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【非処罰プロジェクト:死刑廃止を超えて3−B】
http://www.asyura2.com/07/kenpo2/msg/186.html
投稿者 如往 日時 2008 年 1 月 28 日 04:26:16: yYpAQC0AqSUqI
 

(回答先: 【非処罰プロジェクト:死刑廃止を超えて3−A(下)】 投稿者 如往 日時 2008 年 1 月 28 日 04:17:15)

2007-01-13
第三部 非処罰の文化構想(一)
☆前回記事
【1】死刑廃止論の射程
第三部は、死刑廃止論という土俵を越えて、刑罰一般について、果たしてそれが犯罪に対する唯一絶対の対応なのか、そうでないとしたらどのような対応が考えられるのかということを執拗に考察していきたいと思います。本部は、第一部と第二部が主として捧げられた死刑囚や死刑廃止運動の関係者に加えて、あらゆる死刑廃止論者、そして場合によっては犯罪被害者やその家族といった立場に置かれた人たちにも向けられます。
議論の出発点は、第一部でも紹介した次のヴァルター・ベンヤミンの言葉から始まります。注1
「死刑批判者たちは、死刑への論難が刑罰の量や個々の法規をでなく、法そのものを根源から攻撃するものだということを、おそらく証明はできずに、どころか、たぶん感じる気さえもなしに、感じていた」
ちなみに、彼は「犯罪者を殺すことは、倫理的でありうる―が、そのことの正当化は、けっして倫理的ではない」という箴言も残しています。注2 死刑が「倫理的」であり得ることを認めつつ、それを「正当化」することは「倫理的」であり得ないことを認める。この微妙な論理については各自の評価に委ねますが、その同じ人が死刑廃止論の波及する範囲の遠大さを指摘したのが上掲の言述でした。ベンヤミン自身は明示的な死刑廃止論者ではなかったのですが、それは一つに、このような死刑廃止論の恐るべき波及範囲を覚知していたからではないでしょうか。
ただ、ベンヤミンは「死刑への論難が・・・・・法そのものを根源から攻撃するものだ」と法一般にまで拡大していますが、本書の主題に鑑みてさしあたりは刑罰法の問題に限定しておきたいと思います。ですので、私なりにベンヤミンの言葉を言い換えますと、次のようになるでしょう。
「死刑廃止論とは、刑罰の量ではなく、刑罰そのものを審判に付することである」
実際のところ、死刑廃止論者の大半は「刑罰には反対しないが、死刑だけは反対である」という立場であると思われます。その前提がいよいよ拡大してきたのが、昨今の終身刑論議であると理解すれば頷けます。終身刑論者にとりましては、死刑だけが問題なのですから、終身刑は(たとえ消極的であっても)受容できるわけです。注3 かれらは、ベンヤミン言うところの無自覚な死刑論難者、自分の主張の射程範囲が認識できていない死刑廃止論者なのでしょうか。
かれらの名誉のために弁護すれば、かれらは必ずしも無自覚なのではなくて、犯罪に対しては法的反動としての制裁を科すべしという応報刑論を信奉している点で死刑存置論者の「同志」でもあるのです。であればこそ、終身刑を受容できない「頭の硬い?死刑廃止論者」は放っておいて、妥協できる死刑存置論者との連携を目指しているのです。残念ながらそれはほとんど成功をおさめていないどころか、ますますあざ笑うかのように死刑判決の急増と機械的な毎年執行とが打ち続くようですが、これはきっと一時的現象に過ぎず、いずれ道が開けるのかしれません。
ともあれ、大半の死刑廃止論者は、刑罰という制度の正当性を疑わないために、いわば弛緩した応報刑論者となっている。それで、「正義感情」溢れる死刑存置論者からは「凶悪犯罪」に対して弱腰で、被害者より「犯罪者」を擁護する「人権屋」であるとみなされているのです。それは応報刑論内部の裏切りであると映るのです。注4 応報を正当とするならば、犯罪には厳罰で応じなければならないのです。終身刑代替論がなぜ進まないかといえば、比ゆ的に言って、それは金の代わりに銀で我慢しようという議論だからです。ですから、死刑は犯罪対策上の金だという思いを断ち切れない人たちにとっては、なぜ金を捨てて銀で我慢すべきなのか、それがわからないのです。結局、終身刑をもって死刑に代えるという議論は、ボードレールの痛烈な皮肉を借りれば、自己利害のため、つまり死刑だけはなんとしても廃止したいと焦る死刑廃止派の自己利害のためにする議論であるということになってしまうのです。注5
このような袋小路を脱するには、刑罰という前提そのものを疑うことしかありません。犯罪⇒刑罰というこの何千年か続いてきた、ある意味では、地球人共通の法文化形式の廃止を提起することです。ここで直ちに、死刑廃止論者からも「現実的でない」という苦情が出るでしょう。たしかにそうです。現実的ではありません。それは、犯罪⇒刑罰というような非科学的呪文、米国の精神分析家、カール・メニンガーに言わせれば「刑罰という名の犯罪」注6 を当然視する私たちの現実を変革しようという構想、第三部のタイトルでもある「非処罰の文化構想」である以上、非‐現実であることは当然であります。
ただし、ここで言う非‐現実であることは、空想的であることを意味しません。それは具体的で、かつ単に代替的であるにとどまらない新提案を伴います。その提案は私たちが一定の社会条件のもとにやろうとすればできるようなものでなければなりません。それはある種の文化変容を要求することにはなりますが、文化というものを固定してとらえることは文化というこの漢語の構成にも反するでしょう。文化とは「文物が変化する」という構成の語であります。文化とはその性質上変容するものであるのです。自覚的な死刑廃止論は、そのような文化変容を目指すものでなければならないでしょう。
私たちは、犯罪を惹き起こした個人にとっても、またその者に原因を与えた社会にとっても効果的であるような、より科学的な施策を考案すべき時機にあります。そのような施策を本書では「非処罰」という一般的な語で言い表しますが、これは充分説明しなければ犯罪を放置すること(俗に言う「野放し」―何と嫌らしい表現でしょうか)と誤解ないし曲解されかねませんので、次章ではこのことをさらに説明したいと思います。
注1
本書第一部第1章第1節を参照。
注2
「一方通行路」、ヴァルター・ベンヤミン著/野村進編訳『暴力批判論 他十篇 ベンヤミンの仕事1』(岩波文庫)所収183頁。
注3
終身刑論者も、終身刑をベストのものとはみなしていないようである。例えば、終身刑論のイデオローグである菊田幸一も「・・どのような処遇になろうとも、仮釈放のない終身刑が受刑者の再社会化という行刑目的に逆らうことは間違いない」と述べている。同「死刑に代替する終身刑」、『年報・死刑廃止2003』所収55頁参照。
注4
そのような「死刑廃止論弾劾演説」は日本では事欠かないが、最新の力作は長田鬼門『死刑のすすめ―積極的死刑拡大論』(中央公論事業出版)であろう。
注5
本書第一部第1章第2節注3を参照。
注6
カール・メニンガー/内水主計訳『刑罰という名の犯罪』(思索社)。この記念碑的著作は残念ながら絶版となって久しいので、本書で折にふれて引用紹介していこうと思う。私見では、本書はベッカリーアの『犯罪と刑罰』を更新する刑罰革命の古典である。

2007-01-22
第三部 非処罰の文化構想(二)
☆前回記事
【2】非処罰と不処罰
「個人的に、私は暴力犯罪を犯した者をさえ処罰の目的で投獄することの正当性を信じていない。私の非暴力の信条は泥棒や強盗、殺人犯をさえ処罰することを支持しはしないのだ。私は良心に照らし、いかなる者が絞首台へ送られることにも同意できない。」
―マハトマ・ガンジー
本部のタイトルは「非処罰の文化構想」と名づけられています。ここで「非処罰」とは、non-punishmentということでありまして、これは単に、犯罪に対して処罰という手段では応じないということを意味します。すなわち、刑罰制度の廃止を志向するのです。
それに対して、犯罪に対して刑罰制度が存在しながら、犯罪を犯した者が処罰を免れること―それも、単に逃亡したり証拠を隠滅したからではなく、政治的・政策的な考慮から―を「不処罰」と言って区別しておきたいと思います。したがって、ここで言う「不処罰」とは、impunityを意味します。impunityには不正でないものもありますが、基本的には不正とみなされます。
しかし、非処罰はこのような個別的な処罰免除とは異なり、そもそも処罰しないということですから、不正ではありません。もちろんどんな犯罪を犯そうと、俗に言う「お咎めなし」というわけではありません。刑罰に代わってどのような制度を置くかは後に議論しますので、ここではさしあたり犯罪⇒刑罰という公式を捨てる代わりに、犯罪⇒xとブランクのままにしておきます。
さて、このような非処罰と不処罰の例をより具体的に説明してみましょう。まず、不処罰の例から入ります。不処罰には不正なものと不正でないものとがあると述べました。
不正でない不処罰として、日本では天皇に対する不処罰を挙げることができます。これは完全に合法化されたimpunityでありますので、露骨に言えば、天皇が窃盗を犯そうが殺人を犯そうが彼は絶対に訴追も処罰もされないのです。似た例として、多くの諸国で大統領など国家元首の在任中の不処罰が合法化されている場合があります。これらは特定の公職者に対して特権として処罰免除が定められたものであり、しばしばこれが「国家元首の犯罪」を不当に免責する根拠に利用されることもあります。その意味で、不正でない不処罰と不正な不処罰とは連続しています。
これに対して、不正な不処罰の例として、独裁体制のもとで反体制者に対する大量殺戮のような弾圧が発生した場合にそれに関与した警察官や軍人らが何らの刑事訴追もされることなく黙認されることがあります。このような場合、その独裁体制が維持される限り、impunityの状態が続くことが多いのです。ここでは、国家主権自体が特定の政治的な意図から刑罰権の発動を差し控えているのですから、刑罰が国家主権に帰属している限り、impunityの状態は体制変動のような契機がなければ解除されないのです。そこで、このようなケースをimpunityに終わらせないために、今日では国連主導の国際法廷の設置、また国内法による「人道に反する犯罪」の国外犯処罰規定、国際刑事裁判所条約などの法技術的工夫が凝らされるようになってきました。そのため、いくつかのケースでは国家元首級の人物が訴追されたこともありますが、注1 それはまだ例外に留まっています。
次いで、非処罰の例ですが、私の知る限り刑罰制度を全廃した国はまだないようですから、完全な意味での非処罰の例を挙げることはできません。
しかし、「非処罰の文化構想」の片鱗を見せてくれる例として、南アフリカ共和国(以下、南アと略す)の「真実と和解委員会」の試みを挙げることができます。これは、1990年代半ばまで半世紀近くも続いた同国の人種差別的な白人至上主義体制(アパルトヘイト)下で多発した、アパルトヘイトに反対する者に対する治安警察などによる拉致・拷問・暗殺などの深刻な人権侵害犯罪の真相を解明すべく設置された組織で、人権侵害に関与した者が委員会に出頭して真相を十分に話せば、それが政治的動機に基づき、過剰なものでない限りは処罰しないというものです。これはもちろん、完全な刑罰廃止ではなく、一種の条件的訴追免責なのですが、根底には重大な犯罪に関与した者に対しても応報的な処罰を科さないというコンセプトがある点で、米国などの刑事裁判制度で司法取引の手段として普及している訴追免責制度(immunity)とは異なるのです。注2
この制度を巡っては、これを評価する意見と同時に、否定的に見る見解もあります。否定的な見方の典型は殺人者まで免責されるということでは正義が達成されないというもので、これは応報的正義というまさに刑罰制度の根底を成す発想から来るものです。注3注4
正義という観念は普遍的なもので、かつ消費されるものでもあるようです。犯罪を犯したことを自ら認めた者を非処罰とすることには、分配されるべき何かが欠けているという特有のフラストレーションが伴い、これが上述の(ことに不正な)不処罰に接するのと同様な不公平感をもたらすようです。
たしかに、この制度はここで課題化しようとしている一般的な刑罰廃止とは異なり、特定の国家体制の特殊な歴史的・社会的条件下で発生した政治的な犯罪の解明と国民和解を目指した政治的なプロジェクトであることからして、これを一般犯罪の処理という土俵に直ちに移すことは適切でないでしょう。注5
とはいえ、一歩突っ込んで考えれば、ありふれた刑事犯罪であってもそれは決して犯罪を犯した個々人の逸脱ということに留まらず、そこにはその時々における社会的・経済的な条件が背後に介在しているのであって、それを抜きに個人だけを制裁する犯罪処理はまったく不充分かつ無益なものであるのです。このことを、第一部では「死刑の無益性」と定式化して述べたことがあります。注6
また真相の解明という点からしても、人を刑罰に直面させての真相解明には黙秘権の壁があります。たいていの人は自らを厳罰に突き落とすような事実を積極に告白しようとはしません。道義を高調して黙秘権を不当視する見解もあるでしょうが、それはこうした人間に付きまとう本性を軽視した観念論的批判でありましょう。南アの「真実と和解」の制度にも、黙秘を阻止する代わりに処罰を免除するという真相解明の技術的な考慮があるとされています。注7
ただし、「真実と和解」の問題点は、更生というプロセスが欠けていることです。つまり、犯罪に関わったことを告白した人の更生がありません。注8 これもこの制度があくまでも特殊な犯罪の解明を目指す政治的な制度であることの結果でしょう。しかし、そのことが前述のようなフラストレーションを引き起こす要因ともなり得るため、「真実と和解」を直ちにあらゆる犯罪の処理法として普遍化することはできない所以となります。
とはいえ、「真実と和解」という構想はアパルトヘイト時代には世界有数の「死刑大国」であった南アが、アパルトヘイト廃止に伴う民主化過程で死刑を廃止した環境下で現実化したという点において、注9 死刑廃止とも連関していることは注目せざるを得ません。そのうえで、この制度はそのコンセプトを一つの手がかりとしつつも、さらに非処罰の文化を構想するための一里塚ととらえておくべきものでしょう。より一般的な非処罰の可能性を探るために、さらに考察を続けていきたいと思います。
注1
その例として、コソボ紛争での住民虐殺などの罪で国際戦犯法廷に訴追されたユーゴスラビアのミロシェビッチ元大統領と、軍事政権時代の反体制者虐殺に関連し海外(英国)で逮捕されたことを契機に国内法廷に訴追されたチリのピノチェト元大統領の例があるが、いずれも病死により刑事手続きは打ち切られた。
注2
制度の概要については、以下を参照(英文)。
http://en.wikipedia.org/wiki/Truth_and_Reconciliation_Commission
注3
特に、遺族の受け止め方については、以下を参照(英文)。
http://www.csvr.org.za/papers/papkhul.htm
注4
高橋哲哉は、「真実と和解委員会」の基本性格について、「通常の刑事法廷における責任者処罰ではなく、「真実」と引き換えに「恩赦」を与えるという「法外」なアプローチ」と紹介しているが(高橋哲哉「「人道に対する罪」をめぐる「法‐外」な二つの試み」、同『証言のポリティクス』(未来社)所収99頁)、処罰しないことをもって「法外」とみなすこのような規定のしかたの中にも、犯罪に対する法的対応として応報的要素を必須とする発想が込められているように思われる。
注5
ジャック・デリダは、南アで「真実と和解」の試みが可能であった主要な理由として、南アが国民国家として若く、アパルトヘイトが「ポスト・コロニアル」の事象であったため、「こうした問題を扱うにあたって、相応に硬化しているような法的伝統にしばられずにすんだ」ことを指摘している。「相応に硬化しているような法的伝統」とは、ここでは応報的な刑罰制度を想起することができよう。ジャック・デリダ著/林好雄ほか共訳『言葉にのって』(ちくま学芸文庫)192頁参照。
注6
第一部第7章第5節を参照。
注7
前掲注4高橋論文97頁参照。
注8
南アでは、かつて人権侵害犯罪に関わった警察官らが依然として公職に留任していることが少なくないとされ、この点も「真実と和解」アプローチの限界と指摘される。
注9
これについては、第二部第4章第3節参照。

