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□選挙と日本人<政権交代が起きないのも日本の文化だって?!> [JANJAN]
http://www.janjan.jp/government/0703/0703242289/1.php
選挙と日本人<政権交代が起きないのも日本の文化だって?!> 2007/03/26
いよいよ、4月8日の「07年統一選挙」が近づいてきた。今年の統一地方選挙の特徴は、各地で政党が存在感を失っていることである。
激戦と言われる東京都知事選でもこの傾向は変わらない。現職の石原慎太郎候補も対抗馬と目される浅野史郎候補も政党色を排除することに躍起になっているように見える。このことは、政党の掲げる政策や方針が、単純に地方政治において通用しなくなっていることか、あるいは全国に拡がった格差拡大の流れに政党が政策的に対応しきれていないことを物語るものかもしれない‥‥。
そんなことを考えていた昨日、新宿の本屋で何気なく『憲法は、政府に対する命令である。』(平凡社 2006年刊)という妙なタイトルの本を手に取ってみた。著者はダクラス・スミス(71)というアメリカ人で、米海兵隊出身という変わり種の政治学者だ。現在、教授として津田塾大学で教鞭をとっているという。
本の表紙には「天皇は又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を擁護する義務を負ふ。(日本国憲法第99条)」と、タテに大きな字が踊っている。裏には、「イソップ物語の『狼と少年』の話しが、アメリカ人特有の皮肉めいたジョークで「憲法を食べに来る狼」として比喩的に書かれている。ホントに妙な本である。
パラパラとめくり、第9章(「政治活動は市民の義務である」)で、私の目が止まった。そこにはこんなことが書いてあった。
「『日本独自の選挙文化』‥‥日本の場合、選挙は民主的だろうか。確かに日本には言論の自由があり、野党があり、秘密投票になっており、公正な選挙ができる条件が備わっている。しかし日本の歴史において、本当の意味で選挙によって体制を倒すような政権交代はまだ一度も起こったことがない。そのため、有権者は頭ではいくらそれが可能だとわかっていたとしても、その歴史的体験がない以上、信じがたいことだろう」
「日本独自の選挙文化」という指摘に「なるほど」と笑ってしまったが、少しして選挙という権利を正しく行使していないという指摘に日本人である自分が恥ずかしくなった。著者スミス教授の発言は、とりわけアメリカの大統領選挙において、共和・民主の両二大政党が、4年毎に大統領選挙でしのぎを削り、その選挙結果が、国際政治にもドラスティックな影響を与えるものであることを踏まえて言っているようにも感じられた。
確かに日本の選挙は、アメリカと比べてドラスティックな変化ということが起きにくい。いやまったく起こったためしがない。これを「日本独自の文化」と言われると、妙な恥ずかしさがこみ上げて来る。
ところで日本に選挙による政権交代が起きない理由についてスミス教授はこのように説明している。
「日本の与党の特徴は、選挙運動の際、テレビや街頭での演説は公的言語を用いるが、票を取るときは私的言語を用いるというところにある。」ということだそうだ。早い話が、日本の選挙民の投票行動は、「自分の地域に道路や鉄道を持って来た党、自分の息子の仕事を探し、娘の仲人になった政治家に入れることが多い。したがって、与党の政策が必ずしも国民の考え方を代表しているとはかぎらないのだ」
このことは、日本の有権者が、政党の政策に賛成したり共感をしたりして投票行動にでるというよりは、目先の利益などによって候補者と結びつきが生まれて、選挙に関わっているところに、日本の選挙の特徴があり、それがひいては日本独自の選挙文化を形成しているということになる。
つまり日本人にとって、「選挙」というものは、国の舵取りや地方行政の長をどちらの党に託すかというように思考するのではなく、とりあえず自分にとっての目先の小さな利益を得ることを最優先に考えて投票行動に出る。とすると、利益を地元に誘導し得る立場にあるのは、長いこと権力に付いている与党が圧倒的に優位に立つことになる。日本に政権交代が起きないのは、この辺りに原因があるようだ。
現在の日本人にとって、二大政党時代が来るという期待は、「来る来る」と言われながら、一向に来ないイソップの「狼」のようなものだ。何度も「来る来る」と耳にタコができるほど聞かされているので、いつしか日本人は、選挙というものに、ほとんど期待を持たなくなった。
それだけに、日本の選挙には、どことなく白けたムードが漂う。選挙を一生懸命やっているのは、候補者自身とプロ有権者とも言うような組合や宗教団体や選挙好きな人々ということになってしまう。たいていの人は、よほど候補者との関係がある場合などを除き、傍観者を決め込み、支持者なし、支持政党なしで、選挙に行ったり、行かなかったりする。「無党派」と言うと、一見「無頼の徒」ような響きがあって、カッコ良く聞こえるが、その実態は根無し草そのものである。
無党派の心理としては「自分の一票を入れたところで、状況は変化しない」という思いがある。彼らは「選挙」も「政党」も信じてはいない。これでは投票率が低くなるのも無理はない。
しかしよくよく考えてみれば、この無党派層の増大すればするほど、投票率が低くなって、プロ有権者のような人たちに取って有利な選挙結果となるのである。つまり無党派の存在が、自民党一党による長期政権存続の原動力(生命維持装置?)となって働いているのである。別の言葉で言えば、政治に白けた無党派層の存在こそが、「日本独自の選挙文化」を形成しているのである。
それに昨今の選挙は、公職選挙法の改正によって、政治家が選挙民にあらゆる面でオンブにダッコ状態になってしまった。かつて選挙に立候補する人間は、それこそ自腹で選挙資金を出していたが、今は公職選挙法の変化を良いことに、タカリの構図(候補者が支持者に)のような状況も多分に見受けられる。これも「日本独自の選挙文化」と言えば文化かもしれないが、余り美しいものではない。選挙に金が掛かり過ぎるとの反省がとんでもない方向に行ったものだ。
日本人は、選挙というものを、もう一度根本から考え直してみる必要がありそうだ。選挙がある度に、無党派が選挙の趨勢を決めると言われて久しいが、冷静に事実を検証すれば、政治的に興味と失っている人々(無党派層)の拡大こそが、戦後50年以上もほとんど政権交代なしに一党が政権の座にあるという異様な政治状況をつくり出してきたのである。
やはりこの辺で、日本でも、健全な選挙が行われることを期待したい。そのためにも、私たちは、まず自分たちを、「無党派」などと規定したりすることを止めるべきだ。そして来るべき4月8日の「07年統一地方選挙」当日には、思いを込めて大切な一票を投票箱に投じたいものである。
(佐藤弘弥)
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