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ある国際人権派の雑食系ブログ。(仮)
2007年04月15日
【東京都知事選】三浦小太郎氏の評論『マジョリティの意識に届く言葉を』〜「フツーの都民」のハートに火を付けられなかった浅野史郎・吉田万三の両氏
先日、文筆活動の傍ら「脱北者」支援運動などを展開されている評論家の三浦小太郎さんから、先の東京都知事選に関するコラムがメールで送られてきました。三浦さんの東京都民の捉え方には私も共感する面を感じましたので、三浦さんご本人の許諾を得た上で、当該メール文を全文転載させていただきます。
下記コラムをお読み頂ければお分かりのように、三浦小太郎さんは「諸君!」等の右派系の雑誌に寄稿されている保守系の論客であり、私とは政治的見解を異にする面は少なからずあります。しかしながら、石原慎太郎氏の方が少なくとも浅野史郎・吉田万三の両氏よりも都民の「マジョリティの意識」を捉えている等の指摘は、この私も認めざるを得ない「現実」だと考えています。
「差別発言」をも含め、石原慎太郎氏が発する言説は、決してごく少数の人士だけが支持しているような類のものでは無く、多くの「大衆」が大なり小なり「石原慎太郎的なるもの」を持ち合わせているのだという「現実」を私たちは深く認識した上で(*あるいは私自身もかような「大衆」の一人なのかもしれませんが)、「マジョリティの意識」に届く「声」を編み出さなければならない、と私も改めて感じます。
<関連リンク>三浦小太郎寄稿集1・三浦小太郎寄稿集2(「拉致の背景」)・北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会
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●三浦小太郎 『マジョリテイの意識に届く言葉を』
今回の選挙ほど、マジョリテイに対して届く言葉を見つけることの必要性を感じさせるものは少なかったと思う。浅野氏、吉田氏の敗北は統一候補を作れなかったことではなく、東京都民のマジョリテイを捕まえ損ねた点だ。そこを再認識しない限り、日本では自民党的なもの、東京では石原氏的な存在が勝ち続けるのではないか。
東京には確かにネットカフェ難民も、ワーキングプアも、そのほか様々な追い詰められている人々が存在する。浅野氏に彼らの「悲鳴」が聞こえた、というのは、それはそれで間違いではないだろう。しかし、それはあくまでマイノリテイの声であって、東京マジョリテイは「追い詰められ」ているという意識は、少なくとも主観的には無かったと思う。その結果が今回の選挙結果だ。
東京は、まず日本全国から見れば「勝ち組都市」である。東京に住むということ、少なくとも東京近辺に住むということが全国から見てどれだけ有利な恵まれた立場にいることか、これは地方に住んだことの無い都民には中々実感できないだろうと思う。
単に経済的有利さや就職のチャンスを言っているのではない。反体制運動や市民運動ですらそうなのだ。ネット社会になったからと言って、例えば仮に左派系、右派系のマイナーな文献などを探したい時、また、市民運動などに参加したいとき、東京に住んでいるか地方都市に住んでいるかの差は限りなく広い。「東京一極集中」は、市民運動の面ですら広がっているのだ(これは地方の地道な運動を軽視しているのではないことを誤解しないで欲しい)。
この「勝ち組都民」で、いま働き盛りの、かつノンポリのサラリーマン(好むと好まざるに関わらずこれは確かに東京のマジョリテイである)にとって、確かに生活は苦しい。しかし、彼らは何政治に期待するよりも、まず今日の仕事をこなさなければ誰も自分を守ってくれる人はいないと感じている。彼らは福祉制度が自分の現在の生活水準を支えてくれるとは到底考えられないし、高度福祉社会が、逆に自分達のチャンスを減らし社会の停滞を招くのではないかと言う、論理的ではなくても漠然とした印象を抱いている(そうではない、という議論はもちろんあるが、それは彼らに充分届いてはいない)。かつ、多少なりとも自分の関心のあるテーマに関係のある仕事を得た場合、労働は以下に厳しくともそれはある程度の充実感をもたらし、労働基準法を無視するような苛酷な状況にも、本人は黙々と耐えているケースは決して少なくない。都民のかなりの部分は、「福祉」よりも「チャンス」をこそ欲している傾向があるのではないだろうか。そして、これは決して資本主義への全面降伏ではない。自分達の生活は国家に頼ることなく自らの力で勝ち取るのだという市民意識として肯定的に評価することも可能なのだ。
