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2008年1月10日発行 三十六号
9条改憲阻止の会
TEL &FAX:03−3356−9932
E−mail:kyujokaikensoshi@utopia.ocn.ne.jp
終盤を迎えたテロ特新法の動向を見守り11日(金)国会前ヘ
「かすめども春をばよその空に見てとけんともなき雪のした水」(西行)。初夢という言葉ももう時代にそぐわないものになっているような気がする。僕らは心の動きにメリハリを持てなくなっているのではないのか。あっいう間に正月も過ぎ何の変哲のない日を迎えているという実感がするのだが、日本の政治的状況も似たようなものではないのか。政治の現状を変えようとする動きは人々の気持ちをかすめているのであろうが、そんな春めいたものはまだ見えないというべきだろう。
補給支援特措法(テロ特新法)に反対する闘いも終局を迎えている。国会での法案成立で僕らの闘いが終焉するわけではないが、一つの節目を迎えることは確かである。これは「反テロ戦争」というアメリカのブッシュ政権の戦争とそれに同盟して連携する日本の政府の動きに反対するものであるが、同時に憲法9条の実質化に反対することでもあった。安倍前首相が憲法の改定を具体化する動きを見せたことに反対するところで僕らは結集をはじめたのだが、それはそこまで追い詰められてきていた状況を意味した。そこから出発しながら、議会での改正発議を阻止するということだけでなく、解釈改憲による実質的な改憲を阻止する道に歩を進めようとしてきた。これは憲法の精神を現実化するという動きであり、そのことで実質改憲の動きに歯止めをかけようとすることだった。憲法問題でも、政治状況でも僕らが政府の所業に即時的に対抗するだけではなく、もう少しの展望を持った反転に向かう動きでもある。
政府の繰り出してくる政策や政治的動向に即時的に対抗するだけでなく、もう少し長くて深い射程を持った政治的反転の兆候がいろいろ感じられるようになってきている。イラクやアフガンへの特措法による自衛隊派遣を憲法違反であると民主党の党首が言うような事態は以前には想像できなかった。薬害問題での政府の対応でもそれはいえる。背景には国民の政治的な動きがある。僕らはこれを大きな政治的反転に高めていく道が要求されている。憲法9条の改定を中心とする改憲の動きは国民投票法案で設置が決定された「憲法審査会」がたなざらし状況にあるように停滞している。だからといつて僕らはその動きに対応していればいいというのではない。憲法9条改定の実質化(解釈改憲の動き)に反対し、阻止していくのが一つの道だ。今回の僕らの補給支援特措法反対はその一つであった。自衛隊の海外派兵の恒久法が次の段階では現れるだろうが、僕らはそれへの対応を含めこうした闘いを組む必要がある。もう一つは憲法9条の精神を世界史の真只中で深め、同時に現実化する政治的構想を創出していく闘いがある。
自衛隊の縮小や安全保障政策の転換、警察や裁判所など権力機関の民主化や透明化、高級官僚の特権廃止を中心にする官僚機構の改革など大きな柱としてしかこの政治的構想を描けない現段階であるが、政治的構想の創出によって憲法9条の精神は現実化する基盤を得る。この政治的構想はすぐれて憲法9条を生かし、そのことで結果において条文を遵守することにもなる。僕らは憲法改定問題を憲法9条問題に特化した段階から、それを現実的に生かす段階に歩を進める時期に来ている。 (文責 三上治)
2008年1月11日発行 三十七号
9条改憲阻止の会
TEL &FAX:03−3356−9932
E−mail:kyujokaikensoshi@utopia.ocn.ne.jp
日本の政治状況を変える道はいつも小さな行動から始まる
友達から送られてきた雑誌を見ていたら「憲法21条が危ない」という記事があった。この記事は憲法21条(集会・結社・表現の自由などを保障する条項)が危ないというよりはすでに形骸化しているという内容だ。一般には日本社会は「自由と民主主義」が成熟し浸透しているとイメージされているが実態は警察国家である。公権力として肥大化した警察の権力行使の前に集会や表現の自由は名目化しつつある。今回の「座り込み徘徊行動」でのタスキがけの散歩すら取り締まろうとする状況を伝えたが、これは氷山の一角である。この記事で筆者が伝えるように共謀罪が成立すればそれは一層進行することになる。司法(裁判所)などの在り方もひどい状態であることはいうまでもない。憲法9条は解釈改憲の下で実態は形骸化しているといわれるが、これはまた憲法21条についてもいえるのだ。
僕らは憲法9条を改憲に反対することを中心に闘いを組んできたが、それは憲法21条や25条などの他の条文のことを無視してきたわけではない。憲法9条を生かそうとすることは憲法総体を生かそうということだからである。「自由と民主主義」が浸透するといわれながら、憲法総体が形骸化していく状況に対抗し、それを反転せしめることが僕らの志向していることだからだ。権力を縛るはずの憲法が後退(形骸化)し、警察などの公権力が肥大化し、自由や人権や民主主義が実質的に失われていくのはなぜか。
日本では憲法はその<精神>よりも<憲法法律=条文>の方が重要視される。これは憲法の精神が軽ろんじられ、その運用者である公権力の解釈や意志が優先してしまうことでもある。解釈改憲という現象はこれを指す言葉である。憲法の精神は国民の意志であり、そのことによって法律やその運用者を縛るものだ。それが法によって政治があるということの根本的趣旨である。歴史的に日本では憲法は国民の意志で創出されたわけではないから、国民の意志を代表する精神(精神の拘束力)は弱い。近代官僚=階級によって創られたから、その支配力は強い。僕らが目の前で見ている国会(立法府)の事態も同じことだ。それでも政治家たちは選挙という国民の審判(意志の選択)を受ける。これに対して公権力の実態をなす官僚にはそのようなチェックする装置はない。建前から言えば、国民の代表である議会がこうした公権力(行政権力)を制限し、チェックするはずだが、議会を構成する政党や政治家が官僚と癒着しているのだから話にならない。防衛省の利権構造を見れば明瞭である。
政権交代による政治と官僚の癒着構造を変えていくのも一つの道である。もう一つ公権力を開き、その機能をチェックするシステムを創りだす道もある。高級官僚のリコールなど国民の意志が反映する制度を構想し機能させることだ。これは憲法の精神を現実化することでもある。憲法の精神が登場することは古くて新しいことである。日本では憲法はあるが、憲法の精神は存在しないという状況は続いているのだからだ。憲法9条だけでなく21条や25条、いや憲法の総体が生きることは憲法の精神が機能することだ。それは憲法の形骸化に抗する道であるが、直接民主主義の登場とイコールである。(文責 三上治)
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