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□【Jリーグトップを直撃】「天皇杯で大学チームに負け、“死ね”という大量FAXが…」 [日刊ゲンダイ]
http://gendai.net/?m=view&g=sports&c=040&no=25627
【Jリーグトップを直撃】
【サッカー】
2007年5月12日 掲載
「天皇杯で大学チームに負け、“死ね”という大量FAXが…」
異色のJクラブ・トップだ。京都出身の溝畑宏社長(46)は、85年に東大法学部を卒業して自治省に入り、90年大分県庁へ出向。そこで94年から「大分トリニータ(当時トリニティ)」と関わるようになった。年間予算6000万円で県リーグからスタート。地域リーグ、JFLを経て99年にJ2に参画。03年には念願のJ1昇格を果たした。中央の高級官僚が、地方のJクラブとどう向き合ったのか――。直撃した。
☆ ☆ ☆
――なぜ大分でサッカーだったのですか。
「霞が関で地方の財政制度を作っていましたが、大分で“地元の人が誇りと勇気と活力を持つには何がいいのか”を考えた時、それが地域密着をうたったJリーグでした。もっとも『身の丈に合わん』『大風呂敷を広げるな』と散々でした。観客3人の試合もあって、よく『潰してしまえ』と言われました」
――都市圏と違ってスポンサー集めなども大変だったと思います。
「地べたを這いながら1日、40件も50件も回りました。今では協賛700社余り。スポンサー数はJで一番多いです」
――06年3月で自治省を退職しました。
「キャリアアップの手段としてやっている。そう見る人もいた。大分のために体を張っているのになぜ、と思い、退路を断つために辞めました」
――「サッカーから手を引こう」と思ったことはありませんか。
「97年にJFLで負け続け、大きなスポンサーにも去られ、12月には天皇杯で大学チームに負けた。客席のサポーターから石を投げられ、自宅に帰ってみたら《死ね》と書かれた大量のファクスが届いていた。あまりの惨状に試合観戦に招いた両親から『辞めた方がいい』と言われました」
――苦境を切り抜ける手立てはあったのですか。
「成功をイメージしたイラストです。寝室の天井に満員のスタジアムでチームがJ1で戦っている絵を張り、毎日、“おれはこういう夢を持っているんや”と言い聞かせたのです。成功のイメージを思い浮かべ、必ず実現させるんや、と自分を奮い立たせました」
――昨季は8位とまずまずの成績。その甲斐もあってFW高松、松橋、MF梅崎、GK西川とクラブにとって初の日本代表選手を輩出しました。
「どんなに“見に来て欲しい”と思っても、これまでの代表監督は、大分の試合をあまり見てくれなかった。でも、オシム監督は違います。地方の小クラブでもすべてフラットに、ニュートラルに見てくれる。地方クラブでも頑張れば代表になれる、とJリーガーは頑張れる。オシム体制になって“平等”になった。非常に大きいことです」
溝畑社長はかつて、スポンサー接待の席で裸踊りをしたこともある。
「最近『クラブの品位が損なわれる』と言われるので脱がないようにしています」と豪快に笑う。
およそ「高級官僚出身者」らしからぬ溝畑社長の目標はズバリ、「世界に通用するクラブ」だ。