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(回答先: 従軍慰安婦問題について考える(留意点・証言の検証1) [シコケン 〜思考研磨なブログ〜] 投稿者 white 日時 2007 年 3 月 08 日 00:10:48)
□従軍慰安婦問題について考える(証言の検証3) [シコケン 〜思考研磨なブログ〜]
http://blog.so-net.ne.jp/sikoken/2007-03-04
従軍慰安婦問題について考える(証言の検証3) 金徳鎮/李英淑/河順女/呉五穆 [従軍慰安婦]
今回も元・従軍慰安婦の証言の検証です。 韓国の挺身隊研究会のメンバーによってまとめられた「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」(明石書店)に掲載されている元・従軍慰安婦の内の4名です。
<金徳鎮(キム・ドクチン)(仮名)>
【生い立ち・慰安婦となった経緯等】
1921年慶尚南道生まれ。父親はタバコの密造(あくまで自分で吸っていただけ)がばれて日本の巡査に捕らえられ、鞭でひどく打たれて帰ってきた後、病にかかり死亡。以降、飢え死に寸前の苦しい生活となる。12歳の時、普州の銀行員の家で女中となり16歳まで働く。1937年17歳の時、日本の工場で働く女工の募集している朝鮮人の男に騙され、長崎に行きそこで軍人に強姦される。1週間後、上海に向かいそこで慰安所に入れられる。引率してきた朝鮮人が慰安所の経営者であった。
1940年、親しくしていた「イズミ」という軍人の好意により親友4人と共に帰郷する。
【考察】
上海に向かう前に一旦、長崎に1週間ほど滞在しています。なぜわざわざ長崎に行ったのか不明ですが、慰安所経営者が軍人を接待することにより何らかの便宜を受けようとしたのでしょうか。
【結論】
朝鮮人の慰安所経営者達に騙された話で「従軍慰安婦」ではありません。
【資料等】
年月 1993.10
資料名等 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編集「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」明石書店
内容等
私が十七歳の年(一九三七年)の陰暦正月中旬か二月の初めのころでした。〜(中略)〜それを聞いて「私も行こう」と考えていました。そうしたある日、朝鮮の男が日本の工場で仕事する女を募集しに、また坪村に来たという話を聞きました。私は坪村に行ってその人に会い、日本に行く約束をしました。(P.59)私たちを引率して来た朝鮮人が経営者のようでしたが、軍人が食べる物や家の衛生面の検査をしに来ました。(P.62)
<李英淑(イ・ヨンスク)>
【生い立ち・慰安婦となった経緯等】
孤児で、大阪で十歳頃まで女中奉公をしていた。両親は朝鮮人だった為、1937年15歳の時、朝鮮に帰り、冷麺屋で働いたり、女中をしたりして生活をする。1937年、日本で就職させてやるという朝鮮人がいるので一緒に行こうと友達に誘われ、以降、広東で慰安婦生活を強いられる。
【考察】
朝鮮人夫婦に騙され釜山で日本人の軍属に引き渡され、以降、広東まで引率されています。この引渡しまでに一行は、釜山と新義州を行ったり来たりしていますが、引率してくれる人を探していたのでしょう。そして、やっと見つけたのがこの日本人の軍属だったのではないでしょうか。
少なくともこれをもって、「強制連行」の証言と捉えることは出来ないでしょう。
ただ、下記資料の証言集から、元・従軍慰安婦達が相次いで「強制連行」を証言に追加していることを考えると、本当に軍属であったかは疑わしいと言わざるを得ません。(ただし、完全に否定できる根拠もありませんが)
その他の証言内容には特に不審点は見当たりません。
【結論】
騙されて慰安婦になったという話で「従軍慰安婦」ではありません。
【資料等】
年月 1993.10
資料名等 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編集「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」明石書店
内容等
一九三九年の十二月、十七歳になった年でした。ある日、就職させてくれるという朝鮮人がいるから、日本に一緒に行こうとその子(※友達)が言いました。〜(中略)〜友だちと一緒に、故郷が平安道新義州にあるという朝鮮人夫婦に会いましたが、そこには私たちの他に四人の女の子がいました。〜(中略)〜釜山に着いたのは、わずかな距離の見分けもつかないほど真っ暗な夜でした。私たちは日本人に引き渡されました。その日本人は軍属で、軍服は着ていましたが階級章はありませんでした。
(P.71)主人は日本人夫婦でした。男は四十歳、女は三十五歳くらいに見えました。(P.76)
<河順女(ハ・スンニョ)>
【生い立ち・慰安婦となった経緯等】
