間の準備をする」(石井)。公立では考えられないことだ。厳しさに絶えかねて桐蔭を去り公立に鞍替えした教師も多いという。
 サービス労働者によって、“落ちこぼれ”が“一流大学”に行けるようになる。こうなれば、学校経営は軌道に乗り、発展していく。“一流大学”に卒業生を合格させることがえきれば、桐蔭学園高校という商品の「使用価値」を認め、生徒がたくさん集まるようになる。学校はその中からよりできる生徒を選択する。 “一流大学”の合格者数はさらに増え、さらに生徒が集まる。こうして、定員百五十人から出発して桐蔭高校は、現在は一学年千五百人にまで膨れあがったのである。鵜川の作戦は見事に的中したといってよいだろう。
 だが、皮肉なことに「ランクの低い子供の能力を伸ばす」という反偏差値の立場から出発した鵜川の教育は、学校経営としては大きな成功を収めたが、その実「ランクの低い子供」を結果として排除することになったのである。それは鵜川が小山台高校で受験教育に出会ったときから予想されたとも言えようが、むしろすべてが偏差値化されてしまう現代社会の大きなうねりの中に巻き込まれたと言った方が正確であろう。
 しかも、偏差値を否定すれば、学校経営の死を意味する。
 第二次ベビーブームが去ることにともなって、大学に限らず私立学校は厳しい「生き残り戦」を強いられている。これに価値の凝る道はただひとつ、学校の偏差値を上げるしかないのである。高校なら“一流大学”に合格させることであり、大学は全国的な知名度、“一流企業”への就職率、立地条件などがからみ、偏差値アップの条件は少し複雑になるが、基本的には卒業後により偏差値の高い地位につけるような大学であるかどうかが決め手になる。したがって、偏差値を否定すれば、教育ではなく学校経営の死につながっていくのである。ちなみに、反偏差値教育の私学が経営を成功させた例はまだない。
 私立高校は今年から本格的な生き残り戦に突入するが、すでに鵜川の桐陰学園高校は前哨線で圧勝した。大学はどうなのか。
 


ノーベル賞授賞者育成のために高校も再編、大学は九年制

 桐蔭学園は田園都市線の市が尾駅から車で十分のところにある。敷地はその後買い増して約十万坪。その一角に真新しい大学の専門棟がたっている。壁面ガラス張りの五階建てだ。中には制御設計、制御要素、電子制御、情報制御、物質構造などの研究室が並んでる。百六十人の学生数を思えば、アンバランスに感じるほど立派な施設である。
 鵜川はこの学生を徹底的に鍛え、時代の先端に立つ工学者を育てるつもりである。百六十人が四年制になるまでには大学院を設置し、そのうち60%を大学院に進ませる計画だ。学部・修士・博士過程の一貫教育である。東大が大学院重点大学で六年制大学なら桐蔭は九年制大学だ。
「別にうちの大学院に進まなくたってよい。東大に行きたいというなら、無理に止めはしないけど、どうせよそに行くのならスタンフォードかMITに行ってもらいたいよ。ガッハッハッ」
 と鵜川は吹きまくるが、すでにスタンフォード大学とは交流を始めており、同時通訳施設付の国際交流室も学内に設置している。ノーベル賞授賞者を育てるために、高校の再編も考えている。桐蔭学園横浜大学コースを設け、受験のためのテクニック教育は止め、大学のための数学、英語、物理を教えようよいうわけだ。
 ところで、気に鳴ったのは大学名である。「ワセダ」「ニチダイ」「トーダイ」などに比べ「トーインガクエンヨコハマダイガク」の響きは決して良くない。次の企みがあるはずだと、鵜川に聞くと、
「桐蔭高校を関西に進出してもらいたいって話もあるのですが、どこかの学校(日大、東海大の付属高校、それに帝京大学)のようにスーパーじゃあるまいし、国内にいくつも出したってね。どうせ進出するなら海外ですよ。そのために、桐蔭横浜大ってつけたのです。カルフォルニアに進出すれば桐蔭学園カルフォルニア大学ですよ。ガッハッハッ。高校部も進出するつもりです。すでに信託銀行がたくさんの物件を持ってきている」
 他の大学も高校部を海外に進出しつつある。
「あんなもの。その海外の高校を卒業して、日本の一流大学に入れますか。自分の大学に入れるしかないですよ。海外の日本の高校を卒業して入れる大学が一つなんて意味があるのですかねぇ。うちが出す高校は日本の桐蔭高校と同じものですよ。海外の桐蔭高校で勉強しても大学に合格できるようなレベルの高いのを考えている」

 
十年後には桐蔭が東大を抜き去る!?

 二年前に栃木高校の教え子が桐蔭学園に集まった。誰もが驚いた。あの文学を熱心に語ったヤセギスの先生が、桐蔭学園の経営者になっていたからだ。佐江が話す。
「鵜川さんは学校の経営者になるようなタイプではなかった。当時から思えば、絶対に考えられないことでした」
 この話を鵜川にすると、あの頃は40キロの痩せっぽちだったと苦笑しながら、
「私だって学校経営者になるなんて思わなかった。だいいち学校の経営者なんて嫌いだった。今でも嫌いですよ。だから、子供が学校に提出する書類の親の職業欄に“学校勤め”と書いた。でも、こういうふうになった」
 文学青年が今や大学の理事長である。が、他の大学の理事長に比べ異色なのは、大胆な経営方針もさることながら、いまだ小中高校の校長を務め教壇に立っていることだ。そして、教え子たちが「文学の広さと深さを教えてもらった」と色紙に書くのである。文学を教え、受験勉強を教え、ノーベル賞を授賞者を輩出を夢見る。そこが鵜川のおもしろさであろう。学園に鵜川の部屋は十数箇所ある。小・中・高・大ごとに理事長室、校長室があるからである。
「校長室はそれぞれ職員室の隣にある。私も同じ教育者ですからね」
 鵜川の教育熱心さは、受験教育だけに限らない。スポーツも徹底してやらせるし、芸術にも力を注ぐ。宇井が見ればまたまた驚くであろうメモリアルホ−ルを、五十億円かけて完成させた。一流の劇場である。そこで、ボリジョイバレエを予備、歌舞伎を生徒に見せた。有名進学校として開成があるが、少し違うのは、開成は受験に役立た無いものはすべて切り捨てていることだ。校舎も恐ろしく汚く、桐蔭と対照的である。掃除と受験教育とは関係無いと考えているからだ。といって、桐蔭の生徒が偏差値至上主義に陥っていないとは言えない。が、開成と違うところは多いのである。
 宇井純は鵜川の大学構想について、こう語った。
「私学は公教育の中であくまで官学の補完でしかない。必要に鳴れば利用するが、要らなくなれば切り捨てられる。私も沖縄大学にきて、切り捨てられてたまるかという思いで、沖縄大学を新大学にしようとしている。その反骨精神は鵜川さんにも共通するものだと思います。高校ではそれが、今の時代の中ではああいう生き方(進学校)になったのでしょう。鵜川さん経営者としての能力は知らないけど、理工系ではこれまでに無い大学をつくることも可能です。新しい大学になっていくのかもしれません」
 東大のレベルは共通一次以後下降し、研究もじっくり腰を据えてやるような体制ではなくなってきているともいう。そのために宇井は東大を去ったのである。高校の部では名門日比谷に圧勝したが、大学の生き残り戦に決着がつく十年後には、桐蔭と東大はどのような位置関係になっているのであろうか。

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