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(回答先: 従軍慰安婦問題について考える(留意点・証言の検証1) [シコケン 〜思考研磨なブログ〜] 投稿者 white 日時 2007 年 3 月 08 日 00:10:48)
□従軍慰安婦問題について考える(証言の検証2) [シコケン 〜思考研磨なブログ〜]
http://blog.so-net.ne.jp/sikoken/2007-03-02
従軍慰安婦問題について考える(証言の検証2) 金学順/文玉珠/姜徳景/尹頭理 [従軍慰安婦]
1991.8月に元・従軍慰安婦第一号の金学順(キム・ハクスン)さんがカミングアウトした後、韓国の名門大学の教授や女性学等の研究者たちによって構成される「挺身隊研究会」のメンバーによって、元・従軍慰安婦たちに対しての入念な聞き取り調査が行われました。
そうしてまとめられた本が「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」(1993年)と「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち2」(1997年)で、日本では最初の証言集のみ明石書店から出版されています。
最初の証言集に掲載されているのは19人で、「韓国挺身隊問題対策協議会」に登録された元・従軍慰安婦110人の内、既に死亡していた55人を除き連絡が可能だったのは40人。さらにそこから「自分の経験を語りたがらない人、証言がそのたびごとにひどくくいちがったり、話の前後が合わず、調査が難しい人たち」を除いたのが19人だったわけです。
そして、同書に記載された19人の元・従軍慰安婦の証言の内、権力による強制連行にあたる証言をしているのは4人だと言われています。今回は、その4人についての証言を見ていきたいと思います。
<金学順(キム・ハクスン)>
【生い立ち・慰安婦となった経緯等】
1924年中国東北(満州)の吉林省に生まれる。生後間もなく父が他界し、2歳の時、母に連れられ平壌へ。14歳のとき母が再婚し、15歳の時、40円を受け取ってキーセン(※芸妓、芸妓兼娼婦のこと)を養成する家の養女となる。17歳の時、キーセン学校を卒業するが、19歳にならないと役所からキーセン許可がおりない為、1941年、養父に連れられ中国に行き慰安婦となり、4ヵ月後に朝鮮人男性と共に逃げ出す。
1991年8月に韓国で初めて慰安婦として名乗りを上げて証言を行い、同12月に文玉珠(ムン・オクス)、金田きみ子(仮名)らと共に日本政府に謝罪と補償を求め東京地裁に提訴。2004.11月に最高裁棄却により敗訴が確定した。(アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求訴訟)
1997.12.16死去
【考察】
下記資料を見ると、1991.8.11の朝日新聞の記事は「挺身隊+強制連行」と他の資料と全く異なった内容になっています。当該記事については、掲載された数日後には全く異なる証言がなされていること(1991.8.15ハンギョレ新聞)、また、裁判資料も後者の証言と一致していることを考えると、多くの人が指摘している通り朝日新聞の記事は記者による歪曲・捏造でしょう。なお、当該記者は慰安婦裁判の原告である「太平洋戦争犠牲者遺族会」の常任理事の娘婿でした。
また、この朝日新聞の記事を除けば、「養父に慰安所に入れられた」と言う内容で一貫していたものが、「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」(1993)からは、強制連行されたことに証言が変更されています。具体的に言えば、養父に連れられ中国に行ってから慰安所に入るまでの間に、日本の軍人による強制連行の情報が加わっています。同女を慰安所に入れたのが「養父」から「日本の軍人」に変わっているのです。
もし、この強制連行が真実ならば、わざわざ「養父に慰安所に入れられた」と嘘をついたり強制連行を隠す理由が見当たりません。「養父に慰安婦として売られた」というより「日本軍に強制連行された」と言った方が世間の風当たりも良いでしょうし、日本政府に対して起こした裁判も有利に進められます。
また、キーセン学校に通った後、娼館に入れられるのは自然で納得のできる流れでもあります。
さらに、「金学順(キム・ハクスン)さんの証言」(以下、「金学」)と「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」(以下、「証言」)の内容を比べると下記の通り若干、相違点が見受けられます。
父の死亡理由等
○「金学」・・・三・一独立運動に参加した独立運動家で、日本軍の銃に撃たれて亡くなった
○「証言」・・・父の職業等の記載は一切なし。死亡理由については、「どのように亡くなったかくわしい事情は分かりません」と記載。
