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1997年4月25日 日産生命に業務停止命令 『渋谷系』生保 破たんドミノ 【東京新聞】2006年10月18日 紙面から
若者が集う街、渋谷。超大型の電光掲示板が流し続ける派手な宣伝や車と人波が交互に雑踏を形成する交差点の喧噪(けんそう)。あらゆる欲望をのみ込むような乱雑さが、この街の表情である。
もうひとつ、この活気あふれる街には権威や巨大勢力に挑戦するような、いわば進取の気性に富むとでもいうような“風土”がある。一例を挙げれば、六、七年前からITベンチャー企業が集積、渋谷の名、すなわち「渋い(=英語でビター)谷(=同バレー)」をもじって「ビットバレー」と名乗り、本場米シリコンバレーを追い越そうという動きが生まれた。
それ以前には、都心一等地に本店を構える大手生命保険会社とは一線を画すように中堅の生保が集まり、業界内で「渋谷系」あるいは「(国道)246号族」などと呼ばれた。バブル期に大手が二の足を踏んだハイリスクな商品を売りまくる積極的な営業で業容拡大を狙った。しかし、その“対抗心”とも“焦り”ともいえるビヘイビアが禍根を残した−。
一九九七年四月二十五日、渋谷駅に近い中堅生保・日産生命が破たん。生保破たんは戦後初で、旧大蔵省の「一社たりともつぶさない」という護送船団方式による金融不倒神話が銀行に続き保険業界でも崩れ去った。
「破たんなんて、誰も聞かされていなかった」という日産生命の社員たちは、本社入り口の「おかげさまで創業八十八周年」の横断幕をぼうぜんと見上げ、「もうこの会社に八十九周年も九十周年もない。終わりなんだ…」とつぶやいた。しかし、そんな感傷に浸る間もなく、契約者からの電話が殺到、顔なじみの取引先は「今すぐに現金で代金を払ってくれ」と手のひらを返した。
その後、生命保険協会から派遣された「保険管理人」約三十人が本社に“進駐”。社長の米本宏が愛した八階の役員食堂を「前線基地」に変え、冷徹に破たん処理の作業を進めた。
これが二〇〇一年三月の東京生命まで計七社に上った「生保破たんドミノ」の幕開けの光景である。奇妙なことに日産生命に続いて二年後には、やはり渋谷に本社を構える東邦生命が破たん。東邦生命の目の前の第百生命が続き、戦前には「五大生保」の一つに数えられた千代田生命までも破たんした。
渋谷系生保の連鎖破たんはなぜ起きたのか。かつて渋谷系の一社で働き、現在は外資系生保に籍を置く四十代の男性社員は「渋谷系は大手に追いつけ、追い越せと無理をしたから」と振り返る。
生保は契約者から集めた保険料を株式や債券で運用する。このため保有する株式などの「総資産」や「保有契約高」で業界順位が付けられ、その順位がまた信用度となって契約を左右した。当時、業界トップの日本生命は総資産約四十五兆円。二位の第一生命は約三十兆円。これらに対し、渋谷系は多くても三兆円程度でケタが違った。
そんな劣勢が無理をさせたというのである。日産生命が契約者に約束した予定利率は5・5%という法外なもので、その後の金利低下で「逆ざや」契約は年三百億円に上った。一方、千代田生命は不動産投資で焦げ付き、ともに旧大蔵省から“退場”を命ぜられた。
当時、破たん処理のルールが不完全だったことに加え、生保の経営実態が不透明だったため、契約者が不安から解約の動きを強めた。連鎖破たんはこうして起きた。
数十年先の保険金支払いを約束する生命保険契約は「遠い約束」である。その約束は保険会社の存続が前提となり、右肩上がりの日本経済とともに歩んできた。生保破たんドミノは、銀行の破局以上に挫折した日本経済を象徴している。
生保破たんドミノから何を学んだのだろうか。
慶応大教授の深尾光洋は「情報開示が進み、保有資産の内容が見えやすくなった」と一定の評価を下す。九八年から各生保は、経営の健全性を示すソルベンシー・マージン比率を開示。〇二年には、保有株式への時価会計を全面的に導入、「危ない生保」が表に現れるようになった。
ただ、野放図な不動産投資で破たんした千代田生命では「資産運用の責任者に経験がない者を充てた経営トップの独断を止められなかった」(OB)ことが問題で、このコーポレートガバナンス(企業統治)の課題は依然残ったままといえる。
背景には大手生保の大半が相互会社で、株式会社のように外部の監視が働きにくいことがある。相互会社は契約者を社員とみなす特殊な社団法人で、株式会社の株主総会にあたる総代会があるものの、総代は実質的に経営者が指名する。深尾は「総代が投資先の企業から選ばれるなど経営の透明性が確保されていない生保がある」と強調する。総代会改革や株式会社への組織変更によって不明朗な生保の体質を改善すべきとの意見は少なくない。
日産生命への業務停止命令から九年半。本社ビルは、跡形もなく取り壊された。現在は「あの日」がうそのような静けさに包まれ、三十四階建てマンションの着工を待っている状態だ。
今回、本社ビル用地を売却する決断を下したのは、日産生命の経営を最終的に受け継いだ米プルデンシャル生命だ。その国内本社がある「プルデンシャルタワー」(東京・永田町)は、破たんした千代田生命が融資をし火災で焼失したホテルニュージャパンの跡地に建つ。
バブル期に欧米で不動産を買い占め「ザ・セイホ」と恐れられた日本の生保が米生保の“逆襲”を受けた皮肉な結末となった。(池井戸聡)=文中敬称略
<プレーバック> バブル崩壊後、7社破たん
バブル経済崩壊後の株価や地価下落、金利低下により、中堅生保では逆ざや契約と不良債権の増加が深刻化。1997年から2001年にかけ、7社が経営破たんした。破たんしたのは(1)日産生命(97年4月)(2)東邦生命(99年6月)(3)第百生命(00年5月)(4)大正生命(00年8月)(5)千代田生命(00年10月)(6)協栄生命(同)(7)東京生命(01年3月)−。
大正、協栄、東京を除く4社は東京・渋谷地区に本社があった。
日産生命破たん処理では、貯蓄性の高い一時払い保険で契約者に約束した予定利率を引き下げるなど、契約者も多額の負担を強いられた。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/economics/anohi/CK2007061502124483.html