1930年普州(チンジュ)生まれ(※戸籍上は1918年と申告されている)。家が貧しく小学校に正規の入学年齢より遅れて入学する。その為、学友達からからかわれ学校に行くのが嫌だったが、どうしても行けと父親に叱られて、着のみ着のままで家出。その後、光州で女中をしていたが、20、21歳の時、金になるからと日本人と朝鮮人の男に誘われるままついて行き、上海で慰安婦生活を強いられる。
1992.12.2、日本国の公式謝罪と賠償を求めて提訴した10人の内の一人。2003.3.25最高裁にて上告棄却・上告受理破棄、敗訴確定。(釜山従軍慰安婦・女子勤労挺身隊公式謝罪等請求訴訟(別名:関釜裁判))
2000.5.5死亡。
【考察】
裁判の証言(以下「裁判」)と「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」(以下「証言」)を比べると以下の点で大きく異なっています。
慰安所の主人に頭を棍棒で殴られた後、病院で治療を受けさせてくれたのは
○「裁判」・・・東京出身の衛生兵らしい優しい日本人
○「証言」・・・ヤマモトという名の陸軍少尉
その後
○「裁判」・・・その後1ヶ月くらいは顔が腫れ上がったため、軍人の相手はせずに働いていた
○「証言」・・・ヤマモトという名の陸軍少尉が「飯炊きだけをして軍人の相手をするな」と言ってくれ、以降、炊事洗濯をして終戦を迎える
「裁判」では、親切な計らいをしてくれた陸軍少尉の記述が抜け落ちています。裁判を意識して、ヤマモト陸軍少尉のエピソードを削除したのでしょう。「証言」の内容を信じるなら同女が慰安婦をしていたのは約1年間です。(ただし、「裁判」では上海についてからずっと慰安婦をしていたと読み取れる内容になっています)
恐らく、「証言」の内容が真実で、「裁判」の内容は弁護士か支援者の入れ知恵でしょう。
【結論】
売春宿経営者に騙されて慰安婦になっており、「従軍慰安婦」ではありません。
【資料等】
年月 1992
資料名等 裁判の証言
内容等
私が従軍慰安婦として連行されたのは、19歳だった1937年の春だったと思います。買い物に行こうと家を出たとき、洋服を着た日本人と韓式の服を着た朝鮮人の青年が私に話しかけ、「金儲けが出来る仕事があるからついてこないか」と言いました。私は当時としては婚期に遅れた年になり、金儲けをしたいと思っていた矢先だったので、どんな仕事をするか分からないまま、ソウルにでも行くのだろうと思って、彼らについていくことにしました。そのまま家の人にも何の連絡もせずについていくと、私の他に3人の娘がいました。1人は私と同じ歳で、あとの2人は私より年下でした。
年月 1993.10
資料名等 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編集「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」明石書店
内容等
そんなある日、二十か二十一歳になった頃だったと記憶しています。子供を寝かしつけ、近所の女中たちと集まって話をしていたところ、朝鮮人の男一人と日本人の男一人が近づいてきました。〜(中略)〜自分たちについて日本の大阪に行けば、たくさんお金がもうかると話しました。金に欲が出てどんな仕事なのかも聞きもせず、ついていってしまったのです。主人へは断りもしませんでした。(P.86)
私たちを上海まで連れてきた日本人の男がその家の経営者だということがわかりました。(P.87)
<呉五穆(オ・オモク)>
【生い立ち・慰安婦となった経緯等】
1921年全羅北道井邑の貧しい家の長女に生まれる。1937年満16歳の時、同村の金という男に紡績工場に就職させてやると言われ、友人とついて行く。満州で慰安婦を強いられ、その後、部隊と共に移動し南京で終戦を迎える。
【考察】
証言内容には特に不審点は見当たりません。
【結論】
同じ村の人に騙されて慰安婦として売られたと言う話で「従軍慰安婦」ではありません。
【資料等】
年月 1993.10
資料名等 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編集「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」明石書店
内容等
満十六歳になった一九三七年の頃でした。両親はいい人がいれば私をお嫁に行かせたいと言いました。こうしたある日、井邑に住む金という男の人が私に「紡績工場に就職させてあげる。いっしょに行く友達がいれば言いなさい」と言いました。〜(中略)〜オクヒといっしょに金について井邑駅に行ってみると、三人の女の子がいました。〜(中略)〜再び汽車に乗って三、四日かかって満州で降りました。奉天付近で私たちが金に「工場に行くと言ったのに話しが違うのではないか」と言うと、金は「言う通りにしろ」と言いながら、私たちを日本人に引き渡すと姿を消してしまいました。(P.85)
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