朝鮮ではキーセンの許可が降りなくて養父に連れられ向かう地
○「金学」・・・満州(※満州に行く途中の北京で連行される)
○「証言」・・・中国
→ 単に「満州」という言葉を使いたくなかっただけか
北京で日本の軍人に職務質問を受けるのが
○「金学」・・・食堂で食事をとろうとしている時
○「証言」・・・食堂で昼食をとり出てくる時
→ 微妙な違いですが。。。
職務質問をした将校が
○「金学」・・・長い刀を背中にしょっていて、その刀を養父につきつけたり振り回したりする
○「証言」・・・刀の話は出てこない
→ 刀を背中にしょってる将校などありえない話なので削除したのか
微妙な違いのものが殆どですが、父親に関する内容は明らかに違っています。
【結論】
この方の証言する強制連行は信憑性がないと言えるでしょう。
養父に売られた後、キーセン学校を卒業したものの朝鮮で営業できなかった為に、中国に行って慰安所に入れたという話で「従軍慰安婦」ではありません。
【資料等】
年月 1991.8.11
資料名等 朝日新聞
内容等
日中戦争や第二次大戦の際、女子挺身隊の戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた朝鮮人従軍慰安婦のうち、一人がソウル市内に生存していることがわかり、「韓国挺身隊問題対策協議会(尹貞玉・共同代表 十六団体約三〇万人)が聞き取り調査を始めた。
年月 1991.8.15
資料名等 ハンギョレ新聞
内容等
生活が苦しくなった母親によって14歳の時に平壌のあるキーセン検番に売られていった。三年間の検番生活を終えた金さんが初めての就職だと思って、検番の義父に連れていかれた所が、華北の日本軍300名余りがいる部隊の前だった
(※管理人注:キーセン検番・・・キーセンの養成学校。)
年月 1991
資料名等 裁判資料
内容等
貧困のため学順は小学校を4年で中退、金泰元の養女となり、14歳からキーセン(妓生)学校に通った。1939年、「金儲けが出来る」と説得され、養父に連れられ中国へ渡った。北京を経て鉄壁鎮という小集落で養父と別れて慰安所へ入れられ、日本軍兵士のための性サービスを強要された。
年月 1992
資料名等 平林久枝編『強制連行と従軍慰安婦』日本図書センター一九九二年刊収録
内容等
養父に連れられ、北支のカッカ県鉄壁鎮に行き慰安婦になった
年月 1993.2
資料名等 解放出版社編「金学順(キム・ハクスン)さんの証言 −『従軍慰安婦問題』を問う-」解放出版社
内容等
父は三・一独立運動に参加した独立運動家と聞いています。〜(中略)〜ところが私が生まれて一〇〇日もたたない間に、父は日本軍の銃で撃たれて亡くなったのです。(P.9〜10)
ある日、食堂で食事をとろうとしている時、日本軍の将校に見つかってしまいました。〜(中略)〜将校は長い刀を背中にしょっていたのですが、その刀を抜いてつきつけて養父を離れたところに連れて、ひざまずかせました。何をいっているのか知りませんが、刀をふりまわしていました。(P.16〜17)
私たちはそのまま軍人につかまって、道ばたに止めてあった軍用トラックに乗せられたのです。(P.18)
年月 1993.10
資料名等 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編集「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」明石書店
内容等
母が私を中国で一九二四年に産んで、その後百日もたたずに父が亡くなったといいます。どのように亡くなったかくわしい事情はわかりません。(P.42)
母は私をキーセンを養成する家の養女に出しました。〜(中略)〜母は養父から四〇円をもらい、何年かの契約で私をその家に置いていったと記憶しています。(P.43)
北京に到着して食堂で昼食をとり、食堂から出てきたときに、日本の軍人が養父を呼び止めました。〜(中略)〜姉さんと私は別の軍人に連行されました(P.44〜45)
年月 1997.12.16
資料名等 共同通信
内容等
金さんは旧満州(現中国東北地方)で生まれ、平壌で育ったが、十七歳の時の春に、日本の軍人に強制的にトラックに乗せられ、中国大陸の前線に連れて行かれたと証言
年月 2006.6
資料名等 西野瑠美子・金富子編集「証言 未来への記憶 アジア『慰安婦』証言集T」
(※管理人注:同書の内容は「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」を転載したもので内容は同じ)
<文玉珠(ムン・オクチュ)>
【生い立ち・慰安婦となった経緯等】
1924年大邱(テグ)生まれ。9歳の時、独立運動をしていた父が帰宅し長患いの後、死亡。暮らし向きは楽ではなかった。女中をしている時に朝鮮人から「食堂で働かないか」と誘われ、1942年にビルマ(現ミャンマー)にて慰安婦となる。慰安婦時に軍事郵便貯蓄にて26,145円の貯蓄をし、また、別途、5,000円を実家に送金。