この意味で、浅野・吉田両氏の「福祉」「保護」をかなり強く打ち出した政策は、勿論それを歓迎した人もいたろうが、充分な東京マジョリテイに届かなかったのではないかと思う。「強者に政治はいらない、弱者の為にこそ政治が必要」という浅野氏の言葉は間違ってはいないが、今の東京都に訴える時、「現実の強者」「強者を目指している人間」をも味方につけられるような言葉がもっと必要だったのではないだろうか。
浅野氏は情報公開を大きなテーマとしてあげ、共産党は石原氏の過剰と思われる経費の無駄遣いを批判した。しかし、この2点は彼らが思うほどの効果を都民には与えていない。情報公開はそれ自体が目的なのではない。ノンポリの都民にとって、情報が公開されたからと言って大した興味を抱くわけではない。彼らは情報が公開されなくても政治が効果をあげてくれればよいのだ。この意識が正しいかどうかではなく、現実に彼らを味方に付けるためには、情報公開がいかに有効か、都民の生活にとって長い目で有利に運ぶかを説明しなければいけなかった。
又、共産党の石原氏の経費や贅沢な出張などへの批判だが、マジョリテイは金持ちや強者に対し、彼等が贅沢であるほどに、反感と同時にある種の共感を抱く、という一面は無視できないと思う。これは貧しいアメリカ庶民が、ハリウッド映画やスターに憧れるのと同様で、成功者や強者に対する羨望はむしろ自然な感情であり、マジョリテイが成功者や裕福層に、単にルサンチマンを抱くのではなく、その子供っぽい浪費を多少は羨望しながらも笑い飛ばしたり、又一定限度彼らの才能、努力、又幸運に敬意を払ったとしても、それは決して悪いことではないはずだ。そのような庶民感覚に対し、やや、左派系は捕まえ損ねている面があると思う。
フェミニズム系(この言葉は本当は大雑把過ぎるが、あえて単純化する)の上野千鶴子氏らの浅野支持は、マイノリテイの立場である女性や同性愛者らの味方としての浅野氏を印象付けた。しかし同時に、フェミニズムはマジョリテイの女性から必ずしも支持を受けているわけではない。現在女性は決して社会進出に消極的ではなく、むしろ経済的必要を含めて積極的なのだが、そのような女性たちが、必ずしも理念としてのフェミニズム、さらにジェンダーフリー思想に共感しているわけでは無い。石原支持が女性層でむしろ多かったことを、単なる意識の低さや、石原氏のマチズモへの共感などのレベルではなく、フェミニズム思想そのものの根本的弱点にさかのぼって考える必要があると思われる。ここではただ一点、フェミニズムのある部分には、ごく自然に家庭生活を送り、又職場でも自己主張しない女性を「敵」に追いやってしまう危険性があったことを指摘しておきたい。
さらに、石原氏の差別発言とされる様々な問題発言についても考えてみよう。私はかって、石原氏陣営が衆議院時代、同選挙区の故新井将敬氏(彼は私の最も尊敬できる政治家の一人だった。戦後でも屈指の政治思想家になりうるはずだったと確信している)に対して行った侮辱と陰湿な差別に対しては怒りを覚えることをはっきり明言しておく。しかし、その上であえて言うが、マジョリテイの中の、一般マスコミなどでは出しにくい「悪しき本音」とでも言うべきものを、石原氏は無意識のうちに代弁している面は否定できないのではないか。
石原氏の作家としての最良の作品は、「完全な遊戯」だと思う。この作品では、ブルジョア青年が精神に障害のある女性をレイプした挙句殺害するという、全く救いの無い世界が描かれている。しかし、残酷なテーマを扱っていながら、小説全体に漂うのは余りにも乾いたニヒリズムである。従来、このような悪漢小説においては(19世紀にも、特に小ロマン派の残酷小説にこういうテーマは幾つかあった。渋澤龍彦「悪魔のいる文学史」など参照、あるいは現代ならば、柳美里「ゴールドラッシュ」等)、犯人の残酷な内面性、又被害者の無垢な精神が汚されていく過程などが描かれ、逆説的な形ながら、社会に対する激しい怒りや、人間性の途方もない残酷な闇などが強調される。しかし、この小説では、加害者も被害者も、全く内面そのものが欠落し、悪も善も存在せず、ただ、この様な行為が「遊戯」として行われたという空虚な印象しか残らない。