2007-02-04
第三部 非処罰の文化構想(三)
☆前回記事
【3】非処罰への予備的考察
刑罰を科する真の理由は、・・・理に適った「目的」ではなく、苦痛や害悪や損失を加えた者に苦しみを与えるというわけの分からない激情である
―カール・メニンガー
@応報観念との決別―(@):応報の秘密
犯罪に対して刑罰を科さない―。このような、死刑廃止論者も含めて多くの人を驚かすであろう提言をするにあたり、誤解を招かないためにも、幾つかの予備的考察をしておく必要があるでしょう。
まず、いまだおそらく世界の「常識」と言ってよい犯罪⇒刑罰というこの図式との理論的な決別を済ませねばなりません。と宣言するのはたやすいことですが、現代ではむしろ応報観念がかえって活性化されており、交通事故のような過失犯まで含めたあらゆる犯罪の厳罰化が高調される社会情勢もあり、そうした中で応報観念と縁を切るのは、逆風の嵐の中を進んでいくような覚悟を要するところであります。
さて、応報というのは刑罰制度の根底にある一つの観念なのですが、それはいったいどこから来るのでしょうか。米国の精神分析医、カール・メニンガーは端的に「加害者に苦しみを与えるというわけの分からない感情」であると喝破します。注1 ただ、「わけの分からない」というのはその感情が生じる理由がよく分からないということであり、実質は復讐と報復の感情でありましょう。
ここで復讐感情とは、犯罪によって現実に被害を受けた人(被害者)やその家族といった犯罪被害の当事者に生じる反作用的感情です。それに対して報復感情とは、犯罪の報に接した第三者に生じる憤怒のようなもので、これはより客観化された復讐感情と理解できます。注2 とはいえ、なぜ犯罪被害を受けると、またその報に接するとひとは復讐や報復の感情を持つのか。これは他の動物と対比して興味深いところですが、私は生物学者でないゆえ、この問題を本書で扱うことはできかねます。とにかく、ひとは何故だか知りませんが、犯罪に対して復讐や報復の感情を抱くものである。これはどうやら一つの普遍法則であるようです。
もっとも、一つの法的制度にまで高められた刑罰は、少なくとも、被害者あるいはその家族個人の復讐感情とは切り離されています。刑罰は決して被害者側に代わって復讐を代行するものではない。国家は「必殺仕置き人」ではないのです。一方で、刑罰は先ほど述べた第三者の報復感情を一つのベースにしています。その限りで、客観化された復讐制度だとは言えるでしょう。いわば、犯罪に対する社会全体の名による返報なのです。これが応報という一つの観念の秘密です。注3
もちろん、現代の刑罰はより洗練されていますから、報復としての本性を極力隠そうとします。そこで、犯罪の抑止といった刑罰の「目的」が強調されてきます。しかし、これもメニンガーが喝破していることなのですが、「抑止理論は復讐の仮面として広く用いられている」。注4 犯罪の抑止とは、一つの見せしめとして他の者に実例を示すという論理ですが(一罰百戒)、この見せしめというところに、処罰によって犯罪者を苦しませる報復の形象が密かに生きています。
ただ、第一部でも紹介したカントはこうした刑罰目的論に依拠することを拒否したのですが、それは目的論的思考が応報という刑罰の本質を隠蔽してしまうことを恐れたがためではないかと考えられます。彼はこの応報観念をよりいっそう純化していって、ついに刑罰のための刑罰というまさに観念論にまで飛翔していきました。これも紹介しましたように、彼は強固な死刑存置論者でしたが、彼が死刑に賛成なのは、犯罪抑止でも被害者感情でもなく、ただ単に「人を殺した者は死なねばならない」からでした。なぜ?という問いはカントにとって無益です。それは絶対的な定言命法であるから、根拠の説明は要らないのです。とにかく殺人犯は死刑に処されるべしと決まっているというわけです。でもこれは哲学者一流のレトリカルな煙幕であって、本当の理由はやはりメニンガーの喝破した、わけの分からない加罰感情がベースにあるのです。実はカントも死刑を熱烈に弁護した箇所で、殺人罪の場合には「犯人に対し裁判によって執行される死刑以外に、犯罪と報復が同等になることはない」とうっかり?本音、つまりは報復感情が彼の死刑論の下支えであることを吐露してしまっています。注5
実際、刑罰とは何をするものなのか、一切の煙幕を取り去って考えてみましょう。現代の代表的刑罰(死刑や体刑の存在を前提します)には罰金、自由刑、体刑、死刑の四種があります。このうち、罰金刑とは金を支払わなければ監禁すると脅して金を巻き上げる恐喝行為であり、自由刑とは人を一定の場所へ閉じ込める監禁行為であり、また体刑は人の身体を傷つける傷害行為であり、死刑は言うまでもなく殺人行為であり、このように刑罰として実行される行為とはすべて法律で合法化された「犯罪行為」であるとさえ言えるのです。しかし、国家というものは犯罪行為をも合法化してしまうだけの権威を独占する存在体ですので、ここで「刑罰は犯罪だっ」と叫んだところでどうにもなりません。
むしろ、刑罰とはたしかに「犯罪に対する「犯罪」としての報復」という本性をなお保っているということを、ここから汲み取りたいのです。「犯罪に対する「犯罪」」は正当化されてしまうのです。このような反転論理もまた応報観念に特徴的なものであり、これに関しては、ヘーゲルが一見巧みな説明を与えていました。ヘーゲルは、「生じた不法を侵害するような侵害が犯罪者の意志に向けられ、もって犯罪の存在が破棄されねばならず、この破棄によって法が再建される」とし、「刑罰は犯罪者に痛みとして感じ取られなくてはならず、そうでなければ犯罪者の意志の形が侵害されたことにならない」とも付け加えるのです。注6
ここでは、犯罪=法の否定をさらに否定する、その(弁証法的な)二重否定による法の再建=法確証が刑罰であり、注7 それゆえに「刑罰は犯罪のうちに既に含まれているものを表に出すだけのこと」であり、実質上、犯罪と刑罰とはつながりがあるのであって、両者の違いは形式の差異に過ぎないとさえヘーゲルは言います。注8 これは、先ほど私がより具体的に指摘したとおりです。
こうしたロジックは、ヘーゲルの弁証法的思考法の一つの適用例なのですが、ここにおいて、第一部で課題化した人道ないし生命尊重論の反転として死刑肯定に至る最近の「被害者保護論」などの淵源が、注9 実はこうしたヘーゲル法哲学にも既に見られたことに気づかされます。人道の否定の否定という論理によって、死刑という反人道的な刑罰が「人道」に反転することは、ヘーゲル流の思考法と相通ずるものがあるのです。
このようなロジカルな反転論理は、もっと大雑把には「正義」という言述で正当化されることが多いのですが、この正義とはまた何でしょうか。これもよくわからない標語であり、結局、犯罪行為を刑罰という形式で合法化するときの免罪符です。犯罪を犯した奴らに恐喝(罰金刑)や、監禁(自由刑)、傷害(体刑)、殺人(死刑)で“報いる”ことは“正義”だというわけです。
この正義という独特の観念についても、メニンガーはこれと批判的に対決しようとしています。メニンガーは、「法律家にとって重要な正義という語は、科学者としての医師の絶対に用いず、理解し難い言葉の一つである」としつつ、注10 「正義という観念は、極めて漠然とし、適用されるたびに甚だしく歪められ、偽善に満ち、甚だ当を得ないものなので、犯罪の解決には役立たず、むしろ、逆の結果、不正・・・・・を招く」とまで言います。注11 結局、メニンガーによれば正義とは「人を傷つける何ものかであり、掟を破った者の裸の背に振り下ろされる鞭」に過ぎません。注12 いわば、犯罪に対する報復としての「犯罪」を正当化して、応報としての刑罰にまで昇華させる道具となるのが、この正義という「鞭」でありましょう。
私たちが日頃当然視する応報的正義とは、このようなものなのです。とはいえ、このような応報観念をただ単に告発することには余り意味がありません。私たちは応報というこの古来の普遍的な観念に果たしてきっぱり決別することができるかどうかが問題でした。この点に関しては非常に悲観的な向きが多いと思います。それはなぜか。これにはいくつか抜き差しならぬ理由があるようであります。その点を次に考察していきます。
注1
カール・メニンガー著/内水主計訳『刑罰という名の犯罪』(思索社)152頁。
注2
辞書的には、復讐と報復はほぼ同義であるが、本文では行論上の必要から復讐と報復とを区別しておいた。
注3
中山千夏は、死刑廃止を語る文脈で「事件とも関わりがない、裁判とも関わりがない、執行とも関わりがない、といういちばん遠い第三者だけがすっきりする。死刑制度とはそういうものです。歴史的に考えても、第三者がすっきりするために、見せしめ的に行われてきたものだと思います。」と指摘する。
http://homepage2.nifty.com/shihai/message/message_nakayama.html
ただ、このことは死刑制度のみならず、応報的に科される刑罰すべてに妥当することである。少なくとも、死刑だけを他の刑罰から切り離してこの論理で排除することはできない。
注4
前掲注1文献281頁。
注5
坂部恵・有福孝岳・牧野英二編『カント全集11巻』(岩波書店)180頁。
注6
ヘーゲル著/長谷川宏『法哲学講義』(作品社)195頁参照。
注7
ヘーゲル『法哲学綱要』第100節も参照。
注8
前掲注7文献193頁参照。
注9
第一部第5章を参照。
注10
前掲注1文献133頁。
注11
同上26頁。
注12
同上27頁。

