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(回答先: ドキュメンタリー「君が代不起立」 ICU上映会レポート(JANJAN)【抵抗する権利についての説明も】 投稿者 heart 日時 2007 年 2 月 09 日 01:17:21)
混乱と無秩序が生じないよう、効率的にユダヤ人らを強制収容所・絶滅収容所へと「輸送」するための計画を立て、指揮すること、それが彼の仕事だった。
■アイヒマン語録(裁判での発言)
▽強制移送の開始を命じる通達(「私は・・・指令を与えようと思う」との記述あり)に署名したことについて:
・「当然のことですが、私が通達に署名したのは、上官が許可したからです。」
・「私は責任があるとみなされることはできません。なぜなら、命令に従って署名したことでなぜ罰せられることになるのか、分からないからです。」
・「(通達にある「私」という言葉は)公式な官僚的隠語です。しかし、それは私、アイヒマンとは何の関係もありません。私は私的な手紙を書いていたのではなかったのですよ・・・。」
▽検事長に、「死の大いなる護送兵であることは、厄介なことではなかったのですか?」と問われ:
・「私はしょっちゅう、上官に会いに行って、他の仕事を任せてくれるように頼みましたが、無駄でした。」
▽判事に、「あなたは、義務と良心のあいだの葛藤、いわゆる良心の葛藤を覚えることが、まるでなかったのですか?」と問われ:
・「私はそれをむしろ、二つに分裂された状態、一種の二重化と呼びたい。一方から他方へと、またその逆にも、区別なく人を移行させるような、自覚的に生きられた二重化です」
▽判事「個人的な意識を放棄しなければならなかったわけですか?」:
・「そういうことです。なぜなら、個人的意識を調節したり、それを自ら組織立てたりできなかったのですから」
・「単純にこう言うことも可能だったでしょう。『規則を守ってプレーするのはもう止めだ』と。でも、その場合、何が起こっていたかわかりません。」
▽判事「もっと市民的な勇気を持っていたら、全ては別様に進行しただろう、とは思いませんか?」:
・「もちろん思いますよ。市民的な勇気が序列的に構造化されていればの話ですが。」
▽判事「とするなら、抗いがたい運命ではなかったわけですね?」:
・「戦争だったのだし、物事は動揺していて、各々がこう考えていた。『抵抗しても無駄だ、大海の一滴のようなものだ。一体、何になろう?意味のないことで、善にも悪にもならない・・・』」
▽判事「当時は、権威への服従を拒否することからくる諸帰結を受け入れるのは、誰にとっても極めて困難なことだった」:
・「あのときは、私たちは国家が犯罪を合法化している時代に生きていたのです。その責任は、命令を与えた者にあったのです。」
★「最後にこう明言しておきたい。私は当時からすでに、個人的に、この暴力的な解決は正当化されるものではない、と思っていた、と。恐るべき行為だと考えていた。しかし、とても悔やまれることに、忠誠の誓いに縛られていたので、私は自分の課で、輸送の組織の問題に携わらなければならなかった。その誓いから解放されていなかったのです・・・。ですから、私は心の底では責任があるとは感じていません。あらゆる責任から免除されていると感じていました。肉体的な抹殺の現実と何の関係もなくて、本当にほっとしていました。私は担当を命じられた仕事で、非常に忙しかった。私は課におけるオフィスワークに合っていたし、命令に従って義務を果たした。そして、義務を果たさなかったと非難されたことは一度もない。今日でもなお、私はそれを言っておかねばなりません。」
(参考文献:『不服従を讃えて〜「スペシャリスト」アイヒマンと現代〜』2000年、ロニー・ブローマン/エイアル・シヴァン著、高橋哲哉/堀潤之訳)
★アドルフ・アイヒマンの裁判で裁かれていたものとは:
「法律や権威への無反省な服従を礼賛する態度そのもの」
←「もし義務がもっぱら服従の義務を意味するなら、命令を遂行したにすぎないアイヒマンは無罪である。しかし、もし彼が有罪であるならば、われわれは次のように考えるべきなのである。すなわち、人間は、自分の道徳観ないし正義観に反するような行為については、たとえそれが国家によって命令されたものであっても、服従を拒否しそれを遂行しないよう道徳的に義務づけられている時点がある、と考えるべきなのである。これは最もドラスティックな形をとった、市民的抵抗の消極的正当化である」
(参考:G・ウッドコック『市民的抵抗』山崎時彦訳、お茶の水書房)
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