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(回答先: 従軍慰安婦問題について考える(留意点・証言の検証1) [シコケン 〜思考研磨なブログ〜] 投稿者 white 日時 2007 年 3 月 08 日 00:10:48)
□従軍慰安婦問題について考える(証言の検証6) [シコケン 〜思考研磨なブログ〜]
http://blog.so-net.ne.jp/sikoken/2007-02-23
従軍慰安婦問題について考える(証言の検証6) 金台善/朴順愛/崔明順 [従軍慰安婦]
今回も元・従軍慰安婦の証言の検証です。 韓国の挺身隊研究会のメンバーによってまとめられた「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」(明石書店)に掲載されている元・従軍慰安婦の内の3名です。
<金台善(キム・テソン)(仮名)>
【生い立ち・慰安婦となった経緯等】
1926年、全羅南道康津(カンジン)生まれ。12歳の時、母がアヘンを吸う父と離婚し、その後、伯父の家に引き取られる。1944年、18歳になったある日、日本人一人と朝鮮人一人が伯父の家に来て「日本の工場に就職させてやる」と言われて無理やり連れ去られ、ビルマ(ミャンマー)のラングーンの慰安所に入れられる。約1ヶ月後、爆撃がひどくなってきた為、部隊移動の際、連行してきた朝鮮人達と共に逃げ出す。
【考察】
以下の通り、同女の証言は強制連行を示唆しています。
○「最近、娘を連行する人が多いという噂だ」(P.242)
○「国民服(あるいは軍服)を着た三十代の日本人一人と背広を着た四十代の朝鮮人一人が柴折戸を蹴って入ってきました」(P.242〜243)
○「そのまま私は両腕をつかまれ二人に連れて行かれました」(P.243)
○「釜山の収容所では、日本の軍隊から握り飯一つをもらいました」(P.244)
○「私たちの監視は日本の軍人ではなく、軍服を着た朝鮮人がやっていました」(P.244)
○「大阪から百人ぐらいの女たちが、大きな五階建ての船に乗りました」(P.245)
どうにも胡散臭い内容です。同女の証言の疑問点は以下の通りです。
@「工場で働かせてあげる」は、他の元・従軍慰安婦の証言でよくある人間ブローカーや売春宿経営者の騙し文句です。しかし、同女の場合、あらかじめに「最近、娘を連行する人が多い」という噂まで流れており、また、食事をしていた時に「戸を蹴って入ってき」て同意もないのに「両腕をつかまれ二人に連れて行かれ」ています。他の同様な元・従軍慰安婦の証言には、最初からこんなに乱暴な人間ブローカーなどいませんし、同意もなく連れて行く者もいません。しかも、このような強引な手法を用いている割には集められた女の子は4人だけと、他の騙された元・従軍慰安婦と変わりません。(ただし、移動するに従ってどんどん増えていきますが)
A同意無しに強制的に連行されるという衝撃的なシーンの割には、以下の通り、その時の伯父の様子もなく、描写・表現があまりにも簡素。同女が同意したのか拒否したのかも明記されていません。(明記されていないので同意しなかったと判断しましたが)
「ご飯を食べ終わると、崔が「金を稼ぎたくないか?日本に行って一年間だけ工場で働けば、たんまり金を稼ぐことができるから、行こう」と言いました。そのまま私は両腕をつかまれ二人に連れて行かれました。(P.243)
B同女を連行した日本人と朝鮮人はビルマまで一緒に行き、同女が入った慰安所で受付と案内役をしています。通常、組織だって女性を連行しているなら役割分担が決まっているもので、連行する女性を探し出す役をしている者がわざわざ、慰安所まで一緒に行ってそこで働く可能性はかなり低いでしょう。
C同女が連行された1944年9月と言えば、1942年のミッドウェー海戦での敗北以来、戦況が悪化の一途を辿っている頃です。わざわざ兵員を裂いてこんなことをしていたというのもはなはだ疑問です。戦況の悪化を知らない売春宿経営者がビルマへ行って一儲けしようと考えて騙したのなら理解できますが。
D15,6歳の時に母が死亡し、父は行方不明で、伯父の家に世話になっていたはずですが、ビルマから朝鮮に帰った後の話に伯父が全く出てきません。無理やり連れて行かれたのだから心配していて当然で、会いに行かないのは不自然です。慰安婦になってしまったことを恥じてのことだとも考えられますが、それならそれで、そのことが記載されていてもいいはずです。
どう考えても、単に売春宿経営者に「工場で働かせあげる」と騙されて慰安所入れられたと言う話で、そこに後から「強制連行」の内容を付け加えただけでしょう。
【結論】