2007-02-15
第三部 非処罰の文化構想(四)
☆前回記事
【3】非処罰への予備的考察
@応報観念との決別―(A):苦痛の平等
応報観念との決別が難しいことには、大きな理由があると申しました。その最も素朴かつ無視できないものはおそらく、犯罪により人に苦痛を与えた者が何らの苦痛も受けずに安楽に過ごすのは不公平ということではないかと思われます。これは被害者側の立場からする場合にとりわけ強く感じられる不公平感でしょうが、殺人のように取り返しのつかない結果を招いた場合には大変深刻です。人を殺した者がその後も生き続けることは許せない・・・という思いに駆られる人は少なくないでしょう。このことがまた、死刑を支える大きな土壌を成すのではないかとも思われます。
実は、人間社会で普遍的に見られる復讐の根底にもこうした不公平感があります。やられたらやり返せ・・・という復讐の論理の中には、やられっ放しでは不公平という発想が隠されているはずです。痛い目にあわせた相手も痛い目にあわせて「おあいこ」というわけです。全く素朴ではありますが、それだからこそこれは普遍的に共有された一つの感覚なのです。
このことは、「交換の正義」という形でより理論的に説明することも可能です。実際、刑罰とは他人を加害した者への害の報酬でもあります。死刑であれば、殺人(それだけには限りませんが)のような重大犯罪を犯した者の生命を奪うことによる苦痛の報酬です。注1
苦痛の報酬はまた平等性の回復でもあります。人を殺した者は自らも殺されることによって平等性が回復されるとみなされるのです。古典的な同害報復原理も、単なる復讐を超えてこうした平等性の回復という視点から捉え返すことができます。
そうすると、刑罰を廃止することによって、こうした苦痛の平等性を損なうことになりはしないかということが懸念されます。人を殺してもそれゆえに殺されることは決してないのはもちろん、処罰ということがおよそない・・・・。このことには耐えられないという異論は世界中であり得ます。それでは「正義」が達成できないという反論が鳴り響くでしょう。しかしながら、前回も問いましたが、「正義」とは何なのでしょうか。おそらく、この分脈においては「平等」ということになるのでしょう。加害者には平等に苦痛を与えよというわけです。
しかしながら、完全に平等な苦痛というものはあり得るのでしょうか。完全な同害報復はあり得るのでしょうか。再びカントに登場いただくと、人を殺した者は死なねばならないという命題は比較的わかりやすい苦痛の平等であるように見えます。
しかし、カントはこれに重要な制約を課すのでした。カントは「・・死刑は、処刑される人格における人間性に残忍となりかねない方法で行われてはならない」とします。注2 これはカント哲学の大きなモットーである「人格の尊厳」という原理から来る制約です。同害報復を正義としつつ、このような条件を付すところがカント理論のアポリアであり、かつ他の凡庸な死刑論と一線を画する点でもありましょう。カントは死刑執行方法の問題を具体的には論じてはいませんが、上記の条件を厳密に解すると、「人格の尊厳」を侵害しない死刑執行方法などは存在しないという結論になろうという指摘もあります。注3
ただ、死刑執行方法にこのような制約を一切課さないとして、完全な平等性を担保し得る死刑執行方法はあるでしょうか。ある殺人事件の論告で死刑を求刑した検察官が「被告人は自らが為したのと同じ方法(刺殺)で処刑されるがよい」と言い放ったことがあります。これも興味深いご意見ではあるのですが、例えば被害者を50箇所刺して殺したので、その犯人も50箇所刺して処刑するとして、刺した部位まで完全になぞって殺人被害者が感じたであろう苦痛と同じ苦痛を処刑において再現することは不可能でしょう。
こうして完全に交換的な応報処罰ということは実現不能でありそうなのですが、この点は、妥協できます。ヘーゲルは、刑罰における平等性は、特殊的なものではなく、一般的な価値の平等性で足りるとします。ですから、例えば、窃盗犯を懲役刑に処すのも、監獄に監禁することは犯人が為したこと、つまり他人の財物を盗むこととは異なるが、懲役刑は窃盗行為と価値的に釣り合っているからそれでよいとするのです。注4注5 一方で、刑罰は苦痛を感じさせるものでなければならないので、殺人罪でも例えば、「人生がつまらないといった厭世気分から、とくに、宗教的観点からして、死の準備をし、永遠の浄福を獲得できる気分に身を置くだけの時間がある、と信じたがゆえに殺人を犯した」というような場合には犯人にとって死刑は苦痛と感じられないから死刑を懲役刑に代えるのがよいとし、カントの絶対的死刑(mandatory death penalty)との差異を見せます。注6 これは実例もあり、後に課題化する「死刑願望者」の場合のことを言っているのです。死刑願望者を死刑に処することの無益さをヘーゲルは彼なりの仕方で指摘していたのです。
それにしても、こうした場合、窃盗や殺人と懲役刑とは果たして苦痛が完全とは言わないまでも、本当に釣り合っているのでしょうか。多くの場合、刑罰として与えられる苦痛は自らが犯した犯罪がもたらした苦痛より過大になっています。例えば、他人の住居に侵入して1万円を盗んで懲役刑になった者の味わう苦痛は、彼に1万円を盗まれた被害者の苦痛より大きいのではないでしょうか。一方で、殺人犯を懲役刑に処することは、(ヘーゲルが指摘した上例のような場合も含めて)カント的な観点からは全く釣り合わず、不平等と感じられるでしょう。
とはいえ、今日では、刑罰の大部分は罰金刑であり、次が懲役刑です。同害報復原理は今日の刑法典からは退いています。そして、犯罪行為の価値が貨幣と拘禁年数という数値で考量されているわけです。それにしても、例えば、ある犯罪行為の罪責が罰金何円、あるいは懲役何年という形で平等に評価できるものでしょうか。現在では一般に「量刑相場」があり、裁判所の永年の慣習で蓄積されてきた量刑の規準が機能しているとされますが、それには根拠はあるのでしょうか。あの事件は懲役5年でこの事件は20年であるというように(もっと極端には、あの事件は懲役15年でこの事件は16年であるなど!)何を規準に決まるのか。個々の判決に対してしばしば刑が軽すぎるあるいは重すぎるという「量刑不当」を理由に当事者が上訴を申し立てますが、この場合は過去の判例に照らして軽い、重いと主張しているわけです。一方、しばしばある種の「重大事件」の判決に対して社会的に巻き起こる「刑が軽すぎる」といった不満は何を根拠にしているのだろうか。実際上明確な根拠などないのではないでしょうか。ただ、何となく、あれだけのことをした「悪い奴」にはもっと重い刑を食らわすべきだという否定的価値評価にすぎないのです。
ここまできますと、また別の問題が出てきます。つまり、刑罰には必ずしも苦痛の平等だけでは説明のつかない要素があるようです。それは、先ほど触れたように、「悪い奴」への否定的価値評価というもので、ここではもはや苦痛の平等性などは脇に置かれ、「とにかく奴を処罰せよ」という一つの叫び声となってくるのです。この件が次なる主題です。
注1
ニーチェは、「損害と苦痛の等値という思想」について、その起源を「債権者と債務者の間の契約関係にある」とみて、「債権者は債務者に「刑罰」を加えることによって、一種の「主人権」に参与する」とも指摘している。これも交換の正義を言い表したものである。ニーチェ著/木場深定訳『道徳の系譜』所収第二論文「「負い目」・「良心の疚しさ」・その他」72頁以下(岩波文庫)。
注2
坂部恵・有福孝岳・牧野英二編『カント全集11巻』(岩波書店)180‐181頁参照。
注3
J・デリダ、E・ルディネスコ/藤本一勇、金澤忠信訳『来たるべき世界のために』第8章「死刑」219頁参照(デリダ発言)。ただし、カントは死刑執行方法について具体的に論じてはいないので、人格の尊厳を害しない執行方法があるともないとも言えないであろう。
注4
ヘーゲル著/長谷川宏『法哲学講義』(作品社)202頁参照。
注5
ちなみに、カントは窃盗犯を懲役刑に処することがなお同害報復に反しないことを説明するのに、他人の所有を不確実にした代わりに自らの所有も不確実にされるが、それでも生きていくために国家が養う見返りとして懲役を提供して「奴隷の状態に身を置く」のだとしている。前掲注2文献180頁参照。
注6
ヘーゲル著/長谷川宏『法哲学講義』(作品社)196頁参照。

2007-02-25
第三部 非処罰の文化構想(五)
☆前回記事
【3】非処罰への予備的考察
@応報観念との決別―(B):犯罪への欲求
「・・・・社会が密かに犯罪を欲し、犯罪を必要とし、現行制度の犯罪を扱う方法が悪いにもかかわらず、それから、一定の満足を得ている・・・・」
―カール・メニンガー
再び、メニンガーに登場してもらいます。メニンガーは刑罰制度変革に対する社会の抵抗がなぜ強いのかを、犯罪に対する社会の欲求という視点から説明します。つまり、私たちは犯罪を恐怖ないし嫌悪しながら、他方では犯罪の発生を欲してもいるというのです。ばかな・・・という声が聞こえます。いったい、「犯罪者」以外の誰が犯罪の発生など欲求しているのだ、むしろ我々は犯罪の撲滅をこそ欲しているのだ、等々。
フロイトが創始した精神分析は人間の無意識という画期的な領域を開拓しました。ですから、精神分析医であるメニンガーもやはり、無意識のレベルを問題にしているのです。メニンガーは「置き換え(displacement)」という心理的メカニズムをわかりやすく説いています。「犯罪と刑罰という儀式は生活の一部なのだ。私たちは、驚嘆し、代わりに楽しみ、あれこれ考えて議論し、おおっぴらに慨嘆するために犯罪を必要としている。私たちは、自分が犯人になり、密かに羨み、したたかに罰するために犯罪人を必要とする。犯罪人は、拒否され、投影された私たちの第二の自我、つまりもう一人の「悪い」自分なのだ。彼らは、私たちに代わって、私たちのしたいと思う禁じられた不合理なことをするのである。そして、かつての贖罪の山羊のように、私たちの代わりに罪と罰、「私たちすべての罪」を背負うのである。」注1
これはまた、哲学の立場から、人間の破壊や殺戮本能に対する防波堤として刑罰が創設されたと見るニーチェの洞察とも一致するかのようです。ニーチェは「国家的体制が古い自由の諸本能から自己を防衛するために築いたあの恐るべき防堡―わけても刑罰がこの防堡の一つだ―は、粗野で自由で漂泊的な人間のあの諸本能に悉く廻れ右をさせ、それらを人間自身の方へ向かわせた。敵意・残忍、迫害や襲撃や変革や破壊の悦び、―これらの本能がすべてその所有者の方へ向きを変えること、これこそ疚しさの起源である」と言っております。彼は、人間を「自分の檻の格子に身をぶつけて傷を負う動物」とも評しています。注2 ニーチェの「良心の疚しさ(bad conscience)」は、人間の内面のかなり意識的なとらえ方をしていますが、これは必ずしも意識的なものではなく、諸本能を抑圧された人間がそれを一部とはいえ犯罪として発揮した他の人間に対する刑罰による応報として矛先を向けるような、精神分析で議論される置き換えとして現象する無意識的要素ではないかと思います。注3
私たちは、「凶悪犯罪」が発生したとメディアによって知らされると、しばしば一種のパニックを起こします。悪い奴を罰せよという叫びが起こります。こういうメディア主導のモラル・パニックがマス・メディアの効果的な扇情報道によって波状的に増幅される事態が近年続いています。
この現象をどう見るかは一つの問題点ですが、上述のように見るならば、このパニックはしばしば表層的にとらえられるように、「社会正義」からの義人的行動や一時的な社会不安の表れなどではなくして、大衆の無意識に潜む置き換えの作動であるということになるでしょう。また、ニーチェならば良心の疚しさの表れであると言うでしょう。ここでは、もはや苦痛の平等などは脇に追いやられます。それよりも、とにかく奴を早急に処罰せよという叫びが沸き起こります。このようなモラル・パニック現象が近年の日本ほど蔓延しているところもないでしょう。死刑要求も含む「厳罰署名運動」が社会現象になっています。これは無意識の置き換えが意識的な政治的行動として発現したものとも言えます。注4
このような運動の渦において厳罰を叫ぶ大衆の頭の中では、自分自身が「加害者」側に回る場合のことは完全に考慮の外に置かれてしまうのですが、これはうっかり忘れているのではなく、むしろ自身の潜在的加害者性を現実の加害者と目される者(マス・メディアが犯人であると指名する者)に投影・転嫁しているものと見れば説明がつきます。つまり、相手に投影された自己像に憎悪・恐怖しているのです。であればこそ、自己を常に被害者側に置き、自らを潜在的被害者とだけ思い込もうとするのです。
ただ、問題はこれだけではないように思えます。ある論者は、モラル・パニックの要因を労働者階級ないし下層中流階級の反動的意識に見ています。つまり、上昇志向の強いかれらは、社会的逸脱者に対する共感が薄く、失敗は個人の悪徳が原因であるとみなしがちで、底辺者の存在はかれらの成功を掘り崩す脅威であるというのです。注5 これもまた、ニーチェが善悪の価値判断の根源を探るうえで、「外のもの」、「他のもの」、「自己でないもの」を頭から否定する奴隷道徳、すなわち「反感」の本性と見ていたものともつながるでしょう。注6
ニーチェも端的に言うとおり、人間は「本来価値を査定する動物」ですが、注7 犯罪者はとりわけ劣等視され、非人間として扱われやすいのです。そして、そのような意識はより下層の階級に属する者ほど強い可能性がある。現今の日本社会でしばしば言われる「格差社会化」の中で、生活の危機がまだ比較的に迫っていない中流程度の者がより下層に属することが少なくない「落ちぶれた」犯罪者への階級的偏見を募らせているという面も否定できないでしょう。
ここでは、自分自身の(相対的な)優越的地位を確認する意味でも、下層の劣等者の存在が必要とされます。「人間の屑」として厳罰に苦しむべき犯罪者、とりわけ大衆が見ることもない死刑台に吊るされるべき犯罪者の存在が、どうしても自己の優越性を確証するうえで必要である。それは同時に、落ちぶれた自分自身の姿でもあり、そうした失墜に対する恐怖・嫌悪感も同時に表現されているのです。ここにもまた置き換えが作動しています。このような領域にはリベラルな知識人が好む「寛容の精神」など入り込む余地はないのです。
前節で議論した苦痛の平等は、主として被害者側が感じるであろうかなり意識化された応報観念でありましたが、この置き換えの問題は大衆の無意識が作動させる応報であるだけに非常に厄介です。無意識レベルの問題は意識化することが難しいため、いっそう解決は困難なのです。単に、意識的な「寛容の精神」を厳かに説くだけでは済みません。メニンガーは、「犯罪人に対する応報的な態度は自己破壊的であり、それ自身犯罪的である」と断じました。注8 結局、「寛容の精神」によって置き換えを消滅させることが刑罰廃止につながるのではなく、逆に、刑罰を廃止してこうした置き換えを別の形で処理する以外に方法はないのではないでしょうか。
注1
冒頭引用部も含めて、カール・メニンガー著/内水主計訳『刑罰という名の犯罪』(思索社)207頁以下参照。
注2
前節注1文献99頁。
注3
生命の尊重をひたすら高調する死刑廃止論がしばしば無力をさらけ出すのも、生命破壊の本能をそのようにして抑制することがまさに、刑罰制度創設の要因となっているからにほかならない。
注4
少年法、交通事故厳罰から、被害者、とりわけ遺族の訴訟参加まで近年の「被害者アイデンティティ」を重視した立法のすべてが、こうした大衆の厳罰要求を下支えとして継起している。
注5
小野坂弘「<死刑がある社会>と<死刑がない社会>」、法学セミナー増刊『死刑の現在』(日本評論社)所収48頁の紹介参照。そこではまた、「人々を駆り立てて絞首台と鞭打ち場、そしてその他の処罰・抑圧機関を呼び出すのは、社会正義・秩序の切望ではない。それは、失敗と悪いことをする人間にちょっとでも同情して譲歩することは、その結果として、自分達の実績についての自分達の寄与をおとしめることを意味することを知っているからである。そして、それは彼らがしようとする気のない降伏なのである」という引用もされている。
注6
ニーチェ著/木場深定訳『道徳の系譜』(岩波文庫)所収第一論文「「善と悪」・「よいとわるい」」37頁参照。
注7
注2文献80頁参照。
注8
注1文献210頁参照。