このような小説を読むと、石原氏も左派・進歩派とはまったく別の意味で、「戦後文学者」だったのだなと思う。しかし、石原氏は戦後を民主主義の到来としてではなく、むしろあらゆる伝統、道徳、社会規範が崩壊した、「空虚な自由」の社会と認識した。これは文学者として決して間違ったものではない。むしろ、戦後をアメリカ民主主義礼賛やスターリン幻想に囚われた左右の文化人よりも、石原氏の方が、「民主主義がファシズムに勝利した」という美名の元で行われた、原子爆弾と大量殺戮の第2次世界大戦が生み出した戦後精神の闇を深くとらえていたともいえるのだ。そして、この様なニヒリズムは、家族制度や地域共同体の崩壊を向かえた現代社会を預言していたとも言える作品である。
石原氏自身は、おそらく公的、意識的には、「完全な遊戯」の非道徳的社会を否定しているはずだ。だが、無意識の部分で、石原氏は全く国家であれ、伝統であれ、又人間であれ、基本的には信じていないのではないかと思う。現代社会では、人間はほうっておけば非道徳的なエゴイスト以外のものにはならない、という石原氏なりの確信が、現実のマジョリテイの一面の真理を捉えていることは否定できないのではないかと思う。国旗、国歌への忠誠を求める姿勢は、石原氏の「右翼的側面」ではない。
むしろ、人間は「国民国家の一員」であることを強制的に教育しなければ決して国民意識など持たないのだという、実は逆「左翼」的思想なのだ。日本国民は伝統的に祖国を愛し、皇室を敬愛する、日本文化は自然に受け継がれていくという「性善説的保守」と石原氏では、たとえ結論は同じでも全く意識的には逆なのである。ある討論会で、石原氏が国旗、国歌を「メタファー」と呼んだ時、私は全く無意識のうちに石原氏の本音を見た思いがした。
このような石原氏が時として発する問題発言は、実はマジョリテイに内在する差別意識、もっと言えば、「平等」「弱者保護」といった建前の背後にある偽善性への強い反感を結果的に代弁している事がある。問題発言の指摘が必ずしも石原氏支持の低下にはつながらないことはここに根本的問題があるのだ。差別意識は、単にそれを「悪だ、無くすべきだ」と指弾するだけで解決することはできない。現代社会の先に述べたニヒリズムとエゴイズムの中では、「差別反対」という言葉や運動に対し、むしろその中の偽善的(と、マジョリテイに写る印象)側面が、差別発言そのものよりも反感を引き起こすこともあるという現実が在るのではないか。誤解を恐れず具体的に提起すれば、この傾向は特に北朝鮮問題と在日コリアン問題、及び同和問題を巡る現象に象徴的に現れている。
私は現在の東京マジョリテイのあり方を全面肯定しているのではない。このような現実のどこを評価し、又問題と思われる点をどう改革すべきかという問を、政治的な運動や思想に携わる人間は今真摯に考えなければならないことを訴えたいのだ。ここで最低限認識しなければならないのは、自らの考える理想像をマジョリテイの現実の生活感覚から遊離した形で投げかけた言葉は、決して彼らに届くことはないという冷厳な事実である。「福祉」「弱者救済」「差別反対」であれ、又「愛国」「民族の誇りと伝統」「自由と民主主義の東アジアでの拡大」であれ、おそらく東京マジョリテイはいずれの言葉もその心に響いてはいない。これらの主義主張が間違っているというのではない。このような主張が政治運動、又現実の行政の中で語られるとき、それだけの偽善を背後に伴う危険性があるかという一点を認識する程度には、マジョリテイは確かに成熟したのだ。
勿論、以上のような現状判断に対しても、私と左派系の方々では認識に様々な違いはあろうと思う。一つの提起として受け取っていただければ幸いである。その上で、私はそれがいつか、右の立場から、この問題をどう克服し、石原氏とは違う「右」の姿勢を示したいと思う。(終)
http://blog.livedoor.jp/zatsu_blog/archives/51426164.html
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