1991年12月、金学順(キム・ハクスン)、金田きみ子(仮名)らと共に日本政府に謝罪と補償を求めて提訴。2004年11月最高裁棄却により敗訴確定。(アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求訴訟)
1992年に日本の郵便局を相手に26,145円の貯金返還の訴訟を起こす。2003年3月最高裁上告棄却により敗訴確定。(戦時郵便貯金の払い戻し訴訟(別名:下関裁判))
1996.10.26死去。
【考察】
当人が慰安婦として3年弱の間に貯めた金額は、実家への送金分も含めると、31,135円。
当時の大卒の初任給が100円から150円、陸軍参謀の年棒が6600円であるから、現在の貨幣価値に直すと、単純計算でも6千万円は超えます。(※現在の初任給を20万円として2000倍した)
当該軍事郵便貯金については、日本の敗戦と共に失効したものと勘違いしていて、その後、通帳もなくしてしまったらしい。さらに、1965年の日韓基本条約に基づき、韓国は、1975年7月から2年間、貯金通帳など有価証券の支払いを受け付けていますが、これも知らなかったようです。なお、貯金原簿については 熊本貯金事務センターにて存在が確認されています。
金学順(キム・ハクスン)さんと同じく「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」で強制連行されたことに証言が変更されています。具体的に言うと、1942年にビルマに行く前に、「1940年に『軍服を着た日本人』に連行されて満州で慰安所に入れられ、日本人将校を騙して故郷まで帰ってきた」というエピソードが追加され、軍人に連行された記述になっています。
また、、ビルマへ向かう際も、「釜山港から船に乗りました。船は軍用船で六隻か七隻がいっしょに出発しましたが、私たちの乗った船がいちばん最後でした。私の記憶では、私のような女たちが三、四百人を超えるほどで、船中いっぱいだったように思います」と、他にもたくさん女性達がいて軍の関与を暗示する記述が加わっています。
ただし、金学順(キム・ハクスン)さんとは違い、次の通り、証言を変更した理由も記載されています。
「昨年、若い頃検番で知り合った李さんのすすめで、はじめてこの事実を申告した時にも、中国の話は明らかにしませんでした。その時は、はずかしいことをみんな話そうかどうしようかと迷って、南方へ行った話だけしました。けれども、私の話がみんな知られてしまった今、何をかくす必要があるかと思って、思い出すまま全部を話しました。今、すべてを話し終わって胸がすっとしました」
この言い訳を信じるか否かですが、強制連行の部分のみが都合よく、そっくり抜け落ちていたことには疑いの目を向けざるを得ません。
さらに、「文玉珠 ビルマ戦線 楯師団の『慰安婦』だった私」(以下「文玉」)になると、「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」(以下「証言」)とまた内容が下記の通り異なってきます。
13歳の時、満州に行く前に福岡県大牟田で働いているのですが、そこは
○「証言」・・・遠い親戚で古物商
○「文玉」・・・親戚という記述はなく、売春宿
その家を逃げ出した理由が
○「証言」・・・約束した学校に行かせず、毎日、家の手伝いばかりさせていたから
○「文玉」・・・学校に行かせるというのはウソで、大きくなったら身売りさせられると分かったから
朝鮮に帰った後、16歳の時、満州の慰安所に行くことになったきっかけは
○「証言」・・・憲兵隊と思われる軍服を着た日本人に突然、路上で連れて行かれる
○「文玉」・・・日本人の憲兵と朝鮮人の憲兵と朝鮮人の刑事に突然、路上で連れて行かれる
連行したのが1人から3人に増えています。
満州で慰安所に入れられた際
○「証言」・・・女の人達に聞いて初めてそこが慰安所であることが分かる
○「文玉」・・・大牟田で働いていた時の経験ですぐに売春宿だと分かる
満州から逃げ帰る際、母が病気で死にそうだからと騙して証明書を発行してもらう相手が
○「証言」・・・主計将校(物品を管理する将校)
○「文玉」・・・憲兵
帰郷後、18歳の時、ビルマの慰安所に入るきっかけになったのが
○「証言」・・・偶然知り合った友達の誘い
○「文玉」・・・満州の慰安所で働いていた友達のヒトミとキファの誘い
「文玉」では、なぜか、満州の慰安所にいたヒトミとキファまでもが朝鮮に帰ってきています。さらに、ビルマに行く途中で同じく満州の慰安所にいたアキミとヒフミにも再会しています。奇妙にも、満州時代の友達が4人もせいぞろいし、しかも、ビルマの同じ慰安所に入れられることなります。
なお、「証言」では、途中で出会ったのは満州の慰安所にいた金ケファのみになっています。(金ケファは、「文玉」で食堂で働こうと誘ったキファと同一か?)
