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非国民通信より転載
http://blog.goo.ne.jp/rebellion_2006/e/9bec810125315110b8fc7d800e1750d9
最近、石原慎太郎が少ししおらしいと言いますか、意外にも謙虚な物言いをする場面を何度か目にしました。都民税の引き下げを宣言したり、「都民のみなさんにおわびしたい」等と言い出したかと思いきや、築地市場の移転問題に関しても今までの唯我独尊の姿勢を改め、専門家の意見を聞き入れた上で検討するとか、公約に医療や福祉の充実を掲げるなど、今までの振る舞いからしていかにも「らしくない」行動が目立ちます。
今までの2期8年で都政を私物化してやりたい放題にやってきただけに、何を今更、選挙目当てのポーズを取っているだけではないのか、そういう声が専らです。でもまぁ、悪いことではありません。今までの石原都政の実績を鑑みれば俄には信じられないのも当然ですが、それでも都民の生活を重視し、他人の言葉に耳を傾ける姿勢はどの都知事候補が打ち出したにしても好ましいものには違いありません。この調子で誰が最も都民の生活を向上させられるか、それを競ってくれればいいのです。
それにしても、どうしてあの石原慎太郎が少しだけとは言え、謙虚になったのでしょうか。それはおそらく選挙を前に風当たりが厳しくなってきた、諸々の不正を共産党に暴かれ、対立候補にも随分と人気が出てきた、今のままではもしかしたら落選してしまうかもしれない、そんな落選への不安が石原慎太郎を今更ながらの柔軟路線に動かしているのかもしれません。
選挙目当てのポーズに過ぎないと、左派陣営からは全く信用して貰えない石原慎太郎の柔軟路線ですが、とりあえず彼が落選の可能性に晒されている限りは柔軟路線を維持せざるを得ないでしょう。逆に圧倒的多数の支持を得てその政権基盤が盤石となるならば、従来の路線に戻って都政を恣にする可能性が濃厚でしょうか。
これは石原慎太郎に限ったことではなく、別のケースでも同様です。例えばかつての自民党政治は部分的にはリベラルで左寄りなところがあり、それなりに公平性の高い社会を志向していた頃もあったわけですが、これは当時の野党第一党であった社会党に対抗する必要性からだったのではないでしょうか。野党第一党であった社会党に自民党の票が食われてしまう、政権基盤を失うことへの不安があったからこそ、社会党側が掲げていた政策への歩み寄りに動いた訳で、これが左派政党が壊滅状態に陥った近年になると、自民党は急速に右傾化し強硬な姿勢を強めることとなりました。自民党にとっての不安要因が取り除かれたからでしょうか。
東京都知事選の最初期の段階で立候補を表明していたのは現職の石原氏と共産党が推薦した吉田氏でしたが、この時期に反石原を掲げる人の多くは同時に反吉田でもありました。いつの間にか、共産党では選挙に勝てない、そう言って共産党候補を自動的に支持対象から除外する習慣が根付いてしまった人も少なくなかったようです。
しかるに、公金の私的流用や親族への不自然な仕事の依頼などを暴いて石原都知事を窮地に追いやったのは共産党でした。唯一の対立候補であった時期の吉田氏ですら黙殺されるなど、共産党候補の除外が中道派、左派の間に根付くことになれば共産党の議席は激減するものと予測されますが、そうなると今回の石原都知事の不正を暴くようなケースが期待できなくなるわけで、そうなれば石原氏が今日のように焦りを感じることもなくなり、安心して思うがままに振る舞うことができるようになってしまうわけで、これは憂慮せざるを得ません。
例えば経済界の場合、労働条件の引き上げを要求する声が高まると、経営側は競合する他企業、国際競争の脅威を語り、要求する側に対して沈黙と同意を求めます。国際競争に勝ち抜き、生き残るために現状の労働条件を受け容れ、我々に協力せよと。小泉純一郎であれば、構造改革の痛みにあえぐ民衆に対して経済の長期低迷の脅威を語り、沈黙と同意を求めます。この低迷する景気動向を打開するために、痛みに耐えよ、我々に協力せよと。あるいはタカ派の連中は仮想敵の脅威を語り、軍備増強への沈黙と同意を求め、あるいは犯罪の恐怖を煽り、国民に対する監視の強化に沈黙と同意を求めます。
恐怖を使って人々をコントロールしようとする、反対者を抹殺しようとする、こういう手口を用いる輩が権力の座にいること、これがまず第一の民主主義の危機であり、このような手口を用いる輩の打倒こそが目標とされるべきだと思われるのですが、しかるに民主主義に迫るもう一つの危機があります。
