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(回答先: 大規模林道はどこにいくのか 緑資源幹線林道が開通に向けて工事が全国(7圏域17道県)で進んでいる 【林道評論センター】 投稿者 愚民党 日時 2007 年 5 月 30 日 01:15:24)
●山林と海辺における【大規模工事】による大利権の誕生は1990年。
●大規模林道はどこにいくのか 緑資源幹線林道が開通に向けて工事が全国(7圏域17道県)で進んでいる
●1990年代の600兆円の大規模工事、そこにおける林野庁と農水省の利権。
この情報が在日米軍スパイ機関によって握られ、
アメリカ下請け機関である検察庁が「緑資源機構」への談合摘発で、
2007年に動き出した。
●国際金融動物の長期戦略は
1990年のブッシュ(父)政権による内需拡大要求による
「海辺を破壊し」「山林を破壊する」600兆円大規模公共事業によって
「林野庁」機構と「農水省」機構に利権を発生させ、組織を金で腐らせる戦略。
●21世紀戦略として
組織が腐朽した「林野庁」機構と「農水省」機構を壊滅する。
●そして現在、2015年体制の起動として、国際金融動物による
「日本列島収奪作戦」の最終過程に突入している。
縄文以来の豊穣な山林と海は国際金融動物によって収奪される。
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一九九〇年、
ブッシュ政権から突きつけられた日本の貿易黒字を解消するための構造障壁交渉、そこで
国内需要として六〇〇兆円の公共事業のUSAへの約束。九十年代はまさに海・なぎさを
破壊し、山林道路建設という、全国いたるところで大規模工事が勃発した。
しかし、九十年代の官僚はそれが実は商品創造であることを忘れていた。世界市場から
切り離され国内で自己完結できる商品などもはや存在しない。われわれ市民とはすでに世
界市場によって規定されている。国内旅行より近くの海外旅行の方が安ければ、海外を選
択するだろう。これが世界市場である。ゆえに九十年代の大規模公共事業は廃墟となるの
である。砂漠に残ったのは天文学的な赤字国債借金地獄である。
バブルの戦犯である宮沢大蔵卿が九十年代にやったことは印刷機経済である。九十年代
とは、まさに借金による国家バブル商品だったのである。あれほど公共事業をてがけたゼ
ネコン(大手建設会社)が大量の不良債権をかかえ、倒産寸前にあるのは不思議である。
実はかれらは本業ではなくマネーゲームで失敗したのだ。かれらがもうけた富はすべてU
SAのプレイヤーに収奪されてしまったのである。六〇〇兆円の公共事業をUSAが日本
に約束させた九〇年とは、すでにUSAのプレイヤーたちは日本公共事業システム、暗闇
市場といわれていたゼネコン、暗闇システムといわれていた建設省など、データー化され
全面的に分析されていたのである。なぜか?。それらは世界金融市場にとって商品だった
からである。商品とは裸体にされ明るい間昼間のテーブルにあげられる。秘密は女性性器
たる「おまんこ」をペンライトで、真剣に擬視するストリップのすけべな観客のごとく、
商品とはさらされる運命にある。
商品とはまさにストリップ劇場におけるセックス交換である。その交換もまた商品とし
て観客を楽しませ興奮させる。ストリップ嬢が「つぎはだれ?」とひさし指でウエルカム
をするとき、プレイヤーはまっさきに手をあげるのだ。九十年代の日本とは世界金融市場
USAのプレイヤーにとってストリップ嬢の、おまんこであった。
指名されたあなたは競争に打ち勝った幸福にあり、服をぬぐ。やがて裸体のあなたはス
トリップ嬢の指示により、男根を天に向けて寝る。やがてストリップ嬢はおしりをそこに
移動させ、みごとあなたの「きんたま」をおのれのぬれた入り口にさそう。ぐっと、あな
たのきんたまは吸引されていくのだ。ストリップ嬢のしろいおしりの上下運動がはじまる。
観客は「きんたま」と「おまんこ」の結合に集中する。「おまんこ」の肉ヒダが「きんた
ま」吸い付いている、はなさないと。「おまんこ」は「きんたま」の根元まで降下すると、
またうえにあがる、でも「きんたま」ははずれることはない。この商品としてのセックス
上下運動こそ株式市場である。何億人もの視線がそのプレイヤーたちセックスに集中して
いるのだ。商品とは交換という上下運動の熱のまさつでありヒダラである。銀行で為替相
場を仕事でやっている女性から、ある飲み屋で聞いた話だが瞬時の判断が左右する仕事に
没入しているとき、あすこが濡れてしまうそうである。あれは、どんなセックスよりも興
奮するの、と。そして幻滅がやってくるの、と。
マルクス以後の資本論とは商品分析の基礎となり、実証主義の基礎となった。マルクス
はギリシア哲学を再発見したルネサンス以降の近代哲学を総括し、その内部とは神学と市
民社会の私的所有としてのアトミズムによる世界の解釈にすぎないことを発見した。精神
の運動・闘争としてある私的所有としての内部をもつ閉じられた円環の哲学を、実践の空
間としての存在へ、人間関係が裸体としてむきだす表層へと転倒したのである。
近代的工場制度でのシステム化された戦略的部品としての労働。機械を操作格闘し、お
のれ自身の肉体的知覚を機械と同期させる武装せる労働。これら内部をもたぬ労働者の工
場制度は軍隊と同様だ。その労働は常に危険であり、かれの肉体的知覚と筋肉は緊張して
いる。その反復作業は軍隊の基礎である行進に相当する。また機械の操作と格闘は軍人に
とっての武器使用である。野外で仕事をする土木・建築でも近代的工場制度は貫徹されて
いる。
第二次世界大戦においてアングロサクソンの軍隊が、ヨーロッパ戦線と太平洋戦線にお
いて、ファシストの軍隊をひとつひとつ徹底的に撃滅し、勝利していったのは、イギリス
産業革命以来の近代的工場制度における労働者の組織された工場訓練であった。USAに
おけるフォード型大量生産の巨大化した工場制度こそが、USA労働者を日常として訓練
しガムをかみながらであっても、日本帝国の海軍・陸軍を徹底的に殲滅した。重要なのは
人の要素なのである。
これに対し日本とドイツの軍隊は、「土と血」といった精神の国家神学によって形成さ
れていた。日本であれば神としての天皇であり、ドイツであればヒットラ−「わが闘争」
におけるローマ帝国を北方ゲルマン民族が再興するという第三帝国民族神学だった。内部
と深層によって骨格付けられた軍隊は、最初、世界をだまくらかす電撃作戦として、勢い
はあるが、元来その思想と価値が強力な内部である超越的神学による閉じられた円環であ
るため、実践的な戦場である戦線の現場分析を誤り、戦略的敗北をまぬがれない。神学の
主体は外部としての、むきだしの表層を排除してしまう。神学は永遠の自己解釈であるか
らおのれの都合が悪い論理は排除するのである。神がかり的超越的な力が存在すると思い
こむ担い手は、世界市場のまえに敗退する。
ドイツも日本も近代的工場制度は形成されていた。そしてドイツの産業革命における発
明と合理的な金属機械類の体系は強力。またドイツ医学と化学は世界の先頭を走っていた。
しかしながらドイツ・日本の資本主義はアングロサクソン型の自由発生型資本主義という
市場の見えざる神の手にまかす自由性はなく、国家計画デザインの下に成長した資本主義
だったのである。
http://plaza.rakuten.co.jp/masiroku/diary/?PageId=2&ctgy=11
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