釜山港から船に乗るのですが
○「証言」・・・同じにような女が3、400人超える程だった
○「文玉」・・・同じような女が150〜200人ほど港に集まった
同じような女が半分に減っています。
「文玉」では、満州の慰安所で働いていた4人の友達が偶然、ビルマの同じ慰安所で働いたことになっており、この偶然はあまりにも出来すぎでしょう。しかも、友達と偶然の再会を果たした場所から彼女らを引率したマツモトという朝鮮人はビルマの慰安所の主人でもあり、顔見知りだったと記述されています。おそらく、満州から朝鮮への帰郷はなく、単に満州からビルマへとマツモトという慰安所経営者に引き連れられて移動しただけでしょう。
また、日本で働いていた場所が売春宿だったことを考えると、「朝鮮→強制連行→満州の慰安所」もさらに疑わしいものになります。
これら一連の変更を考慮して実際、どうだったのかを推理してみると
1)日本の売春宿で働いていた
2)身売りを強要され拒否したから、または、その他の理由で満州の慰安所に売られた
3)満州の慰安所からビルマの慰安所に移った
と言うところではないでしょうか。
また、これを前提にして、当人がどのように考えて証言を変えてきたかも推理してみます。
@ビルマで慰安婦として働く前に売春婦だったと言う事実まで語りたくなかった
→日本の売春宿で働いていた事実と満州の慰安所にいた事実は隠し、ビルマの慰安所で働いていたことにして、友達に誘われて朝鮮からビルマに行ったことにした。(ビルマは郵便貯金をした場所でもあり、はずす訳にはいかなかった)・・・裁判資料
A日本で起こした裁判に勝つ為には、強制連行の事実がないといけないことが分かった
→ビルマには友達に誘われて行ったことになっているので、その前にいた満州の慰安所に強制連行されたことにして、一旦、満州から朝鮮に逃げ帰ったことにした。しかし、日本の売春宿で働いていたことは隠した。・・・「証言」
B日本で書籍を出すことになり、慰安所時代に仲の良かった友達も残しておきたいと思った
→満州からビルマに一緒に行った4人の内、半分を「食堂で働こう」と誘った相手にし、残り半分は旅の途中で偶然出会ったことにした・・・「文玉」
C強制連行というウソの証言をしてしまったことを後悔した
→今更取り消すわけにはいかないので、満州に連行した人を「日本人一人」から「日本人一人+朝鮮人二人」にして日本人色を薄めると共に、ビルマに一緒に連れて行かれた女性の人数を半分に減らした。さらに、実は、日本の売春宿で働いていたという事実も正直に話した・・・「文玉」
あくまで推測に過ぎませんが、これでつじつまが合うのではないかと思います。「文玉」を読んでみるとこの方が聡明な方であったことがよく分かります。そして、聡明なだけにその思考を辿るのも容易です。
【結論】
この方の証言の強制連行の部分については信憑性がないと言えるでしょう。よって、「従軍慰安婦」ではありません。
なお、蛇足ですが、「文玉珠 ビルマ戦線 楯師団の『慰安婦』だった私」を読んでみると、この方が聡明な方で、死と隣り合わせに戦っていた兵士達がまさに慰安されていたことが分かります。多くの貯金をためることが出来たのも、この方がそれだけ「チップをあげたい」「便宜を図ってあげたい」と思わせる方だったからでしょう。
全くお話しにならない元・従軍慰安婦の方がいるのも事実ですが、ウソつき呼ばわりして単に否定したりとか、やたら被害者であることを強調するだけでなく、我々のおじいさん、ひいおじいさん達が戦場で、慰安婦の方々に慰め勇気付けられていたという事実に思いを馳せてみることも必要でしょう。
【資料等】
年月 1991
資料名等 裁判資料
内容等
一九二四年貧家に生まれ、女中をしている時、宋という朝鮮人から『食堂で働かないか』と誘われ、四二年釜山から船でビルマに渡った。慰安婦として働いて、ためた一万五千円のうち五千円を実家に送った。日本軍下士官を刺殺したが、軍法会議で正当防衛と認められ、無罪になった
年月 1992.5.22
資料名等 毎日新聞
内容等
一九四三年から一九四五年の間十二回振り込みがあり、その預金残高は二万六一四五円に上っている。
年月 1993.10
資料名等 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編集「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」明石書店