2007-03-11
第三部 非処罰の文化構想(六)
☆前回記事
【3】非処罰への予備的考察
@応報観念との決別―(C):自己処罰欲求
前節では社会の処罰欲求の問題を探って見ましたが、ここで今度は犯罪者自身の自己処罰欲求という難問を考えてみます。この問題を巡っては精神分析医の間でも議論が分かれているようです。
カール・メニンガーは精神分析医として、「刑罰という名の犯罪」を告発して刑罰廃止論を唱えましたが、同じ精神分析医でフランスのジャン・ラプランシュという人は、人間の自己処罰欲求という視座から刑罰制度の維持を要請し、むしろ刑罰を廃止して罪を犯した者を「精神科的な措置」に委ねることをこそ、「人間性剥奪の道」と断じています。注1
ラプランシュは、死刑廃止論を前提としつつも、その廃止の根拠を「死刑の有用性(の否定)」に求めるすべての見解を批判し、それは「死刑を隠れ蓑にして、刑罰の概念に逆らう」ものだと断じます。彼は、ヘーゲルの「犯罪者に加えられる侵害は・・・・彼の法であり権利である。刑罰が犯罪者自身の法と権利を含むものであるとみなされるとき、犯罪者は理性的存在者として尊敬されている。」というテーゼに注意を促しつつ、これを私たちすべてに備わっている罪責感の問題に結びつけ、罪責感は精神分析が教える象徴的関係、特に贖罪―修復―ゆるしという三項関係のシステムによってしか解決し得ないと言います。そして、「とにかく処刑してくれという犯罪者の要求のうちで唸り声を上げているのは、自己に当然支払われるべきものとしての懲罰への要求であり、「欲求」なのである。」と、自己処罰欲求を強調するのです。注2
たしかに、「死刑になりたい」という自己処罰欲求を示した犯罪者は存在します。また、事後的ではあれ、死刑を自ら受け入れ死刑廃止論には与しない死刑囚も存在しています。こうした事例を見ると、処罰とは前回指摘したような社会の処罰欲求のみならず、犯罪を犯す者自身からの自己処罰への欲求にも支えられているということが解るわけです。すると、刑罰を廃止することはこうした犯罪者たちの自己処罰欲求を満足させることができない状態に置くことであり、まして犯罪者を治療的な環境に置くことは「責任の否定、すなわち、自分の行為の責任を負う権利と能力の否定である。」ラプランシュによれば、「われわれの西欧社会の「精神科的な措置」と、「社会主義」社会の更生・再教育キャンプとの差異は、程度と適用領域の問題であって、その哲学は同じである。」とまで言います。注3 応報観念は、被害者や社会一般の処罰要求を反映したものであるということは通常の理解ですが、ここでは実に犯罪者自身が(自己への)処罰を要求しているという視点が示されているのです。
この罪責感という問題は、元来は精神分析創始者のフロイトがエディプス・コンプレクスの問題系の一環として提唱したものであり、そこではある者が犯罪を犯すのは罪責感からであるとのテーゼが立てられます。すなわち、罪責感に苦しむ者がその心理的負担を軽減するために犯罪を実行するというわけであり、結局、犯罪は処罰によって誘発されるということになるのです。注4
ただ、フロイト自身は刑罰そのものについて廃止論を明言したわけではありませんが、注5 彼は法というものを一般にサディスティックで専制的なものと見ていました。つまり、法は私たちの攻撃心を自分自身に振り向けるため、自分自身の欲求を放棄するたびに自責の念に苛まれる。この意味で、(法のような)文明を維持する制度は自己破壊的で、自己嫌悪の文化をも育むであろう。また、法は無理な要求を突きつける専制君主にも似ていて、それは復讐と被害妄想と自己弁護を得意とする。法の要求に私たちが沿えないと法は失敗を追及するだけで、その無理な要求を緩和してやろうとなどとは思わない。彼は法を宿敵とみなし、精神分析の使命はそうした法の致死的厳格さを少しでも緩和することだとみなしていました。注6
他方、メニンガーでは、罪責感の問題は前面には出てきません。犯罪は永年にわたる受身の状態、挫折感、無力感から抜け出るために何かをしたい、あるいは抑圧の下でギリギリの平衡を維持するために犯されると指摘されています。注7 また、しばしば自殺(未遂)が犯罪に先立って行われることも指摘されており、自殺代償犯罪の重要性にも目が向けられております。注8 
また、「犯罪者の法」という問題については、メニンガーは人が行動を選択する際には二者選択があり、順調な時はより良く、将来性あるものを選択する。しかし順調でないときは、より禍いの少ないものを選ぶ。これが犯罪であると言います。ある時点で犯罪は一番禍いが少ないという意味で「良いこと」のように見える。犯罪をする者にとって犯罪とは、こういう意味で「良いこと」と認識されているのであるとされています。注9
ただ、こうした場合にも、犯罪者にはラプランシュの指摘する罪責感がゼロであるとは言えないかもしれません。罪責感の裏返しが無力感であって、それから抜け出し、何かをしでかすため、そして処罰されたいという欲求を秘めつつ犯罪を実行するということはあり得るところです。しかしながら、この罪責感というものを一般化できるのでしょうか。実際には、犯行の発覚を防ぐための工作をする者、長期にわたり逃亡する者もいますし、自己処罰欲求が介在していない事例も少なからず存在するのではないでしょうか。それらを無視して自己処罰欲求を強調するラプランシュの姿勢には、一部事例(症例)ですべてを語ろうとしがちな精神分析の危険性が見て取れるようにも思えます。
ラプランシュは、結局、こうした犯罪者の自己処罰欲求というものをフロイト以上に一般化したうえで、それを満たすためにも刑罰の概念は維持されねばならないと考えており、フロイトのような法に対する警戒感はまるで感じられないのですが、これは、象徴法と実定法の混同ではないかと思われます。ラプランシュが注意を促す「犯罪者は自らの法を打ち立てる」というヘーゲルの「自己法」の理論自体が取ってつけたような議論です。これは犯罪者自身が自己の行為を縷々弁解し、正当化しようとすることと、自己の「法」を打ち立てることとを―おそらくは意識的に―混同しています。強盗殺人犯が例えば貧しさから犯行に及び、貧しさのゆえに犯行に出ざるを得なかったと弁解したとしても、彼は強盗殺人を合法化する私的な「法」を打ち立てたわけではありません。それが違法な犯罪行為であることは認識しているのです。ただメニンガーが指摘するように、犯罪という行為選択はその時点ではより禍いの少ないことという意味で「良いこと」と認識されただけのことなのです。
また、自己処罰欲求を実定法のレベルで満たしてやらねばならないとすれば、死刑にして欲しいという欲求も満たさねばならず、なぜ死刑だけは「象徴的報いの枠組みを抜け出たもの」注10 と例外化されるのか、説明は十分でないように思われます。
たしかに、およそ犯罪を犯した者をすべて責任無能力とみて「精神科的措置」に委ねることは人権侵害となるでしょう。精神分析医でもあるラプランシュの批判は、この点を警告する点に意義があります。しかし、だからといって刑罰を維持しなければならないという必然性もないと思われます。さらにはラプランシュが指摘するような贖罪―修復―ゆるしという三項関係も、これは単なる精神分析的な象徴以上のものとして実現されなければならないでしょう。しかし、この後者の関係性はもはや現行の刑罰という制度の枠内で実施することは不可能です。そのような関係性はむしろ犯罪行為者の積極的な更生を実施する過程で実現するものなのです。
注1
ジャン・ラプランシュ「人間性剥奪への道(死刑に関して)」(郷原佳以訳)、『現代思想2004年3月号』所収206頁参照。
注2
同上210頁。
注3
同上209頁。
注4
フロイト「精神分析的研究から見た二、三の性格類型」第三節「罪の意識から罪を行う者」(佐々木雄二訳)、『フロイト著作集6』(人文書院)参照。
注5
死刑に関してフロイトは、弟子のテオドール・ライクと共著の小論の中で、人道的理由でなく、「「汝殺すなかれ」という普遍的禁止が心理学的にも必要である」との理由で反対を表明している。郷原佳以「死刑廃止存廃議論の沸騰のなかで」、『現代思想2004年3月号』所収219頁参照。
注6
フロイト「文化への不満」(浜川祥枝訳)、『フロイト著作集3』(人文書院)参照。なお、テリー・イーグルトン/大橋洋一訳『イデオロギーとは何か』(平凡社ライブラリー)377頁以下も参照。
注7
前節注1文献239頁、241頁参照。
注8
同上文献244頁参照。
注9
同上文献243‐244頁参照。
注10
注1文献211頁。

2007-03-22
第三部 非処罰の文化構想(七)
☆前回記事
【3】非処罰への予備的考察
@応報観念との決別―(D):合理的人間像
今なお刑罰の世界を支配する応報観念において大前提となっている人間観、それは合理的人間像です。人はおよそ、善悪を明確に弁別し、ある状況のもとで合理的な(合法的な)行動を取れるはずなのに、そうせずにあえて不合理な(違法な)犯罪行為を選択したことが非難に値するというロジックになります。これは「期待可能性の理論」として、ほぼ不動のドグマ化されているものです。 
しかし、応報観念と決別するためには、このようなドグマを乗り越える必要もあります。本当に人間は特定の状況のもとで合法的に行動できるはずだと期待できるものでしょうか。
このドグマをパラフレーズしてみると、まず、(一)人には善悪の弁別能力があるということ、しかも(二)それを状況的に判断し、行動を制御する能力があること、しかし、(三)犯罪者はそのような能力を適切に発揮せずに違法な行為を犯したことが非難に値するという運びになるようです。注1
しかしながら、(一)の善悪弁別能力とは、そもそも人は善と悪という一対の観念を明別できるという前提に立っている点で、「善悪二元論」というもう一つのイデオロギーを前提としていることがわかります。たしかに人間には善と悪という「問題」について考察することはできます。しかし、善と悪を明確に識別して分節化する能力などは誰にもないでしょう。いまだかつて、どんな偉大な哲学者もそのようなことができた試しはないのです。(その意味では、例えば、死刑廃止論者が死刑を非難するあまりにこれを「絶対悪」であると断じることにも疑問が持たれるのです。)
それでも、「人をみだりに理由なく殺してはならない」ということぐらいは弁別できようと言われるでしょうか。たしかにそうかもしれません。そうすると、それは(二)の状況判断の問題になります。そのような判断を犯行当時、彼/彼女は的確にできたはずだというわけです。しかし、果たしてそう言い切れるのでしょうか。たしかに人殺しは犯罪だと「わかっていた」としても、人間の行動の要因にはそうした意識的な要素と同時に、無意識という広大な領域が伏在しているのではないか。このようなことを提起したのがフロイトでありました。人間の行動がすべて意識的なレベルでのみ意思決定されているというような古典的人間理解に逆らったのがフロイトでした。注2 応報観念の優勢な刑罰制度ではこのような理論が排除される点で反フロイト的と言ってよいでしょう。注3 しかし、応報観念と決別するには、人間の犯罪行為にも無意識の領域が大いに関わっているという事実を直視する必要があります。俗流に言えば、「いけないとわかっちゃいるけどなぜだか殺っちまった・・・」というわけなのです。しばしば行為者本人も犯行の理由がうまく説明できないために「動機なき殺人」などと呼ばれる事件もありますが、それを単に「不条理」などという言葉でごまかすのは早計です。そうした犯罪は「不条理」というよりは、無意識の行動要因のウェートが大きいのだと見るべきでしょう。ですから、本人も自らの行動を「動機」という形でうまく言語化できないのです。
しかし、刑罰はそんなことにおかまいなく、「正常な」人間には上記(一)と(二)の能力が備わっているはずだと決めつけたうえで、最後に、それにもかかわらずあえて犯罪行為に出たことが非難に値するとして、処罰を加えるわけです。非難といいますが、非難の表現として「報復」するわけです。だから「応報」刑なのです。その究極に死刑があることは言うまでもありません。
しかし、法も無理は強いないようで、次第に「責任能力」という概念を創り上げました。つまり、善悪の弁別能力や、状況に応じた行動制御能力が欠けている人間は非難できないと考えるようになったのでした。日本刑法でもよく知られている39条にこのような責任能力の思想が端的に現れています。すなわち、「@心神喪失者の行為は、罰しない。 A心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。」というのです。「心神喪失者」の場合は無罪ですから、責任無能力者は「犯罪者」でさえないわけです。合理的人間像に合致しない者は刑罰の対象にさえならないというわけです。
これを判定するために精神科医が呼び出され、精神鑑定が行われます。しかし、精神科医の役割は本来、精神疾患の診断と治療ですが、ここでは法律判断が求められます。つまり、上記規定では、「心神喪失者」あるいは「心神耗弱者」かという判断が求められます。ここに矛盾が生じます。医学者でありながら、処罰に値するかどうかという規範的判断を迫られるのです。ここでは、精神科医がいわば、「白衣を着た検察官」にされてしまうのです。
たびたび登場しているメニンガーは、「法律家と精神科医との間の冷戦」という刺激的なタイトルのもとに法律的判断と医学的判断の齟齬を鋭く批判しています。注4 曰く、「法律家は曲がった、禁じられた特定の行為を非難し排斥する。一方、精神科医は行動の全般的な型を正すのに関心がある。被告人を非難したり弁護したりする代わりに、医師は原因、理由、動機を探し、好ましくない行為を犯した要因を探る。」また、「法律家にとって、自由意志は哲学上の理論でも、宗教上の概念でも、科学的な仮説でもない。それは法理論と実務における「所与の」基本的仮説である。精神科医にとって、この立場は不合理極まりない。彼は自由と意志とが現実にどう働くかを尋ねる。他方、動機付けと精神活動とは無意識にでも起こり得るという精神科医の仮説は、法律家にとって、言葉自体が矛盾する不合理なものである。」そして、「責任とは精神科医にとって人が自発的にとるものであり、自発的に引き受けるものである。法律家にとって、それは何らかの不自然な方法で失ってしまうまで、「うまれつき」人の持つものである。」といった具合です。注5
しかしながら、実際にはこの問題は、法廷に呼ばれる精神科医が臨時的に法律家に変身し、「白衣を着た検察官」として行動することで事実上「解決」されています。ですから、「精神疾患は認められるが、責任能力はある」というふうな結論が鑑定意見として述べられることが大変に多いのです。とりわけ、死刑が問題となるような「重大凶悪事犯」ではまず滅多に責任無能力の判定は出ません。メニンガーも指摘するとおり、「世論が沸き立つと、その攻撃の的になっている者の症状も、非常識な行動も、侵害行為も、犯罪も病気の現われとは思われなくなるもの」だからです。注6
このことは、最初にパラフレーズした(三)のところに関連するのですが、「非難」とは行為選択よりも「結果」への糾弾が先行しがちだということです。例えば、「宇宙からの指令で見知らぬ人を10人殺した」という人がいたとしますと、これは普通に考えて「心身喪失=無罪」が疑われますが、おそらく判決では9割以上の確率で有罪となるでしょう。弁護側が相当努力してもせいぜい必要的減軽に留まる「心神耗弱」の認定を受けることができるかどうかといったところです。無関係の10人を殺害したという結果が重大過ぎるために、これを「無罪」とすることはためらわれ、回避されることになるのです。もしもこのような事例で判決が「無罪」であったら、刑法39条廃止論が「世論」の名において激しく湧き上がりかねません。このことは、どれほどごまかしても、刑罰が復讐であることを止めていない証左であろうと思われます。その意味で、先にパラフレーズした(一)(二)と(三)の間には微妙な齟齬が認められます。
ともあれ、初めに戻って、合理的人間像というドグマから解放されねばなりません。人は善悪の識別を明確になど行えないし、行えてもそれはせいぜい「理由なき人殺しは悪い」といった程度のこと。では、殺しが正当化される「理由」とは何かといったことになると、これはもう哲学・倫理学問題になりますので、簡単に判断などできません。そして、状況判断の現場でも、意識的に制御不能な無意識という領野が誰にもあり、「頭でわかっていてもやってしまう」ということが決して少なくないこと。常に的確に判断して、合法的に行動を制御する能力など誰にも備わっていないのです。そうであれば、そうした架空の合理的人間像を規準にとって、犯罪行為をした人を一方的に「非難」などできないということが導かれます。このようにして、応報観念の前提にあるドグマを乗り越えることができるでしょう。
ただ、これだけではまだ終わりません。合理的人間像のドグマを含めて、刑罰制度の根底には規範主義というイデオロギーがあります。つまり、人間社会は規範を定立して、それを社会成員に強制することによって社会秩序を保たねばならないという一つのイデオロギーがあるのです。これを克服してようやく応報観念との決別が完成します。この件は次節へ委ねます。
注1
このドグマの背後には、永く論争されてきた有名な「自由意志論」も伏在していることは明らかであるが、これに関する私見は別途述べることとしたい。
注2
メニンガーは、フロイトの貢献について、「良心の無意識の部分を指摘した」ことと端的に述べている。メニンガー『刑罰という名の犯罪』235頁(以下、この文献を単に「メニンガー」とだけ略記する)。
注3
フロイトが法を危険視していたことについては、前節をも参照。
注4
メニンガー、125頁以下参照。
注5
同上、132−133頁。
注6
同上、183頁。

