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(回答先: 瀬島龍三氏が死去 元大本営参謀、老衰で(共同通信) 投稿者 gataro 日時 2007 年 9 月 04 日 10:49:35)
http://touarenmeilv.ld.infoseek.co.jp/siveria.htm から転載。
【シベリア抑留問題】から「瀬島龍三よ真実を語れ」
1945年8月20日、ワシレフスキーは、モスクワに、
「関東軍参謀長秦中将は私ワシレフスキー元帥に対して、満州にいる日本軍と日本人ができるだけ早くソ連軍の保護下に置かれるよう、ソ連軍の満州全域の占領を急ぐよう要請し、同時に、現地の秩序を保ち企業や財産を守るため、ソ連到着まで武装解除を延期されたいと陳情した。」
と打電した。また自身の著書「全生涯の出来事」の中で、
「われわれは降伏の順序について要求を示し、捕虜受けいれの地点を示した。ヒポサブロー中将はすべての条件を受けいれた。」
と回想し、秦とその随員は精神的にまいっていて卑屈でさえあった、と書き残している…。
8月21日、関東軍参謀部は、
「居留民及疎開民の処理全般の趣旨は成るべく大陸における民族再興の素地を残す他は内地に送還す。武装解除後の軍人の処理全般の趣旨は希望者はなるべく大陸に其の他は内地に帰還せしむ。兵は現地に於いて召集解除若しくは除隊せしめ在満の在郷軍人及び在満徴集現役兵は努めて満州の現職場に復帰せしむ。開拓団は全員努めて原開拓団に帰還開拓に従事せしむ。」
と決定し、ソ連軍に支配される満州にできるだけ多くの軍人居留民を残留させようと企図したのである。結果、満州における大惨劇が引き起こされたのである…。
所長が推測するに、秦彦三郎中将と瀬島龍三中佐は、参謀次長時代の秦の直属の部下であった種村佐孝大佐ら参謀本部第20班(戦争指導班、参謀次長直轄)と陸軍省軍務課の主務者が作成した「昭和十九年八月八日今後採るべき戦争指導の大綱に基く対外政略指導要領(案)三2(イ)A」に基づき、種村大佐の「昭和二十年四月二十九日今後の対ソ施策に対する意見」の如く、ソ連側の言いなり放題となり、両人は進んで関東軍将兵や邦人居留民を労働者としてソ連に提供したのではないか。だから戦史叢書大本営陸軍部9、10は両資料を隠蔽しているのではないか。
シベリア捕虜収容所において、瀬島龍三は、天皇制批判を行い、将校団の民主化運動(共産主義洗脳)を推進し、将校達に「赤いナポレオン」とささやかれていた…。
全抑協は、瀬島に、
「あなたは、種村佐孝大佐が作成した今後採るべき戦争指導の大綱に基く対外政略指導要領(案)と今後の対ソ施策に対する意見を知っているか。あなたと秦彦三郎は、ソ連を全面的に利導し、ソ連側の言いなり放題になって目をつぶったのではないか」
と尋ねるべきである。
もし瀬島龍三が、動揺あるいは沈黙したならば、所長の推測は正しく、瀬島は、敗戦革命を目論んだ近衛上奏文中の「軍部の共産分子」であり、ラストボロフ証言通り、モスクワの第7006収容所で種村と共にソ連からスパイ訓練を受けた共産主義の軍人であろう…。
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