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(回答先: 選挙と日本人<政権交代が起きないのも日本の文化だって?!> [JANJAN] 投稿者 white 日時 2007 年 3 月 28 日 13:58:04)
□続・選挙と日本人〜「東京ナショナリズム」と都知事選 [JANJAN]
http://www.janjan.jp/government/0703/0703262454/1.php
続・選挙と日本人〜「東京ナショナリズム」と都知事選 2007/03/28
前回記事:選挙と日本人<政権交代が起きないのも日本の文化だって?!>
いよいよ、東京にも各候補のポスターが貼られ、有権者の気持ちもピリピリしてきた。そんな昨日、駅前でばったり会ったある知人が私に、「佐藤さんはどこの出身だっけ?」と聞いてきたので、「宮城ですよ!」と言ったら、知人は「頼むから浅野さんを宮城に連れて帰って、一緒にお米でも作ってくださいよ!!」と唐突に言った。私は「何でそんなことを言うのかな?」と思いながら、無言になってしまった。
もちろん、この「浅野さん」とは、東京都の都知事選に立候補者の浅野史郎氏である。知人は、半分冗談のつもりで軽口を叩いたと思う。しかし私はこの発言の中にある種の「東京エゴ」あるいは「東京ナショナリズム」のような空気を感じ、冗談で返す気持ちがどうしても起きなかった。
この言葉の前提には、テレビの浅野発言や他の候補との討論があって、その上での知人は、浅野氏に苛立ちのようなものや違和感をもったものであろう。「宮城に帰ってお米でも作れば」という発言の奥には、「宮城の住民が東京に来てブツブツ文句があるならば、もっと東京のことを知ってからにすれば!」という浅野候補に対するいささか乱暴な拒否反応(無意識に近い)が潜んでいるのではないかと思った。
もしそれが当たっているとしたら、この知人の中に芽生えた心理は非常に危険な徴候である。このところ、多くの東京都民と話す中で、石原候補の発言やその精神性に、シンパシーのようなものを感じる人が多いことを肌で感じるようになった。このままで行けば、石原慎太郎候補が、圧勝してしまう可能性すらある。
私は、単純に「石原候補が悪い、浅野候補が良い」ということを言いたいのではない。各候補のマニフェストやこれまでの実績や発言などを厳密に分析した上での判断であれば、石原氏支持はまったく問題がないと考える。しかし、今東京で醸成しつつあるムードは、自分自身の理性的な判断がやや欠けていて、言ってみれば「石原幻想」のような無批判な心情が出来上がりつつあることに大いなる危惧を感じる。
別の言葉で言えばこれは「空気」というようなものだ。東京都民の中に私が感じるある候補を無批判に受容していくこの「空気」のようなものは、私からすれば、「東京ナショナリズム」という一種のヒステリーと言ったもののように感じる。この極端になったものが、軍部の暴走を許し、第2次大戦の敗戦という大きな悲劇を招いてしまった熱狂的な軍国主義的愛国心であった。
第2次大戦下では、誰しもが軍国主義者に成り下がらねば、「非国民」のレッテルを貼られるような怖い時代だった。もちろん今醸成されつつあるものを、それと同列に扱うことは出来ないが、仮に東京生まれでない者が、東京の知事になることを許さない、というような空気が、東京都民の間で内々に醸成されつつあることに、私は脅威を感じるのである。もちろん私の思い過ごしであれば、それに越したことはない。
私が考える「東京ナショナリズム」あるいは「東京エゴ」は、ある種のヒステリー症状を伴うものだ。その症状の特徴は、理性的批判において、その論理を打ち負かすと、相手はますます頑迷となり「東京を分からない人では駄目」「東京は特別な都市」「それに文句があるなら、自分の地方に帰ればよい」という乱暴な思考で、受け入れを拒否するような徴候である。
最後に、今回の「東京ナショナリズム」という「空気」が醸成される過程を考えてみたい。
まず、浅野氏が立候補する過程で、石原氏が「どうして宮城県で知事やった人が東京に来るのかね」あるいは「江戸っ子は、ああいう人どうかね」という趣旨の発言で浅野氏を牽制。ここに都民の潜在意識に言葉の種を植え付けるレトリック(プロパガンダ)がある。
その間に色々あって、決定的だったのは、オリンピック開催についてのテレビ討論でのことだった。石原候補は「日本人には夢が必要。国家にも、人にも国威発揚のようなものがいる」と発言。それに対し、浅野候補は「国威発揚などという言葉自体が、時代錯誤も甚だしい。オリンピックは最優先課題ではない」と語った。
ここに石原候補の本音がある。と同時に、人を無批判なヒステリーに導く言葉のレトリックがあったと思われる。誰しも夢が必要なのは、分かる。国家においても夢は、必要だ。そもそも近代オリンピックそのものが、ナチズム体制下のドイツでは、国威発揚のために、民族の祭典として喧伝され、間違いなくプロパガンダとして政治的に利用され、その後も国際政治の道具として、散々に利用されてきたものである。何故か、どんな人間でも、オリンピック開催期間だけは、熱にうなされるような精神状態になり、ナショナリストになるものだ。
石原候補は、無批判な政治的熱狂を醸し出すような取って置きのレトリックを使った。それが「オリンピック」であり、「国威発揚」という非常に荒っぽい言葉だった。
私は「ナショナリズム(愛国心)」というものを全否定する人間ではない。ナショナリズムの原点は、故郷の山河を愛することであり、故郷の父母を敬う精神に通じる。これは美しい感情である。しかしナショナリズムには、大まかに言って、二筋の流れがある。ひとつは自己愛に固執し、そこに埋没してしまう「狭量なタイプのナショナリズム」であり、もうひとつは単純な自己愛への執着を捨て「世界各国の人々の国情の違い」や「貧富の格差」などに十二分に配慮し、そのことに思いやりを持って接する「寛容なタイプのナショナリズム」である。
私は後者の「寛容型のナショナリズム」を支持する。その最大の理由は後者のそれが「世界精神」に通じる寛容さと普遍性を宿していると思えるからである。
以上のことを踏まえて考えるならば、今回の都知事選の根底には、ナショナリズムをめぐる対立軸も存在しているのである。つまり現在の東京一人勝ちの状況をどのようにして是正し、どのようにして東京と地方の格差を解消するか、ということもまた今回選ばれる新都知事の重要な仕事になるはずだ。少なくても、私は現在のように、東京ばかり、いい思いをするような都政ではいけないと思う。そんな流れを容認する空気としての「東京ナショナリズム」に、私は「ノー」と言いたい。いや「ノーと言える都民」でありたい。
さて、この東京一人勝ちの問題であるが、ひとり石原候補だけではなく浅野氏や他の候補も明確な是正プランを提示しているとは言えない。その意味でも、東京の有権者は、この選挙期間を通じて、各候補の政策立案にも積極的に意見を申し述べていく姿勢が必要になる。もしも仮に意見が言えないような候補であれば、そんな頑迷な候補は当選させなければよいだけの話である。
(佐藤弘弥)
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