2007-03-31
第三部 非処罰の文化構想(八)
☆前回記事
【3】非処罰への予備的考察
@応報観念との決別―(E):規範主義
刑罰は、それが犯罪と同様の法益剥奪を内容としている限りでは、なお復讐、報復としての性格を保持していることは既に指摘しましたが、今日では、「非難」という要素にも強いものがあります。前回主題とした合理的人間像からの逸脱ということも、そこに逸脱への非難という要素が介在しています。こうした非難は、規範主義というもう一つのイデオロギーを通して発動される社会的メカニズムであって、昨今の厳罰主義キャンペーンにおいて「規範意識の回復」といったスローガンが叫ばれるのもそのためです。
規範主義とは、社会規範への服従(=規範意識)を「良民」の条件とするイデオロギーであり、これはまた強烈な社会秩序保持のイデオロギーでもあります。このとき刑法という規範は、そのイデオロギーの中心かつ押さえという意義を持たされております。これは封建契約や隷属によって秩序が保持された封建時代の後に登場した、すぐれて近代的な体制保持の技法でもあると思われます。
ミシェル・フーコーの整理では、注1 中世刑罰の主たる目的は徴税にあったとされます。 しかし、近代のブルジョワジーの支配においては、労働者階級を体制内へ取り込み、暴動や革命を防止するための教化策として、刑務所制度に代表される新たな監視と処罰の諸制度が編み出されたとされます。社会規範への服従と引き換えに各種福祉給付の権利が付与されます。他方において、規範を破る法敵対者は「犯罪者」として労働者階級より下の階層へ落とされる。かれらは監視の対象であると同時に法に敵対するとどうなるかの見せしめの素材でもある。労働者より下の階層を作って、それへの恐怖・憎悪・蔑視を煽って、ブルジョワ権力に依存させつつ、時にはそうした下層民の悪党を労働運動潰しに利用もする戦略です。このことは、本章の別の箇所でも「犯罪への欲求」という少し別の角度から取り上げたことがありました。注2
ただ、近年の日本社会で特徴的に生起している厳罰主義傾向はフーコーの分析をも超えているのではないでしょうか。ここでは国際競争に打ち勝つために市場経済の貫徹を目指すと称される「新自由主義」の経済動向をも睨み合わせて考察されねばなりません。つまり、経済競争や福祉解体によって大衆に社会的な痛みを強いる代償のはけ口として、「厳罰」という飴玉が与えられていると考えられるのです。そういう中で刑法に触れるような犯罪に手を染めてしまった者は「究極の敗者」としてどういう運命が待ち受けるかということを見せしめる必要もあります。
ここでは「労働者階級―下層民」というよりは、「加害者―被害者」の峻別が激しくなってきます。つまり、被害者、なかでも遺族の怒りを掻き立て、まるで犬のようにけしかけるのです。そして被害者の要求どおりに死刑を頂点とする厳罰が「加害者」に下ることを、「被害者」のアイデンティティに結び付けようとする。注3 このアイデンティティの文脈ではもはや現実に害を受けた直接被害者とその家族・遺族の区別などは消失します。そして司法をそうした広義の被害者サービス機関にしてしまうわけです。注4 被害者側に付帯民事訴訟から事実上の求刑にまで及ぶような司法的特権を付与する政策が提起されてきます。このようにして、人間を加害者と被害者とに―ほとんど「階級的に」と言いたいところですが―分断してしまうのです。
「一般市民」が裁判に関わり、同胞に対して死刑まで言い渡す権限を付与される裁判員制度もこうした社会的分断のための道具であり、あなたがひとたび「凶悪犯罪者」と断定されれば、露骨に一般社会から死を命じられるようになるのです。これまでは「死ね」という死の公式命令は法衣をまとった特別な役人である裁判官の口を通してしか言い渡されなかったのですが、今後は言ってみれば隣のおばさんからも言い渡されるようになるわけです。司法の公正でなく「司法への信頼」を確保するという裁判員法第1条の目的条項は、このような制度の真の狙いを巧みに包装しています。注5
もっとも、このような規範主義イデオロギーによる社会的分断という戦略をブルジョワジー固有のものとみなすことはできません。それはおよそあらゆる権力体制において普遍的に見られるものであり、例えば、革命が発生すれば、革命で政権を奪取した勢力が反革命勢力とみなす者たちを投獄あるいは処刑するといったことが歴史的にもよく見られましたが、これなども革命体制維持のために新しい規範を打ち立て、それに従わない者を体制の敵として排除し、もって支配の安定化を図るやり方です。注6
フーコーは刑罰システムをフル活用していたソ連の体制について、それはほとんど資本主義の19世紀西欧の管理や権力の技術を単に移し変えただけであったと喝破していますが、注7 一つの革命体制であったソ連も体制維持のためには規範主義を使って、順法的な良民労働者階級と規範を破るブルジョワ反動分子あるいは秩序かく乱分子といった社会的分断策を巧妙に利用していたということの実例でしょう。
さて、それでは私たちはこうした規範主義のイデオロギーとどのようにして絶縁するべきでしょうか。これは権力関係のあり方一般に広く関わってきますので、簡単には言いにくいのですが、最低限言えることとして、まずは規範主義的な言説すべてを支配層の戦術、またそれをバックアップする御用刑法学者やジャーナリスト等々の宣伝だと見抜くことだと思います。特に、「加害者」への恐怖と憎悪を執拗に日々、この瞬間にも生産し続けているマス・メディアの「犯罪報道」に対して徹底的な警戒と批判的な視座を向ける必要があるでしょう。そして、たとえ(不幸にして)犯罪の被害者・遺族という立場に置かれても、「被害感情」を煽られ、けしかけられないように用心することではないでしょうか。つまり「吠える犬」のようにされないということです。「加害者―被害者」という分断策に乗せられないことです。
その代わりに、犯罪を社会科学的に見ること。これは次節で取り上げる予定である「犯罪の科学」という視座なのですが、「犯罪者」の糾弾を急ぐ前に、「犯罪」とはそもそも何か、彼/彼女は本当にその「犯罪」をしたのか、またなぜそのような「犯罪」が起きたのか、再犯防止のためにはいかなる対策があり得るのかということを冷静かつ科学的に考えることです。これは何か既成の学術権威に頼るという意味でなしに「在野的」な意味で、私たち自身がより知的になろうとすることを意味します。大衆は「犯罪の科学」などと無縁であるとは思わないでください。社会的分断の扇動には乗らないと決心するだけでも、従来とは違った見方ができるようになるはずです。
注1
以下の趣旨はフーコーの代表作である『監獄の誕生―監視と処罰』(田村俶訳、新潮社)で展開されているが、同書出版前に行われたフランスの毛沢東主義者との対談、「人民裁判について―マオイスト(毛沢東主義者)との討論」(小林康夫ほか編『フーコー・コレクション4 権力・監禁』(ちくま学芸文庫)所収96頁以下所収)の中でより簡明に表出されているため、ここでは特にそれを参照している。
注2
第三部第3章第1節(B)参照。
注3
被害者アイデンティティをめぐっては、第一部第4章Aと同第5章を参照。
注4
米国でも類似の現象が見られる。米国の社会学者、デイヴィッド・ジョンソンはアメリカにおける近年の状況について、「被害者や遺族が表に出て、彼らのつらい体験を強調することによって、検事たちは後ろに下がります。その上で、被害者や遺族の感情だからと言って死刑を求刑するのです。アメリカではいまや、「死刑」は被害者ザービスのプログラムの一つだと考えられています」と指摘している。「私たちは裁判員として「死刑」の重みを負担できるのか?」、『年報・死刑廃止2004』(インパクト出版会)168頁。
注5
私自身は賛成を留保するが、フーコーは注1掲記の対談中で「裁判所」というこの近代的制度自体をブルジョワ刑法体系のイデオロギーを注入する装置とみなし、「革命は司法装置の根本的な除去を経ずにはあり得ない」とその廃止を示唆している。
注6
注1掲記対談の相手方である毛沢東主義者が、「人民の正義の規範化」というテーゼを繰り返し説いて、彼が主張する「人民裁判」という形態に異を唱えるフーコーに反論を挑んでいるのも、革命主義者もまた規範主義への強い傾斜を示すことの証左であろう。
注7
ミシェル・フーコー「ソ連およびその他の地域における罪と罰」(K・S・キャロルとの対話)、前掲『フーコー・コレクション4』所収305−306頁参照。