内容等
一九四〇年、私は、満十六歳になりました。この年の秋の暮れ頃でした。〜(中略)〜ハルコ(※日本名を使っている朝鮮人の友達(管理人))の家を出て自分の家に帰りかけました。まだいくらも歩かないうちに、軍服を着た日本人が私に近寄って来ました。彼は、突然、私の腕を引っ張って、日本語で何か言いました。〜(中略)〜私たちは当時の中国東北部、逃安城というところで汽車を降りました。〜(中略)〜大明洞の近所に、偶然知りあった友人が一人いました。一九四二年七月はじめ、この友人が「お金をたくさんくれる食堂に行こうと思うんだけど、あんたも行かない?」と聞きました。私はもうだめにされた身体だと思っていたので、どうせのことならお金でもたくさん稼ごうと思って、すぐ承知しました。〜(中略)〜私たちは紆余曲折のあげく、台湾、シンガポールを経てビルマ(ミャンマー)に到着しました。
年月 1996.2
資料名等 森川万智子「文玉珠 ビルマ戦線 楯師団の『慰安婦』だった私」(有)梨の木舎
内容等
わたしはそのとき十六歳になっていた。〜(中略)〜夕方、歩いて二十分ほどの家に帰る途中、「ちょっとこい」と呼び止められた。日本人の憲兵と、朝鮮人の憲兵と、朝鮮人の刑事だった。わたしは怖くて声も出ない。後をついていった。なんの用かと聞くことなど、とてもできなかった。朝鮮人であるわたしたちにとって、憲兵といったら、この世でいちばん恐ろしい存在だった。〜(中略)〜わたしは十八歳。若かった。「日本軍の食堂に働きに行こうよ。金もうけできるよ。」とわたしを誘いにきたのは、ヒトミとキファの姉妹だった。トアンショウのグンポールで働いていたときの友達で、そのときは近所に住んでいた。〜(中略)〜「だまされてきたんだなあ、かわいそうに。おまえたちは間違ったよ、ここはピー屋(慰安所)なんだ。」娘たちは天地がひっくりかえるほど仰天した。ピー屋が何をするところか、知らない娘もたくさんいる。でも、わたしは少し違った。驚くには驚いたけれど、その瞬間、ああ、やはりそうかと、と妙に納得したのを憶えている。
<姜徳景(カン・ドクキョン)>
【生い立ち・慰安婦となった経緯等】
1929年慶尚南道普州に生まれる。1944年、高等科1年生だった15歳の時、担任教師の日本人の勧めで女子挺身隊として富山県の不二越工作機械工場で働くことになる。仕事の辛さとひもじさに耐えられなくなり友達と共に脱走。憲兵に捕まって強姦され、松代の慰安所に送られた。
1997.2.2死去。
【考察】
本来、日本国内にないはずの慰安所が出てくるのは疑問です。日本国内や朝鮮半島・台湾そして満州といった、日本が実質統治していた地域の都市部に日本軍の慰安所などないはずなのです。あったとすれば売春宿でしょう。
しかし、一方で、証言の内容は真に迫っていると思います。
同女は工場を脱走した時にコバヤシという憲兵に捕まっているのですが、慰安所に入れられた後の会話で
「そして私が不二越にいたことに気づいたようで『おまえは工場にいたのか?』と聞かれました」(証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち)
とあり、連行した時には当該憲兵が、同女が挺身隊であったことを知らなかったことが分かります。そもそも、この憲兵の勘違いが原因ではないでしょうか(例えば、売春宿からの脱走者と思った等)。
また、証言には、憲兵に捕まった時の同女と憲兵とのやりとりが無く、何故、この憲兵が同女を慰安所へ送ろうと考えたのかは不明です。あくまで推測ですが、同女が工場に送り返されたくなかったが為に、自分がどこから来たのかを答えなかったことがこの憲兵の勘違いの一因になっているのではないでしょうか。
【結論】
慰安所に入れられたという証言は信じることができませんが、その他の証言は具体的で信憑性があると思われます。(単に売春宿に入れられた可能性あり)
しかし、工場で働くはずが慰安所に入れられたと言う話でもなく、「従軍慰安婦」とは異なる個別の問題でしょう。
【資料等】
年月 1993.10
資料名等 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編集
内容等