もし、同女の証言が真実ならば「従軍慰安婦」と言えますが、同女の強制連行の証言は信憑性が薄いと思われます。
【資料等】
年月 1993.10
資料名等 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編集「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」明石書店
内容等
一九四四年九月の初めでした。満十八歳の時です。伯父が「最近、娘を連行する人が多いという噂だ」と言いました。そんなある日、伯父が外に出かけて戻ってくるなり、私に早く隠れろといいました。〜(中略)〜その日も隠れていましたが、あんまりお腹がすいたので下りてきて、家族と一緒に昼ごはんを食べていました。ところがちょうどその時、国民服(あるいは軍服)を着た三十代の日本人一人と背広を着た四十代の朝鮮人一人が柴折戸を蹴って入ってきました。〜(中略)〜ご飯を食べ終わると、崔(※日本人と一緒に来た朝鮮人(管理人注))が「金を稼ぎたくないか?日本に行って一年間だけ工場で働けば、たんまり金を稼ぐことができるから、行こう」と言いました。そのまま私は両腕をつかまれ二人に連れて行かれました。三十分ほど歩いてバスの停留所まで行きました。そこからバスに乗って光州に着き、看板のない旅館のような所へ連れて行かれました。入ってみると、四人の女の子が来ていました。(P.242〜243)
釜山の収容所では、日本の軍隊から握り飯一つをもらいました。〜(中略)〜私たちの監視は日本の軍人ではなく、軍服を着た朝鮮人がやっていました。便所に行くのにも、ついて来るくらい厳重でした。日本の軍人とその朝鮮人の間では日本語を話していました。〜(中略)〜約四十人の女は大阪に行き、二十人くらいは下関に行きました。〜(中略)〜一九四四年十月初旬か中旬でした。大阪から百人ぐらいの女たちが、大きな五階建ての船に乗りました。〜(中略)〜三組に分けられましたが、私たちは二十人はビルマ(ミャンマー)のラングーンに行きました。私を康津から連行した日本人と崔も、ラングーンに行きました。(P.244〜245)
私を康津から連行した日本人は、慰安所の入り口で軍人から券をもらい、崔が軍人たちに入る部屋を案内しました。(P.248)
<朴順愛(パク・スネ)(仮名)>
【生い立ち・慰安婦となった経緯等】
1919年、全羅南道茂朱(ムジュ)生まれ。16歳の時、貧しい家庭に事情も知らず嫁いだが、その家を逃げ出し、1936年18歳の時、金持ちの後妻になる。1938年20歳で息子を出産。1941年23歳の時、猜疑心の強い夫に紹介所に売り渡される。紹介所で慰問団を募集するという話を聞き、「野戦病院で軍人の服を洗い、彼らが負傷したら治療してやればいい」ということだったので自ら志願、以降、ラバウルで慰安婦生活を強いられ、1944年正月に朝鮮に帰郷。
※紹介所・・・簡単に言えば人身売買の仲介所。お金が必要な者が娘等を売ったり、人手の必要な者が人を買ったりする所。買い入れ先の選定にはある程度本人の意思が尊重されたようです。
【考察】
夫に紹介所に売られた後、「野戦病院で軍人の服を洗い、彼らが負傷したら治療してやればいい」と言う話に騙されて慰安婦になったという話です。
なお、同女の証言は、以下の通り締めくくられています。
「こんどの申告は城南(ソンナム)に住んでいるおじの奥さんがしました。私はこれから先、祖国が発展するのに少しでも役立てばと願って申告したのでした。私たちの民族が二度と他の国の奴隷になってはいけないのです。これまで一人ではどうにもならず恨(ハン)を胸の中にしまって暮らしてきました。やっとその恨を挺身隊対策協議会で晴らしてもらいました。ただありがたいばかりです。(P.267〜268)」
私には、単に、慰安所経営が金になることを知った朝鮮人が女性達を騙して慰安所に入れたという話で、一番悪いのはその朝鮮人だとしか思えないのですが、韓国の人にしてみれば、その朝鮮人さえも日本軍に無理やりさせられたことになるのでしょう。
強制連行の証拠すら見つからないのに、朝鮮人売春宿経営者への日本軍からの強制の証拠、さらには、騙して連れて来いと命令した証拠を見つけるのはさらに困難そうです。
なお、元・従軍慰安婦の中には「日本も悪いけれど、その手先をした朝鮮人はもっと憎い」(鄭書云)と語っている方もいます。ただし、それでも「日本の手先」ですが。。。
【結論】
証言には特に不審な点は見当たりません。
慰安所経営者に騙されて慰安婦になったと言う話で「従軍慰安婦」ではありません。
【資料等】
年月 1993.10
資料名等 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編集「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」明石書店