2007-04-10
第三部 非処罰の文化構想(九)
☆前回記事
【3】非処罰への予備的考察
犯罪が常識だけで処理されたのは長きにすぎたのである
―カール・メニンガー
A犯罪の科学―(@):犯罪学と犯罪の科学
前節で私たちが刑罰制度からの離脱(departure)を果たすうえで、「犯罪の科学」(criminal science)という視座を持つ必要があると申しました。といっても、このような学術はまだ明確な形ではどこにも存在していないのです。よってこれは、将来に向かって試行錯誤しながら作っていくべき一つの民衆の学問ということになるでしょう。
そのアウトラインは前節末尾で示しましたように、「犯罪」とはそもそも何か、彼/彼女は本当にその「犯罪」をしたのか、またなぜそのような「犯罪」が起きたのか、再犯防止のためにはいかなる対策があり得るのか、こういったことを一つ一つのケースを素材にしつつ、経験主義的に考察し、知見を蓄積していくということに凝縮できます。
ただ、これだけのことであれば既に犯罪学(criminology)という学問が存在しているではないかということになりますが、この既成の学科とここで言う犯罪の科学とは重なり合いながらも区別されるべきものであります。
たしかに犯罪学は、いまだに応報観念をベースとする法教義学としての刑法学とは異なり、犯罪現象そのものを対象にすえ、その原因や再犯防止策などを社会科学的ないし心理学的・医学的にも分析する総合的な学科となっていますが、残念ながら現在でも法学的な思考と絶縁できていません。実際のところ、犯罪学はなお法学の一分野としての「刑事学」とか「刑事政策学」として研究されていることが少なくありません(特に、日本で)。このことが刑罰制度を所与の大前提としつつ、それの枠内でだけ犯罪現象をあれこれと分析する手法から離脱できず、例えば死刑の代替策としての終身刑論などを生み出す要因となっているように思われます。比ゆ的に申せば、既成の犯罪学はまだ法学的観念論、とりわけ応報観念とへその緒でつながっているわけです。たしかに犯罪学は法教義学から一歩離陸を図り、科学的思考へ向かおうとはしていますが、これは「刑罰の科学化」という徒労に終わっているように思えてなりません。もっと言えば、刑罰という迷妄を抑止力という疑似科学の装いのもとに科学化しようと無理をしている。だから、「死刑の代替策」は提起するが、「刑罰の廃止」は提起する気配も見えない。注1 そんな印象を持つのです。
また他方、既成犯罪学は、刑法学におけるもう一つの潮流であった「教育刑論」を吸収しつつ、犯罪者の「処罰」よりも「矯正」ということを重視するようになっています。矯正の技法を科学的に究明する矯正科学の研究もそれなりに発達はしてきました。しかし、これには二つの点で限界があります。
一つはベースにある教育刑論というものが刑罰の本質と衝突しがちなこと。刑罰の中でもとりわけ刑務所へ拘禁する自由刑は現在でも受刑者に苦役=懲役労働を科すことを止めていません。所詮、刑罰は与えることより奪うことに本質があるのです。逆に奪うことより与えることに本質のある教育とは不倶戴天の敵同士なのです。注2 両者を混合しようとしても無理があります。たしかに「懲‐罰」という語には何とか罰と教育とを両立させようとする響きを感じ取れなくもないですが、実際、矯正科学は、懲役労働の実施に妨げられて現場で生かされているとは言えません。依然として、罪人を罰として刑務所に閉じ込めて無賃の強制搾取労働に使役するという観点が刑罰からは取り去れないのです。
しかし、より重要なことは「個人を矯正する」という発想の限界です。いくら犯罪を犯した個人の「矯正」に焦点を当てたところで、社会内に犯罪誘発要因があれば再犯は必然です。よい例は性犯罪かもしれません。ポルノグラフィーが構造的に商業化されている社会にあっては、いくら性犯罪の受刑者を「矯正」したところで、社会復帰後も性的刺激剤となる物に事欠かないのですから、限界があることは明らかです。また、失業や不安定雇用が蔓延している社会であれば、犯罪の前歴者にとって安定的な職にたどり着く可能性はなおさら低く、経済的不安定と社会的孤立の複合化は初犯と同時に再犯への最短距離ともなります。
この点で、犯罪の科学においては、犯罪現象とは具体的な状況のもとで人間が意識的‐無意識的に為す侵害行動であるが、同時にそれは社会構造的に産出されたマイナスの社会現象であるというふうにとらえます。
上述の視座で重要なのは特に後者であり、犯罪は私たちが住まうこの社会の中から産出されたマイナスの現象であるということにあります。ですから、再犯防止のためには「社会の更正」という視点が必要になるのです。注3 これが犯罪の科学の大きな特徴点です。既成犯罪学にもこうした視点がなくはないものの、かなり弱く、犯罪を個人の(規範)逸脱行動ととらえ、個人の「矯正」のみを特化する個人主義的思考をとりがちです。しかし、すべての犯罪には必ず社会構造的要因を見出せます。とりわけ経済的要因は無視できません。例えば、貨幣制度なくして「金目当て」のあらゆる犯罪は発生し得ないのですし、また貧困・窮乏は依然として犯罪の温床です。もちろん、経済的要因だけですべてを説明する経済決定論は妥当でありませんが、昨今は「豊かさ」という思考前提が強すぎるために犯罪の経済的要因が軽視されているように思えます。あるいはかえってその「豊かさ」が温床となるような犯罪が出現してきているかもしれません。
いずれとしても、社会は絶対善であるという観念論的前提に立って、犯罪を個人の心がけの悪さのせいにしているだけならば、犯罪の科学は開拓できません。しばしば「社会のせいにするな」といった論難(攻撃)がありますが、この言述が社会=絶対善という前提から発せられているならばそれは一つの現存社会保守のイデオロギーの一形態にほかなりません。もっとも、逆に「犯罪はすべて社会が引き起こす」というテーゼもまた極論であり、犯罪のまさに「現場」では、たしかに或る侵害的な振る舞いをした人間が存在するという事実に反することになります。そうした限りで「社会のせいにできない」要素が犯罪には存するということも同時に認めなくてはならないでしょう。
この点、私は第一部で社会構造体責任という語を提示しました。注4 この「責任」という語が適切かどうかなお迷いは残るのですが、この「責任」は「社会を罰する」というような不能を強いる含意でないことはもちろん、社会が具体的に何らかの法的責任を負うという意味でもありません。それよりは、犯罪を個人責任の問題に矮小化しがちな既成議論へのアンチテーゼとして提起してみたのでしたが、その意味するところは、結局、社会に内在する犯罪惹起要因を除去する政策プログラムを履行しなければいけないということになるかと思います。注5
さて、『監獄の誕生』を書いたミシェル・フーコーは「犯罪が何らかの仕方で何かの役に立っているのでなければ、主たる結果として再犯をもたらす刑罰制度なるものを、監獄を保持しながら、かくも長い間保持するなどということがあり得ると思いますか」とも問いかけています。注6
その答えは前節である程度分析したのですが、たしかに今日、刑罰は犯罪への対応策としてはもはや破綻しています。刑罰の9割以上を占める罰金刑は事実上、違法行為の代価として臨時の「税金」を国庫に納めるに等しいものですし、自由刑を言い渡しつつ拘禁はしない執行猶予制度のために事実上例外化されている刑務所拘禁は、その小児版である少年院と並び「犯罪者養成学校」です。同じようなことをした重罪犯を集めてきて集団生活をさせれば「犯罪仲間」を形成してしまうことは明らかです。いわゆる悪風感染ですが、これは集禁方式では不可避のことです。そして伝家の極刑である死刑は多くの国では廃止され、存置されていても現在ではごく一部の犯罪にしか科されなくなり、しだいに消えつつあります。よって、刑罰は既に終焉しつつある。刑罰の存在によって社会の安全が保持されているというのは錯覚である。こう言っても差し支えないと思います。
それでも、私たちは刑罰にまだ固執するのでしょうか。地球が自転しているという科学的事実が、どうしても太陽が回転しているように錯覚されてしまうのと同様に、刑罰の錯覚もまだ当分続きそうです。また社会が刑罰に固執する理由がなお存することは前節でも分析したとおりなのですが、このあたりで、新しい犯罪対応によって真に社会の安全を確保する方策を探求する旅に出発する必要があると思います。順次、検討を進めていきたいと思います。
注1
稀有の例外として、澤登佳人「監獄はなぜ存在するのか」(法学セミナー増刊号『監獄の現在』(日本評論社)所収2頁以下)は、犯罪学者というより刑法学者の立場からではあるが、明白な刑罰廃止論である。単発の小論であることが惜しまれるが、フーコーの「監視」とは異なる立場から刑罰廃止まで踏み込む監獄論としても注目される。
注2
カール・メニンガーも「刑罰と更生という不倶戴天の思想を結び付けたこの試み(監獄)は、未だに、刑罰学者を二分し、大衆を混乱させている」と指摘する。メニンガー、302頁。
注3
第一部第7章第8節で、「実行者個人に対しては更生を、社会に対しては更正を」という標語を提示したことがある。
注4
第一部第7章第6節、第7節を参照。
注5
この点、注1掲記文献(10頁)で澤登が「「犯罪者でなく社会のほうを改善して、自由を制限せずに犯罪を生み難くし、不幸にして生んだら犯罪者を拒否せず進んで受け入れる」という社会の真の責任のとり方に思いを致すこと」を「監獄の克服=犯罪への新しい法的対応制度創造の原点」と指摘することもほぼ同旨かと思われる。ただし、澤登の議論には法的観念論の域を出ていない点も看取されるため、全面的な賛同は留保し、後に再度検討する。
注6
ミシェル・フーコー「ソ連およびその他の地域における罪と罰」(K・S・キャロルとの対話)、小林康夫ほか編『フーコー・コレクション4』(ちくま学芸文庫)所収307頁。

2007-04-21
第三部 非処罰の文化構想(十)
☆前回記事
【3】非処罰への予備的考察
A犯罪の科学―(A):犯罪認識
犯罪とは何か。法教義学では、(法定の)犯罪構成要件に該当する違法かつ有責な行為などと「定義」されています。注1 この定義によると、なるほど法に規定のない行為を犯罪として処罰するような権力乱用を阻止することはできますが、逆に法に規定しさえすればどんな行為でも犯罪と名指し得ることになります。
現在、刑罰体系の中心を成す刑法自体は条文数300に満たない法典ですが、それ以外に無数の特別法で罰則が定められており、いったい全部でいくつの罰条があるのか当局でも正確に把握できていないのではないでしょうか。しかも、近時は安易な厳罰主義の横行で、何かの問題が生ずるごとに罰則制定で臨むため、毎年のように罰則は増え続けています。これでは「処罰マニア」国家になりかねません。
法教義学の犯罪定義では、このような罰則の増殖に歯止めをかけることが困難です。これは、罪刑法定主義の限界です。罪刑法定主義なるドグマでは、罪刑が法定されない限り処罰できない反面、罪刑が法定される限り処罰できるとなるため、何が犯罪であるかという犯罪認識までは問われないからです。注2 
しかし、「犯罪の科学」においては犯罪認識がまず出発点です。どういうものを犯罪とみなすのかという問いであります。ここで予め定式化しておきますと、私たちは、特定の複数人間の相互行為が物質的な侵害を伴ったときにそれを犯罪とみなすことにします。これは丸暗記の対象となる教義としての「定義」ではなく、分析の視座を提供する科学的な認識です(従って、罪刑法定主義の「理念」そのものを否定する趣旨ではないことに注意する必要があります)。
はじめに、便宜上、物質的侵害という要素から考察します。ここで言う「物質的」というのはやや広い語で、ここには傷害や殺人など人体を侵害する場合も含まれる一方で、次のような各場合を犯罪から除外するための手がかりにもなります。
まずは、単なる表現行為です。ある特定の表現行為が犯罪に該当するとして、訴追・処罰されるということは典型的な言論弾圧ですが、このような場合も罪刑法定主義では法に規定される限りは犯罪とされてしまうのです。例えば、死刑廃止論を唱道することを犯罪として処罰する法規を制定することさえもできてしまいます。しかし、犯罪の科学の犯罪認識ではこのように物質的な侵害を伴わない行為が犯罪とされることはありません。ですから、仮にそのような規定が存在していても、「犯罪ではないものを犯罪として処罰しようとしている」という形で権力批判ができることになります。注3
さらに、単なる心理的不快感を催すような行為(迷惑行為)も犯罪として認識されません。この点で微妙な問題を提起するのが、痴漢行為です。痴漢は何よりも心理的な不快感をもたらすでしょうが、それと同時に身体に触れられることで身体的な不快感も惹起しますから、辛うじて犯罪に当たることになるでしょう。しかし、わいせつな暴言を吐いて心理的に不快にさせるような言葉による嫌がらせ行為は犯罪と認識されません。注4
また今日の刑罰の中心を成すのは行政刑罰法規であり、そこでは形式的な手続き違反などが犯罪とされます。道路交通法などはその限界例になりますが、例えば自動車の速度違反は交通事故という物質的侵害を惹起する危険はあるにせよ、それ自体としては何ら物質的侵害をもたらさない行為ですから、犯罪の科学においては犯罪ではありません。行政刑罰法規の大半は犯罪とは認識されないことになるでしょう。
こうしていくと、犯罪と認識されるものは、膨大な刑罰法規のうちの一部だけということになり、それらこそが緊要に対策をなすべき重大な案件でもあるのです。注5
次に第二の要素として、複数人間の相互行為という点についてですが、これも従来の法教義学では、犯罪行為を単に実行犯個人の行為と把握してきたことに対立します。法教義学では、犯罪は個々ばらばらな行為と把握され、それについて共犯規定を含む法の適用関係を縷々問題にしているだけです。
しかし、犯罪=相互行為と理解することで、全く単独でなされる行為、つまり侵害の相手方のない行為は犯罪として認識されません。この観点からは、自らを殺害する自殺のようなものは犯罪と認識されないことになります。これは当然のようにも思えますが、自殺まで警察的監視の対象とし、自殺願望者を警察が探知しようとするような動きが出ている現在、かなり有効な視座であると思います。
犯罪=相互行為という理解にはまだ重要な意義があります。例えば法教義学では「単独犯」と把握されるAがBを殺したという単純な殺人のケースでも、犯罪はAとBのみならず、それらの周辺者を含めた多数の関係者の相互行為として認識されます。加害者‐被害者という二当事者だけの相互行為にとどまるものでもありません。Aがその犯行に至るまでにAに関わった人たちすべてが関係者であり、犯罪の原因や経緯に関しては調査対象になります。Bの周辺者も同じです。その遺族から友人・知人まで含みます。犯罪は、その犯行自体が終了した後まで被害者周辺にも様々な影響を残すことは言うまでもないことで、そうした犯行の事後的な影響関係は現在、「被害者感情」の名でくくられて厳罰の根拠に援用されたりしますが、このような発想は犯罪を相互行為としてとらえず、単に「加害者」の一方的行為ととらえたうえで、それを糾弾しているだけのことであって、犯罪についての科学的解明を放棄するに等しいことなのです。
こうして犯罪を相互行為ととらえることによって、犯罪をより大きく社会的な背景の中に位置づけることも可能となり、注6 「加害者」個人を糾弾するという刑罰的身振りから離脱することもできるようになるわけです。
注1
『法律学小辞典 第4版』(有斐閣)より、「犯罪」の項目(993頁)参照。
注2
罪刑法定主義ドグマは、犯罪認識を空白にしているからこそ、形式的に「法」の存否を基準にせざるを得ないのである。せいぜい、増殖した新法による遡及処罰の禁止という時間的な制約を設定することができる程度である。
注3
刑法上は犯罪行為として処罰される名誉毀損のような表現行為も、名誉という他者の抽象的利益を侵害はするが、それは物質的侵害ではないから、犯罪とは認識されない。しかし、放置されるわけではなく、名誉回復のための訂正文の掲載などは否定されないし、それが効果的でもあろう。
注4
刑法上犯罪行為として処罰される人前で公然と全裸になるような公然わいせつは、「公序良俗」に反するとか、人の感性を侵害するなどと説明されているが、物質的侵害を伴うものではないから、犯罪とは認識されない。ただし、何らの取締対象にもならないというわけではない。「犯罪ではない迷惑行為」として現場で制止すればよい。
注5
膨大な数の罰条を抱え込んだ「処罰マニア」国家は、一方で、捜査機関の処理能力が限界を超え、物質的侵害を伴う重大な案件への捜査資源の投入が不足して未解決事案が増加し、反対に未解決を恐れて安易な手抜きの見込み捜査で冤罪事例を多発させたりするという障害を惹起することも注意すべきである。大量の罰条を抱え込むことが社会の安全につながるなどとはとうてい言えないわけである。
注6
本文で述べた何を犯罪を認識するかという犯罪認識論は、各犯罪の原因をなす社会的事情は何かという犯罪原因論とは別の問題であるから、混同しないようにされたい。

