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(回答先: 宮本氏死去、「赤旗」は1面2番手の扱い(朝日新聞) 投稿者 熊野孤道 日時 2007 年 7 月 20 日 18:31:09)
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/politicsit/67597/
【評伝】マニュアル革命家の偽善 宮本顕治元共産党議長、死去
07/19 09:19
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■結果としての「自主独立路線」
現代史、思想史で宮本顕治氏をどう位置付けるか。「獄中12年=非転向」「所感(主流)派に対抗した国際派」「中ソからの自主独立路線」といった言葉が浮かぶ。弾圧や孤立を恐れぬ不退転の決意を秘めた鉄の意志の持ち主というイメージが先行する。
確かに記者会見などで対面しても、東京帝大在学中に文芸評論でデビューし、女流作家・中条百合子を最初の妻とした白面のインテリの残影はどこにもなかった。むしろ、その右まゆにある尋常でない深手(昭和8年のスパイリンチ事件=共産党はスパイ査問事件と呼称=で、刑事に追われて逃走する際にガラス窓にぶつかって切ったといわれている)が印象的で、風雪に鍛え抜かれた闘士型の風貌(ふうぼう)に何か抗し難い思いを抱いた人が多かったろう。
党内ではその不撓(ふとう)不屈神話を利用し、また、対立分子を容赦なく除名していく粛清手法によって年々カリスマ性を増し、一枚岩の「宮本共産党」を構築していった。宮本氏が名誉議長を退いたあと党指導の全権を掌握した不破哲三氏(現・党社会科学研究所所長)や志位和夫委員長も、こうした宮本氏の独善的党指導の下で育成されたリーダーにすぎない。
歴史は、思いやりに満ちた人物よりも、酷薄と評判だった人々のほうが、どれだけ民衆を団結させ、彼らの信頼を獲得し、秩序を確立したかを示してくれている(塩野七生著「マキアヴェッリ語録」−君主論−新潮社)からであろう。
だが、宮本氏はイメージ通りの人物だったのだろうか。否、むしろ逆に小心ともいえる人格の持ち主という仮説を立ててみた方がいい。氏が幼少時から「天下の」という形容詞をつけてもいいような秀才であったことは徳山中学、松山高校、東京帝大を通じてよく知られている。それは20歳の時に書いた「『敗北』の文学」が小林秀雄氏の「様々なる意匠」を抑えて総合雑誌「改造」の懸賞論文の1等に当選したことでも証明されよう。
繊細で用心深い人間が逆に独裁者と称せられた例は歴史上少なくない。権力者の地位に就いたものの、オープンな手法が不得手で、密室から独りで独善的な指令を出すタイプは往々にして力のある独裁者と勘違いされる。
宮本氏はしばしば官僚的な人物と評された。マニュアルがないと機能しないのが官僚である。官僚的な氏が旧ソ連共産党、中国共産党の指導を拒否した「自主独立路線」の旗手のようにいわれるに至ったのは歴史のいたずらである。
国際共産主義運動の指導機関だったコミンテルンから発せられたテーゼという名前の指令をマニュアルとした。入党翌年の1932年5月に出された天皇制打倒を戦略目標の第一に据えよ、とする「32年テーゼ」は氏にとって大きな意味を持ったようだ。このテーゼに衝撃を受けて獄中の党幹部らは続々と転向したが、非転向を貫いた。
戦後、宮本氏は「32年テーゼにも歴史上の限界があった」と述べたが、同時に「絶対主義的天皇制にたいして挑戦したこと」を自賛し、その後も「政治制度としての天皇制は、それがなんであろうとも、社会主義政党の立場に立てば許すことはできない」と述べている(昭和47年「宮本顕治対談集」新日本出版社)。
その意味では32年テーゼというマニュアルの終生忠実なる僕(しもべ)であった。それは欧州各国共産党の情報連絡機関だったコミンフォルムが1950年に行った野坂参三氏批判の際にとった態度とも通底する。
宮本氏の名前が戦後社会に華々しく登場したのは、このコミンフォルム批判に対し、「国際派」の理論家として当時の徳田球一書記長ら主流派(所感派)と対峙(たいじ)したことによるが、これとてもコミンフォルム側に立って「国際連帯の必要」を説いたのであり、「自主独立路線」という呼称は、むしろ所感派側にこそ冠されるべきものだった。この時点でも宮本氏はコミンフォルムのマニュアルに従ったにすぎない。
中ソ共産党と断絶せざるを得なくなったのは「自主独立路線」の看板を掲げることができたという側面からみてけがの功名であった。旧ソ連とは、昭和39(1964)年に核兵器全面禁止を打ち出した宮本氏に対抗して、部分的核実験停止条約支持のソ連に同調した志賀義雄氏を除名したことから関係が悪化した。また、中国とは、41(1966)年3月に劉少奇やトウ小平、周恩来らと、ベトナム戦争への統一戦線にソ連を入れるかどうかで理論闘争を展開し、あくまで「反米反ソ統一戦線」の字句盛り込みに固執した毛沢東と対立したことから断絶した。
こうした事実からみても、宮本路線は結果としての「自主独立路線」であり、主体的に選択したものでないことは明白だ。
宮本氏は中ソとの対立を通じ、親ソ派、親中派を次々に除名し、スパイリンチ事件仲間の袴田里見氏や、元議長の野坂氏を惻隠(そくいん)の情なく切り捨てた。その手法はまさに酷薄だが、それは官僚的な小心さと保身のために築かれた身勝手な非情さによるものだった。共産主義権力者の性向はどこでも大同小異だが、「民主連合政府構想」を掲げて共産主義社会の建設を目指した宮本氏に国家権力を触らせなかったことは、戦後日本が示した数少ない賢明さの事例といえよう。そのことを真の意味で知っているのは、無数の日本共産党除名者群かもしれない。(関田伸雄・前政治部長)
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