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(回答先: 海を越える新任務 <4>P3C (東京新聞) 投稿者 天木ファン 日時 2007 年 8 月 24 日 21:00:54)
http://www.tokyo-np.co.jp/feature/sakimori/news/070602.html
物心両面で違い露呈
「おれたちはバイ菌か」
陸上幕僚監部の佐官が大声を出した。海上幕僚監部から「艦に戻ってくるまでに隊員は消毒を済ませてもらいたい」との要望が出たことへの反発だった。陸海の両幕僚監部による調整作業は、波乱含みで幕を開けた。
二〇〇四年十二月二十六日、インドネシアのスマトラ島沖で死者・行方不明者二十二万人以上を出す大地震が発生した。政府は自衛隊を「国際緊急援助隊」として活用することを決め、陸海空自衛隊で初の統合運用が計画された。
スマトラ島は壊滅的打撃を受けていた。医療や防疫を行う陸上自衛隊の二百人は沖合の輸送艦「くにさき」で宿泊し、ヘリコプターで島を往復することになった。
「シー・ベース(海の基地)」や「ホテル・シップ(宿泊船)」と呼ばれる艦艇の活用法で自衛隊で初の試み。冒頭のやり取りは、日本が戦場になれば泥まみれで戦う“野戦軍”の陸自と、感染症を警戒して艦内を清潔に保つ海自との「文化の違い」が現れたものだ。
陸自の主要装備は、CH47輸送ヘリ三機とUH60汎用ヘリ二機。ともに海上輸送を想定しておらず、陸自木更津駐屯地では地面に実物大に描いた輸送艦にヘリを固定する手順を確認した。
ローターを外し、白い防水布で包まれて巨大なマユのようになったCH47を甲板に載せた「くにさき」は翌年一月十二日、出航した。第一輸送隊司令だった石角義成一佐(56)=退官=は「ヘリは足元をチェーンで結んだだけ。揺れで海に落ちてしまう危険があった」。
シンガポールでの光景だ。陸自隊員は乗艦前、全員整列して点呼した。「いちいち人数を確認するから行動が遅れる」と海自幹部。一方、陸自幹部は毎朝、「総員起こし五分前」「総員起こし」と起床を二回告げる艦内放送に「安眠妨害だ」。
救援作業が開始されると、ヘリコプターの飛び方の違いが判明した。陸自のUH60と海自のSH60は三菱重工業でライセンス生産している同型機。しかし、UH60には水上レーダーがなく、姿が見えない艦艇を探して洋上を飛ぶことはできなかった。
一方、ふだん海の上を飛んでいる海自の操縦士は山間部の飛行を苦手とし、スマトラ島では天候が崩れると山のある横断ルートを避け、海岸線を迂回(うかい)した。燃料まで陸自と海自でタイプが異なり、日本有事の際、連携して戦うことを想定していないと考えるしかなかった。
陸自隊員は夕方、ぐったりして「くにさき」に戻った。だが、海自の乗員室にある風呂はなく、シャワーのみ。ベッドは乗員の二段ベッドより狭い三段ベッド。
派遣部隊指揮官の佐々木孝宣海将補(54)は「輸送艦は日本有事に陸自の戦闘要員を運ぶが、長くて二泊三日。長期滞在は想定外だった」と説明する。
途中から風呂は陸海共用となり、別々だった食堂でも交流が始まった。陸自の後方支援に徹していた海自にも救援任務が与えられ、建設用重機をエアクッション型揚陸艇で輸送した。
初の共同作戦は「成功」と総括されている。だが、「陸自の裏方になることには今でも不満の声がある」と海自幹部。インド洋での洋上補給のように主役であり続けたいと願うのが、組織の本流というのだ。
=おわり(この連載は社会部・半田滋が担当しました)
2007年6月2日
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