2007-05-03
第三部 非処罰の文化構想(十一)
☆前回記事
【3】非処罰への予備的考察
A犯罪の科学―(B):犯罪原因@
法教義学の犯罪定義では、犯罪とは構成要件に該当する違法・有責行為などと規定されていたわけでしたが、この末尾の「有責」という言表、つまり「責任を有する」というところに、法教義学の特質がよく表れています。つまりそれは、犯罪者個人の責任追及=糾弾の論理を究極とするわけです。注1
すわなち、観念論としての自由意志論に立って、(一切の社会関係から切り離されて?)「自由な意志」で違法行為に出た行為者自身が当然にもその責に任ずべきものとされ、その背後にある犯罪の原因は捨象されていくか、せいぜい「個人の悪性」に還元され、それがまた「量刑」上厳罰のロジックともされていくのです。このような発想は、糾弾と報復という刑罰の本質にはよくマッチするために、今日までほとんど疑われてきませんでした。
しかし、犯罪の科学においては、このような糾弾的個人責任論とは絶縁されます。個人とは、社会的諸関係の総体であり(マルクス)、言い換えれば、社会の鏡、いわば私たちの自画像なのです。このことをリアルに見据えることが新たな出発点です。ある個人の犯罪は、その人の悪性の徴表なのではなくして、私たちが住まうこの社会関係の反映です。個々の犯罪は社会関係に何らかの異常が発生しているかもしれないという社会の症候を示す手がかり、サインなのです。注2
そこから、真の犯罪対応とは決して犯罪を犯した個人を罰することではなく、まずは犯罪の原因を把握して、それに社会的な手当てをすることであると分かるのです。もしそれをせず、犯罪が起きたつど、その犯人と名指された個人を罰して済ますのでは、根本的な対応にはならないため、また同種の犯罪が繰り返されることになります。実際、犯罪ほど延々と繰り返されているものがあるでしょうか。これはいわゆる「懲りない」再犯者だけの問題ではありません。再犯問題もそれはそれで刑罰の無益さの表れではありますが、同種犯罪を「抑止」するはずの刑罰が新しい同種犯罪の発生を一向に防げていないのです。
このことは、「責任」追及と糾弾に性急で、犯罪の原因に迫ることを事実上放棄してきた私たちの不手際であると考えます。この不手際を糊塗せず、直視する気があるならば、犯罪の責任より原因の究明に優先順位を与える必要があります。
既成犯罪学もこうした犯罪原因論をそれなりに展開してきましたが、既成犯罪学は法教義学の領土内からまだ独立し切れていないために、しばしば原因論が学術的な思考の中に閉じ込められ、実際に活かされていません。注3 犯罪の科学では、責任の考え方を転換することで、このような状況の乗り越えが図られるでしょう。
その際、犯罪原因として、何よりも経済的要因に着目されます。すべての犯罪に経済的要因があるとみて過言でないからです。例えば、今日でも大半の犯罪が直接・間接に利欲的動機(金銭目的)で行われています。これは、私有財産制と貨幣経済、商品経済という経済システム抜きにしてはあり得ない現象です。貨幣は殺人も誘引します。犯罪の科学の内には、犯罪の経済的要因を特殊に探求する「犯罪の経済学」(economics of crime)とでも呼ぶべき一部門が割かれて然るべきでしょう。ここではまた、犯罪と社会階層の関係も究明されます。従来、例えば、一般刑事犯罪での死刑囚に富裕層の出身者はほとんど存在しないと仮説されるのですが、こうしたことはまだ充分に事例研究がなされていません。
また貧困は犯罪の温床とも言われてきましたが、反対に経済的な豊かさが要因となる犯罪もあり得ます。例えば、被害金額が多額にのぼる組織的な消費者詐欺や投資詐欺などは、大衆の購買・消費・利殖能力が上昇したことを背景としつつ、加害者側の出身社会階層も比較的高い場合が少なくなく、貧困にあえぐ社会の現象ではありません。
もちろん、犯罪原因をすべて経済的要因に還元する経済決定論も科学的ではないでしょう。経済以外の要因、これを広く社会的要因と呼ぶとすれば、これも重要です。近年しばしば「ひきこもり」と呼ばれるような生活状況にある人の犯罪がジャーナリズム上で話題になってきましたが、こうした社会的孤立化も現代社会の特質であり、これがある種の犯罪行為にどう影響するのかといったことも未解明で、「ひきこもり」の個人的な病理性ばかりが偏向的にクローズアップされる嫌いもあります。
このような経済的・社会的要因の析出は、結局において、経済社会政策的な犯罪対応に結実します。注4 これは、私の言葉で言えば、「社会の更正」となるわけです。また、犯罪原因と刑罰効果の科学的研究を重視したドイツの刑法学者、フランツ・リストの「最良の刑事政策とは最良の社会政策である」という著名ではあるが、しばしば軽視される箴言の実践でもあるのです。
これを実現するためには、法律家の独壇場である法廷という手続きにもメスを入れる必要が出てきます。法廷では、こうした犯罪原因、とりわけ経済的・社会的要因の探求には充分な注意が払われず、ともすれば量刑事情として活用可能な「動機」の糾明に終始する恐れがあるからです。注5
ところで、精神分析医のジャン・ラプランシュはこうした犯罪の経済的・社会的要因に着目する立場を「マルクス主義的な社会学主義」と規定して、特にその立場からの死刑廃止論を「条件付きの功利主義的なもの」であると批判するのですが、注6 むしろ経済的・社会的要因を軽視し、精神分析のように個人的素因―それも、心理的な素因―にばかり着目することのほうが、ラプランシュ自身そうであるようにかえって刑罰の原理を強化し、「刑罰の一般原理は正しいが、死刑だけが問題である」というふうな死刑例外論に逢着してしまうのです。このような型の死刑廃止論の限界性が、死刑存置諸国ではますます露呈してきているわけです。
もっとも、犯罪には精神分析が特に重視する個人的素因も影響することはたしかです。このことは、犯罪の科学においても無視されません。もし、犯罪はすべて社会現象であるとして、犯罪を犯した個人への働きかけを一切捨象するとなったら、それは一つのイデオロギーと化していくでしょう。ただ、この個人的素因の問題は次節に回します。
注1
反対に、犯罪行為者が責任無能力と判断されると、今度は犯罪対応の土俵から、精神医療へ移送されてしまうことになるが、これがしばしば「厳罰」主義者の不満を買うようである。しかし、このような移送は刑罰制度に内在する責任論の帰結であって、いわば自業自得である。
注2
犯罪は社会の病気の症状を、処罰は社会の発展段階を示す。『年報・死刑廃止2003』(インパクト出版会)所収251頁参照(セルヒー・ホロヴァティ発言)。
注3
とりわけ、日本では「犯罪学」が自立的に確立されておらず、しばしば「刑事政策」(刑事学)の名において、法学(法教義学としての刑法学)に従属・付随していることが理論的な貧困を助長している。
注4
マルクスは、当然にもより急進的に「犯罪を培養する社会体制の変更」を要請しているが(マルクス著/鎌田武治訳「死刑―コブデン氏の小冊子―イングランド銀行の諸規定」、『マルクス=エンゲルス全集第八巻』所収495頁)、これは社会の更正の究極点である。ただ、究極的な「革命」にまで至らなくともなし得ること、なすべきことはある。第一部第7章第8節も参照。
注5
メニンガーも、法律家と精神科医の認識の齟齬を論じた箇所で、「法律家は曲がった、禁じられた特定の行為を非難し排斥する。一方、精神科医は行動の全般的な歪みを正すのに関心がある。・・・・・・・医師は原因、理由、動機を探し、好ましくない行為を犯した要因を探る。」と指摘する。メニンガー 、132頁。法廷が当然にも法律家に支配されていることも、こうした科学的原因探求を阻害している。
注6
ジャン・ラプランシュ/郷原佳以訳、「人間性剥奪への道(死刑に関して)」(『現代思想2004年3月号』所収212頁注8参照)。ラプランシュは、ここで「管理職、取締役社長、公証人はプロレタリアより疎外されておらず、犯罪を起こしにくいと言えるのだろうか」という「本来のマルクス主義」からの仮設的問いかけに「それは自明でない」と自答するが、こうしたホワイトカラーの犯罪が「プロレタリア」のそれと同じないことは、最低限自明であろう。

第三部 非処罰の文化構想(十二)
☆前回記事
【3】非処罰への予備的考察
A犯罪の科学―(B):犯罪原因A
犯罪の科学という視圏の中で、犯罪の個人的素因をどう位置づけるか。これはなかなか難しい問題です。まず、個人的素因というとき、素質と心因を分けて考えてみる必要があるでしょう。素質とは、犯罪行為を誘発する遺伝的要素で、いわば生物学的な素因であると言えます。
犯罪原因としてこのような素質を重視しようとした学派の総帥として、有名なチェーザレ・ロンブローゾが挙げられます。よく知られているように、彼は、ある種の人は犯罪者に生まれつくとして、「生来的犯罪人説」を提唱し、犯罪者の身体的特徴の類型論まで構築してみせたのでした。しかし、ロンブローゾ理論には当初から厳しい批判もあり、その所論には多くの反証が出され、現在では理論体系としては否定されています。しかしながら、「犯罪者の素質」というものは広く信じられています。実際、検察官の死刑論告や死刑判決にもしばしば「矯正不能(困難)」といったフレーズが現れますが、これなども素質論の影響と言えます。一般的には「人道主義的」な犯罪対応に賛同していたロンブローゾ自身、彼の言う「生来的犯罪人」に対しては、やむを得ずとしながらも死刑を肯定したのでした。注1
ロンブローゾは犯罪性向は遺伝性のものと断定していましたが、犯罪行為を誘発する遺伝子といったものはまだ発見されていません。発見されていないから存在しないと断定することもまた早計ですが、これまでのところ、明確に犯罪性向の遺伝性という命題は証明されていないといってよいでしょう。むしろ、仮説的には、犯罪の素質というものがあるとすれば、発達の過程で社会環境的に形成されたものであると理解されるでしょう。
そこで、犯罪の個人的素因としては、より抽象度は高まりますが、心理学的(または精神病理学的)素因としての心因のほうがより有望でありそうに見えます。心因にも当然ながら脳機能が影響していますから神経学も関わってきますが、この分野はこれまで犯罪精神医学が精神鑑定実務を通じて独占支配してきました。
問題は、犯罪原因論において精神医学的に心因を偏重しますと、犯罪対策が精神医療化していくことです。事実、一時、犯罪者処遇における「医療モデル」というものが風靡したことがありました。これは、矯正‐社会復帰というプロセスを医療とパラレルにみなして、処罰よりも矯正に力点を置くことを強調するものでした。心因を重視する場合、精神医学の役割は、ある人が治療対象になるかどうかということよりも、「危険」かどうか―従って、刑務所収容ないし死刑の必要があるかどうか―ということを検査することになりやすいのです。
このような方向性には、二種の批判があります。一つは、例のラプランシュのように「非人間化への道」だと非難するもので、つまり犯罪を犯した人を「理性を欠いた非人間」とみなすことを問題にします。「人道的」な立場とも言えましょう。ソ連が反体制者に対してやっていたような政治的な保安精神病院との類似性さえも示唆されます。注2 もう一つは、フーコー的視座からの批判で、医療化は所詮、近代規律化社会の一面に過ぎず、それもまた矯正というレトリックに存在理由を見出そうとする近代監獄制度そのものと変わらないとするものです。注3
どちらも精神医学的な犯罪対応が「危険性」という観点で犯罪行為者を見ようとすることを批判する点で、両者の批判は交差してきます。一理ありますが、それよりも問題なのは、もしも心因だけを社会的・経済的要因から分離して専ら個人の治療を目指すのは、犯罪対応を誤ることになるということにあるでしょう。つまり、「医療モデル」にあるような個人主義的アプローチの観念性こそが問題なのです。本書で従前しばしば引用してきた精神分析医・メニンガーの議論にもその傾向が見て取れます。注4 この点では、医療モデルに対立するように見える自由意志論も“同罪”です。
医療化という点に関して言えば、フロイトの創始した精神分析の利点は、心因性の問題を扱う精神療法の脱医療化ということにあったのでした。注5 その後、精神医学自体に精神分析の影響が及ぶに至ってこの利点が失われましたが、近年における精神薬物治療の発達によって精神科一般診療の領域では精神分析の退潮も指摘されます。ところが、その分、薬物療法主流の現代精神医療では扱えないような心因性問題への精神分析の適用が再評価されています。例えば、暴力犯罪でしばしば見られるトラウマ要因の犯罪です。非常に残忍冷酷と評されるような暴力犯罪を犯した人が、自らの過去において周囲の者からな暴力を受けていたというような場合があります。これに過保護や放任、虐待等家族関係の病理を素因として持つような場合も加えることができるでしょう。元来脱医療化を目指した精神分析が、犯罪対応の場でその真価を発揮できる可能性は充分にあると言えます。
とはいえ、医療的対応が必要な場合も否定はできないように思われます。典型的には、精神疾患の症状下で起こされた犯罪などです。病的な妄想に基づいて犯罪が行われたような場合はわかりやすい例でしょう。このような場合は、そのもととなっている精神疾患を治療する必要があることは当然です。また、常習的性犯罪のように疾患性はないが、性欲のコントロールが適切にできないなど、病的な心因が認められる場合にも薬物投与を含めた医療的アプローチが必要かもしれません。注6
いずれにせよ、犯罪の科学では、犯罪の個人的素因を社会的・経済的要因から分離することは否定されます。その場合、犯罪行為機序として両者の関係をどう定式化するかが問題ですが、さしあたり、人は社会的・経済的要因に規定されつつ、個人的な心因を内的動因として、犯罪行為へ至ると述べておきたいと思います。
ここで法教義学をなお支配し続ける自由意志論に出る幕があるとすれば、上記定式における最後の跳躍台としてでしょう。つまり、犯罪行為機序の最終段階で、なるほど彼/彼女は「自由に」、つまり自発的に犯罪を実行している、少なくとも第三者の目にはそう映じることはたしかです。観念論としての自由意志論はその最後の瞬間場面だけをスナップショットで撮って、それが犯罪のすべてだと主張しているようなものなのです。そして、そのスナップショットに基づいて彼/彼女は「悪い奴」だとして糾弾され刑罰を下されるわけです。本当は、もっと前段階から精密な連続写真を撮らねばならないのにもかかわらず、です。犯罪の科学は、そうした犯罪現象の全体像に対する構造的把握を目指すものです。ただし、それは机上的省察ではなく、犯罪対応の実践(事例研究)を通じて深められ、検証されていくべきものでもあります。理論は実践の最中で生まれ、かつ検証されていくものだからです。
注1
ロンブローゾの主張の骨子については、藤本哲也『刑事政策概論(全訂第5版)』(青林書院)56頁以下参照。
注2
ジャン・ラプランシュ/郷原佳以訳、「人間性剥奪への道(死刑に関して)」(『現代思想2004年3月号』所収209頁参照。
注3
ミシェル・フーコー「医学の危機あるいは反医学の危機?」、小林康夫ほか編『フーコー・コレクション4 権力・監禁』(ちくま学芸文庫)所収290‐291頁参照。
注4
メニンガーにとって、犯罪者に必要なのは、「教育、反省、相談、訓練」を通じた「治療」である。メニンガー347頁、同349頁以下も参照。
注5
注3文献290頁参照。
注6
フーコーは、ソ連における反体制者に対する精神病院収容と対比して、「少女を殺害あるいは強姦した者」に関して、「犯罪の動機をこの犯人の病理学的分析によって見出したり、適切な治療によって犯人の治療を試みることは、おそらく正当化される」と指摘している。ミシェル・フーコー「ソ連およびその他の地域における罪と罰」(K・S・キャロルとの対話)、注3文献所収311頁。