それはすなわち、民主主義を脅かす輩に非民主的な方法で対抗しようとすることです。例えば、テロ。とにかく石原慎太郎以外の誰でも良いというのであれば、その場合の最も確実な方法はテロによる暗殺です。これが成功すれば、確実に東京都知事は石原慎太郎以外の誰かになります。この方法の誤りはどこにあるのでしょうか? 暴力的なテロはとにかくいけないことだからでしょうか? そうである以上に、テロで石原慎太郎という個人は倒せても石原的な理念は倒せない、テロリズムによって勝利するのは民主的な理念ではなくテロリズムを肯定する暴力的な理念だからではないでしょうか。
今、石原慎太郎を打倒しようとしている一つの非民主的な理念が広がりを見せつつあります。それはつまり、石原慎太郎の三選という脅威を語って沈黙と同意を求めること、そこに疑問を投げかける人を敵として排除しようとする理念です。そこに働いているのは、小泉純一郎が景気低迷という脅威を語って「痛み」への沈黙と同意を求め、それに疑問を投げかけた人を抵抗勢力と呼んで排除したのと同じ方法論です。
現状では、一部の浅野氏支持層にこの傾向が強いのが懸念されます。脅威を語ることによって沈黙と同意を求め、異論を排除しようとする、このような手口によって民主主義を脅かす輩に立ち向かわねばならないのに、逆にその脅威を使って自らもまた沈黙と同意を求めてしまう、民主主義への脅威に立ち向かう側が、民主主義を脅かす方法論と同化してしまう、立ち向かう側が非民主化してしまう、これこそが民主主義の第二の危機、民主主義にとどめを刺すものです。
石原という脅威を煽ることで沈黙と同意、支持を集めて新たな指導者を仰ぐことができたとしても、それは新しい石原慎太郎を作ることにしかなりません。そして沈黙と同意によって守られた指導者、批判されることなく盲信された指導者は危険な暴君となる可能性があります。
もちろん、人それぞれには資質の違いもあります。人の意見を聞かない人もいれば猛々しい人もいる、穏和な人もいれば狡猾な人もいるわけで、同じ状況におかれた誰もが同じ行動を取るわけではありません。ただし、あの石原慎太郎ですら都知事の座を失う可能性から、僅かなりとも考えを改めて柔軟路線に目を向け、かつての自民党もまた社会党が伸びてくるとそれに負けないように少しだけリベラルな方向に舵を取ったりもしてきたわけです。これは、沈黙と同意の下ではあり得なかったことです。
ここからは都知事選における浅野氏支持層、ついでに言えば今後の選挙における民主党支持層の中の、とりわけ「勝てそうな」候補に票を集めようとしている人たちに向けて訴えたいことなのですが、まずその支持は尊重します。それから、心の底から浅野氏なり民主党なりに心酔しているのであれば、もう何も言うことはありません。ただ政権交代が必要と考え、そのために政治的にはある程度妥協しても「勝てそうな」候補に票を集めようとしている人に訴えたいのは、票を集めるために沈黙と同意を求めるのではなく、その支持者に対して批判的に向き合って欲しいということです。
何から何もでその候補に賛成だというならいざ知らず、何らかの点で批判すべき点があるなら、その候補を傷つけまいとひたすら沈黙し、同意するのではなく、きっちりと批判すること、石原慎太郎やかつての自民党がが批判を受けて軌道修正したように、軌道修正するように圧力を掛けること、これが浅野氏支持層及び民主党支持層の「票を集めよう」と呼びかける人たちに望むことです。
浅野氏支持層と吉田氏支持層、民主党支持層と共産党支持層、皆で共闘して票を集めよう、その訴えは理解できるものです。しかし、吉田氏支持層・共産党支持層の多くは政策上の一致がなければ共闘はできないと語って政策上の問題点を指摘するのに対し、「勝てそうな候補」支持層は石原慎太郎、与党自民党が勝利することの脅威を語って沈黙と同意を求める、これでは噛み合わないのが当たり前です。
数の論理で少数派を吸収しようとしたり、恐怖を語って沈黙と同意を求める、これを続けている限りは隔たりが広がるばかりです。なぜなら、敢えて少数派候補の支持を続けている人たちが打倒しようとしているのは数の論理であり、恐怖を使って沈黙と同意を求める圧力であり、従わない人間を排除しようとする不寛容であるわけで、その打倒すべき手口を用いる相手とは相容れないのです。だからもし、「勝てそうな」候補に本当に票を集めたい、票を集めて欲しいと願うのであれば、やるべきことは批判を差し控えて「勝てそうな」候補を持ち上げることではなく、「勝てそうな」候補を批判によって軌道修正させ、政策面でも理想的な候補に近づけることです。政策上の一致がないのであればそれに近づくためにも批判的に支持すること、政治ブログを巡回する能動的な支持層に求められるのは、このような努力ではないでしょうか。
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