内容等
猜疑心がぶり返したのか、夫は私の髪を見ると因縁をつけるのです。そして私から子どもを取り上げると、私を紹介所に売り渡しました。私が二十三歳(一九四一年)、陰暦十月のころでした。(P.255)
しばらくすると慰問団を募集するという噂が耳に入りました。「野戦病院で軍人の服を洗い、彼らが負傷したら治療してやればよい」といわれ、三年ほど働けば借金も返せるし、お金も儲けられるということでした。募集人員は二十五人で、私はクムスンと一緒に志願しました。〜(中略)〜陰暦の十二月ごろでしたが、その後、紹介所でしばらくの間、船が来るのを待ちました。(P.256)
ソウルを発つとき、朴氏と金氏、趙氏の引率する私たち二十五人と、ハヤシという男の引率する二十五人の合わせて五十人の女がいました。
<崔明順(チェ・ミョンスン)(仮名)>
【生い立ち・慰安婦となった経緯等】
1926年、ソウル生まれ。父が借金の保証人になって失敗して以降、苦しい生活を送る。1945年19歳のとき町内会の人が来て、「家でぶらぶらしているのなら就職した方したらどうだ」と言われて、反対する母を無視してこっそり家を出る。その後、広島のスハラという将校の妾にされる。何度も朝鮮に帰してくれと懇願したところ、妾にされて2ヶ月後、日本人二人に引き渡され大阪の慰安所に入れられる。4ヶ月後、病いが重くなった為、朝鮮に帰される。
【考察】
町内会の人に騙されて妾として売られたと言う話です。最初、広島のスハラという軍人の女中兼妾にされますが、そこの主人や奥さん、息子に、何度も何度も朝鮮に帰してくれと懇願していて、それが疎まれて慰安所に入れられてしまったようです。主人の奥さんは病気で寝ていたようで、おそらく、妾を持つことを奥さんも承知の上だったのではないでしょうか。その奥さんに対しても「私がいるから主人が奥さんのところに行かないと思うんです。私を朝鮮に帰せば主人は奥さんを愛するようになるでしょう」と言っていたようで、次第に奥さんも癇癪を起こして同女に対してつんけんするようになり、それでも、同じことを言い続けていたようです。
そもそも、戦地での強姦等を防止用に設置された慰安所が大阪にあったという事実は信じがたいものです。もし、あったとしたら、一部組織が極秘裏に設置していたはずであり、その慰安所に引き渡す手引きをしたのが主人の息子だったと言うのも疑問です。単なる売春宿だったのではないかと私は思います。
一方、そこが慰安所だったかはともかく、その他の点では内容に信憑性があるとも思います。
【結論】
騙されて妾として売られ、その後、慰安所(売春宿?)に入れられたという話で「従軍慰安婦」ではありません。
【資料等】
年月 1993.10
資料名等 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編集「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」明石書店
内容等
また他の町へ越したのが一九四五年、私が満十九歳になった年でした。新暦の正月だと記憶してますが、町内会の男が来て、「家でぶらぶらしているのなら就職したらどうだ」と言いました。もしも何もしないで家にいたら、挺身隊に出されて行くことになるだろう。日本に行って働けば金も稼げるし、挺身隊にも行かないですむからと言うのです。〜(中略)〜母に行くなと言われたのに夜通しあれこれ考えた末、こっそり身の回りの物を包んで、母が出かけている間に町内会の男を訪ねて行きました。〜(中略)〜一晩中汽車に乗って釜山で下りると、その男は二人の日本人の男に私を引き渡しました。(P.272)
汽車から下りて二人の日本人の男が私をある家に連れて行きました。四十歳ぐらいの日本人の男が私を見て笑いながらとても喜びました。〜(中略)〜家の中を見わたしてみると、病気で寝ている奥さんと、二十歳ぐらいの息子がいました。〜(中略)〜それから後、主人は毎夜私と寝ました。〜(中略)〜主人の姓は「スハラ」といい、息子は「ジロウ」といいました。スハラは軍人でしたが、朝に軍服を着て出かけるのを見ると、肩には赤い布の上に星がついた階級章がありました。(P.274〜275)
ある日、スハラが朝出かけたあと、奥さんと息子とが一緒にいるとき、またお願いしました。すると奥さんと息子が自分たちだけで何とかするからと言って、息子が私に荷物をまとめろと言いました。〜(中略)〜私はどこかの駅に連れて行かれました。その息子が日本人二人に何かを言うと、私をその男たちに引き渡しました。(P.276)
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