「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」明石書店 工場からいくらも離れていない所でうろうろ迷っているうちに軍人に捕まってしまいました。友達とは死んでも手を離さないで行こうと言っていたのに、捕まってトラックに乗ってみると私だけでした。〜(中略)〜再び車に乗ってある部隊に到着しました。〜(中略)〜そこでは日に一〇人くらいの相手をさせられました。昼間来る軍人はなく、土曜日の午後からたくさんやって来ました。
年月 2002.7.30
資料名等 ナヌムの家歴史館後援会「ナヌムの家歴史館ハンドブック」柏書房
内容等
15歳になった1944年、高等科1年生だったハルモニは日本人の担任教師の勧めに従って「女子勤労挺身隊」として日本に行くことになった。ハルモニは富山県の不二越工作機械工場に到着し、飛行機の部品を削る仕事をした。
仕事も辛かったが何よりひもじさに耐えられなかったハルモニは、友だちと一緒に逃亡した。しかしたちまち軍人に捕まえられ、このときから日本軍「慰安婦」生活がはじまった。(管理人注:ハルモニ・・・韓国語でおばあさんという意味)
年月 2006.6
資料名等 西野瑠美子・金富子編集「証言 未来への記憶 アジア『慰安婦』証言集T」
内容等
工場からいくらも離れていない所でうろうろ迷っているうちに軍人に捕まってしまいました。友達とは死んでも手を離さないで行こうと言っていたのに、捕まってトラックに乗ってみると私だけでした。〜(中略)〜再び車に乗ってある部隊に到着しました。〜(中略)〜そこでは日に一〇人くらいの相手をさせられました。昼間来る軍人はなく、土曜日の午後からたくさんやって来ました。(※管理人注:同書の内容は「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」を転載したもので内容は同じ)
<尹頭理(ユン・ドウリ)>
【生い立ち・慰安婦となった経緯等】
1928年釜山生まれ。建築業を営んでいた父が亡くなった後、家運が傾く。1942年、15歳の時、ゴム工場に働きに行くがその後、軍服工場に移った。1943年、その工場の日本人に下心を持たれたので職場を変えることになり、手袋工場を見に行った帰りに釜山鎮(プサンヂン)駅の前で巡査に呼び止められ、そのまま釜山影島(ヨンド)の第一慰安所に連行されて慰安婦を強いられる。
【考察】
姜徳景(カン・ドクキョン)さんのところで述べた通り、韓国には慰安所などないはずです。しかも、証言では「その一帯には雲雀町という日本人の遊郭街がありましたが、影島橋を渡り左に五百メートルほど離れた場所に位置していました。〜(中略)〜山下という日本人軍属が玄関に座っていて、軍人たちが来れば空いた部屋に入れと部屋を決めるのでした。〜(中略)〜また敷地内には交代で見張りに立つ軍人が三、四人いました。」とあります。わざわざ遊郭街の近くに慰安所を設置し、受付1人と見張り役3、4人の軍人がいたことになっています。
そんなところに慰安所を設置する意味があるとは思えませんし、また、4、5人の軍人を貼り付けるほど日本の軍人も暇ではなかったでしょう。
しかも、同女は、慰安所に入れられる前、一旦、船で釜山から日本に連行されています。そこでやったことは、「君が代」を歌い「皇国臣民の誓詞」を唱えて班分けをしただけ。そして、再び船で釜山に戻ってから慰安所に入れられています。意味不明な行動です。日本軍の強制連行を印象付けたいが為の挿入でしょうか?
【結論】
この方の証言に信憑性は薄いと言わざるを得ません。
経緯は不明ですが、単に遊郭街の売春宿で働いていただけでしょう。
【資料等】
年月 1993.10
資料名等 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編集
内容等
「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」明石書店 夕方五時か六時頃、釜山鎮駅前にある南部警察署を通り過ぎようとすると、歩哨に立っていた巡査が来いと呼ぶのです。私は何もしていないので大丈夫だろうと思って、警察署の中に入って行きました。一九四三年九月初旬のことでした。警察署の中には私のような少女たちが数人いました。〜(中略)〜「いいところに就職させてやるからじっと座っていろ」と言いました。夜の十一時頃になると、軍用トラック一台が来て二人の軍人が私たち全員を乗せてでました。
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