2007-05-28
第三部 非処罰の文化構想(十三)
☆前回記事
【3】非処罰への予備的考察
A犯罪の科学―(C):被害者化
今日、法教義学においても、犯罪の把握の仕方は、それを正面から道徳違反とか良俗違反などと「倫理的」にとらえるのではなく―そういうとらえ方を完全にやめてはいないのですが―、「法益侵害」というような、被害事実に重点をおいた、ある意味からすれば「社会学」的な方向へ移ってきていると言えます。
しかし、このとらえ方ではなお静態的であり―それは、法教義学の矯正不能な特質ですが―「被害者」と呼ばれるものが社会的文脈の中でどう「作られていく」のかということが明らかにはならないのです。この点を何ら明らかにしないままに、「被害者対策」などを論じたところで、その答えが単純極まる刑罰強化論に終始することは当然であります。
犯罪の科学では、こうした静態的な「被害」の把握を離れて、これを「被害者化」(victimization)というより動的な視座から把握し直します。被害者は決して自然に発生するのではなくして、社会的に作られていくものである。犯罪の科学はそう考えます。ただ、この被害者化を考えるうえでは、「事実としての被害者化」と「社会的な被害者化」とを区別する必要があります。
「事実としての被害者化」とは、ある人が現実に犯罪被害を受けることによって「被害者」が作られることを言います。これは全く簡単なことで、例えば、AがBを殺せば、Bという被害者が作られるというわけです。つまり、法教義学で言う「法益侵害」に対応するもので、Bの生命という法益が侵害されたという事実的な過程を意味します。
ただし、この場合にも、犯罪の科学は被害原因の解明を重視します。犯罪はその「現場」においては、加害者‐被害者の相互作用でもありますから、その犯罪原因と相関するものとして、被害原因というものも存在します。被害原因とは、その被害者はなぜ、どのようにして被害に遭ったのかという要因です。これを解明する意義は、俗に言う「被害者の落ち度」を詮索してあげつらうことではなく、被害防止対策に役立てることです。犯罪は潜在的な加害要因の除去だけではなく、潜在的な被害要因に注意を促すことを通じても防止される必要があります。極めて簡単な例では、侵入盗対策として、どのような地域や場所、住居形態、または室内の状況で好発しやすいかといったことを解明して、防犯に役立てるようなことです。
これに対して、「社会的な被害者化」とは、先の例で、例えば、Bの遺族Cが社会的な文脈において「被害者」として登場し、「被害者」としての立場で発話することを通して、Cが「被害者」として認知される、そのようなプロセスのことを言います。この場合、C自身は自らの生命という法益を何ら侵害されていませんから、本来「殺人被害者」ではありませんが、社会的には「被害者」として処遇されるのです。言い換えれば、直接の被害者ではない遺族が「被害者」となるのは、こうした社会的な文脈においてなのです。C自身がそう望まなくとも、社会的にそう「望まれて」しまうのです。
このプロセスをもう少し分析的に述べると、まず、直接に殺されたわけではないCは、親族Bが殺害された事件後、社会的に「被害者」として登場(カミング・アウト)します。そのうえで、「被害者」にふさわしい発話が求められます。例えば、犯人Aに対する怒りや憎しみの表明です。逆に犯人Aをゆるすとかその他、少しでも寛大な発話をすることは望まれませんから、そのような発言は「被害者」の発話としては認知されないのです。注1
この社会的な被害者化において、今日マスメディアの果たす役割はもう御馴染みとはいえ、やはり強調しておくべきでしょう。メディアが高い報道価値を付与した犯罪事案では、決まって被害者―とりわけ、遺族―がテレビカメラの前に呼び出され、その悲嘆と怒りとを効果的に表出することが一つの定型的なパターンになっています。このような場面では、新聞よりもテレビがいつでも主導者です。この社会的な被害者化において、メディアは拡声器の効果を強力に発揮しています。この拡声器効果は留まるところを知らず、被害者の声を必要以上に拡大して聞かせます。「反響」が喚起されます。Aに死刑を・・・という怒りの“世論”が発生します。
刑罰を法的に作動させるのは、事実としての被害者化を通してですが、刑罰の「量」を定める過程―立法過程のみならず、裁判過程も含め―においては今日、この社会的な被害者化のプロセスこそが、メディアという媒体を通して非常に強力な梃子の作用をするようになってきています。これを理解することによって、厳罰化を求める種々の社会運動の推進勢力の担い手がなぜ、直接の犯罪被害者ではなく、上例Cのような遺族であることが圧倒的に多いのか―ほぼすべてと言ってもよい―の謎が解けます。厳罰化を支えるイデオロギー装置は幾つかありますが、その最大のものが今日、この社会的な被害者化のプロセスに置かれているのです。厳しい刑罰の執行は、このような社会的な被害者化を完成させて、被害者という社会的なアイデンティティをCらに確定する不可欠のゴールと把握されています。犯罪被害者という名辞は今日、ますます「遺族」の身分を意味するようになっており、直接の被害者は蚊帳の外に出されています。殺人が未遂に終わった場合は、直接の被害者Bは存命しているわけですが、こうした場合には社会的な被害者化のプロセスは作動されないことが多いのです。注2
このように、殺人という例で考えてみると、社会的な被害者化に内在するもう一つのイデオロギーが「家族」であることが見えてくるでしょう。法教義学によると、殺人罪の「保護法益」は「生命」のはずですが、今日、殺人罪の実質は「家族」を奪う“窃盗罪”に転化してきています。この点において、社会的な被害者化のプロセスでは、なぜ遺族が「被害者」として認知されるのかより明確に理解できます。上例でCは家族を奪われた“窃盗罪”の「被害者」なのです。
ここからはまた、社会的な被害者化において被害者として認知される者の範囲が親族法的に制限されるという現象も出てきます。例えば、現在、刑訴法で認められている被害者の意見陳述権は、「被害者又はその法定代理人(被害者が死亡した場合においては、その配偶者、直系の親族又は兄弟姉妹)」という範囲の人しか認められません(292条ノ2)。ですから、上例でCがBと結婚しないまま長年同居してきたいわゆる「内縁」の人であったとき、Cは意見陳述が認められません。こうして、社会的な被害者化は法的に制限されることによって、ここにもう一つ、「法的な被害者化」というプロセスが派生してくることがわかります。法によって被害者であるかないかが確定されるのです。Cがいかに法律婚の夫婦間以上にBを追慕していたとしても、「被害者」とは認定されないのです。
これは日本の場合特に強烈ですが、法律婚優先の家族イデオロギーの表出です。日本の場合には、この社会的な被害者化プロセスの全体が、法律婚家族の護持というイデオロギーを担保するために作動していると言っても過言ではないほどです。「命の大切さ」とやらの教説がしばしば聞かれますが、それが厳罰を肯定する方向で言われるときには、その裏に家族制度維持の思想があるのです。ですから、殺人被害者の遺族が存在しないか音信不通となっているようなケースでは、極刑が回避されることさえあります。注3 こうした事例は社会的な被害者化が、量刑においていかに比重を持っているかを裏書きしています。
ところで、「被害者対策」といった言説が、厳罰に反対する側からもいささか弁護論的に提起されることもあります。しかしながら、これは社会的な被害者化プロセスに囚われた発想であると言わざるを得ません。この文脈では、被害者への物心両面での保護策などが強調されるようですが、それと死刑のような厳罰は優に両立します。被害者対策の充実を唱えることが必ずしも死刑廃止にはつながらない所以です。
ここでも視座を転換してみる必要があるでしょう。社会的な被害者化過程は、当の被害者にとっても過酷なプロセスです。先ほど述べたように、望まなくても、被害者としての登場が「望まれて」しまいます。そこでは、怒りや憎しみを表出し、場合によってはテレビカメラの前で“号泣”もしなければなりません。法廷では、厳罰を求めて、被告を厳しく糾弾しなければなりません。そうした感情に走った行動がどれほど稚拙で浅ましかろうと、そういうことをじっくり内省する機会も否定されて、ひたすら「悲劇の主人公」を演じ続けなければなりません。当事者たちがどう感じていようと、客観的に見てこれほど苛酷なプロセスはないのです。社会的な被害者化を作動させることに加担している(被害者以外の)人たちの最も大きな罪は、こうした苛酷さに気づこうとさえせず、自分たちは被害者に善行を施していると固く信じて疑わない愚直な単純さにあるのです。
しかし、真の被害者「対策」は、このように被害者の立場に被害者を固着させることではなく、その反対です。被害者化の過程から脱するように支援すること、すなわち脱被害者化の過程をサポートすることです。そういう意味では、犯罪の行為者に更生が必要なのと同様に、被害者にも更生が必要です。被害者にとっての更生。それが、脱被害者化であります。具体的には、怒りや憎しみといった精神的にも決してプラスとは言えない感情を寛解させること、またこれとは別に悲嘆(grief)という内攻的感情の乗り越えも不可欠です。社会的な被害者化の過程では、こうした感情が強まることはあれ、弱まることはありません。注4
現在、「犯罪者更生法」はありますが、「被害者更生法」はありません。被害者に必要なのは、脱被害者化を促進する制度です。もはや被害者という立場に固まらなくて済むように支援することです。そのためには時間の経過も必要です。良い意味で「忘れること」は最良の癒しです。人間は忌まわしいことは忘れることで乗り越える動物です。注5 社会的な被害者化は、被害者の立場に人を固着させることで、被害者というものをほとんど「職業」にしてしまいかねません。近年は、メディアなどでほとんど職業的に話をする被害者も存在します。それがその人なりの癒しの仕方であるなら、非難する必要はないでしょう。ですが、一般的に重要なことは、被害者を被害者の立場から解放することなのです。
被害者のために強化されるべきだと散々宣伝されている刑罰という制度は、その発動に際しては、とりわけ厳罰が呼び出されようとしている状況下では、被害者を大いに利用しますが、フォローはしません。上記のような負の感情の乗り越えなど、刑罰は全くお構いなしなのです。なるほど、刑罰には負の感情を一時的に解消するかに見える瞬時的な満足感はあると言えます。しかし、それは主として、刑の言い渡しの時点だけでの瞬時的なものです。刑の言い渡しは法廷という場で儀式的に派手になされますが、刑務所へ収容する自由刑にせよ、死刑にせよ、刑の執行段階は極めて事務的な行政過程に過ぎないからです。刑罰の瞬時的な満足感だけを取り出して特大強調してみせるのは欺瞞です。それは、刑罰の麻薬的効果と言えるでしょう。麻薬が効いている間は擬似的な多幸感に浸ることができても、切れれば元の木阿弥です。脱被害者化のためにも、非処罰のプロジェクトが必要と考えられる所以なのです。
注1
例えば、死刑に反対する遺族の声が封殺されがちなことについて、第二部第3章第6節を参照。
注2
社会的な被害者化においては、理論上、Bのような直接被害者も被害者として社会的に登場して不思議はないのだが、メディアという媒体が介在すると、被害者存命中の事案は感情的な側面が強調できないために報道価値が低く評価されやすく、社会的被害者化のプロセスが作動しないことが多い。だから、社会的な被害者化の主役はたいてい、死亡事件・事故の遺族である。
注3
ホームレス仲間三人を刺殺した男性に対する一審死刑判決を破棄して、無期懲役とした控訴審判決がある。覚せい剤の影響を認めて心神耗弱による法律上の減軽を施した事例であるが、被害者が家族と絶縁したホームレスであるような場合は社会的な被害者化が作動しにくいことも判決に影響してはいないか。拙稿参照。
注4
社会的な被害者化はしばしば、何年にもわたり続くこともある。事件の発生日ごとにマスメディアが被害者を呼び出し、「消えない悲嘆」を語らせるようなことがそれである。悲嘆を遷延させているのは、当のメディア自身なのだ!
注5
ニーチェは言う。「・・・・健忘がなければ、何の幸福も、何の快活も、何の希望も、何の矜持も、何の現在もありえないであろう」、ニーチェ著/木場深定訳『道徳の系譜』(岩波文庫)所収第ニ論文「「負い目」・「良心の疚しさ」・その他」62頁参照。

2007-06-03
第三部 非処罰の文化構想(十四)
☆前回記事
【3】非処罰への予備的考察
A犯罪の科学―(D):抑止から防止へ
今日では、主流的な法教義学においても、刑罰の必要性を擁護するために、「応報」という観念的な本性を強調せずに、「抑止」という「実証的」な刑罰目的を前面に押し出すようになっています。注1 これは言うまでもなく、犯罪の抑止力と呼ばれる効用を前提とした刑罰擁護論です。
しかし、この「抑止力」とはいったい何なのでしょうか。法律用語辞典にもあまり搭載されていない語で、わかるようなわからないような用語です。ただ、一応、文脈を辿れば、刑罰の恐怖(威嚇力)を通じて、犯罪を企てる者全般に警告し、犯罪実行意思を抑制する作用ということになるのでしょう。このように分節化すれば、この作用が効果的に発揮されるためには、刑罰はできるだけ威嚇的に発動されねばならないということが理解できます。よって、このような抑止を強調する刑罰論は、厳罰化論と結ばれやすいわけです。結局、この抑止刑論とは、政治的にとらえれば、処罰の恐怖によって社会秩序を維持せんとする恐怖政治(reign of terror)の問題系に属していることもわかります。
特に極刑と位置づけられる死刑に関しては、この抑止力の問題が盛んに論じられてきました。死刑にはとりわけ、殺人抑止力がありやなしや?ということで、肯定・否定双方の「実証研究」が提出されてきたのですが、現在では「否定」、少なくとも、死刑に(他のより穏やかな刑罰と比べて)格別な抑止力は肯認できないという結論に落ち着いているようです。注2
ただ、この抑止力というものは本当に「実証」できるのでしょうか。抑止力に関する「実証研究」とされるものは、死刑がある場合とない場合とで殺人罪の発生件数(または発生率)に影響するかという視点で調査されるのが普通です。しかし、このように発生した事件数を基準にとって抑止力なるものが果たして「実証」できるのでしょうか。抑止とは、先に分節化したように、刑罰の恐怖により犯罪の発生を抑えることを意味します。そうだとすると、刑罰の抑止力が働いているかどうかは、「起きた犯罪」よりも―「起きた犯罪」はむしろ抑止の失敗を裏書きする―、「起きなかった犯罪」を基準に検証しなければならないはずです。つまり、刑罰の恐怖、とりわけ死刑の恐怖によってどれだけの犯罪が起きなかったのかということです。
しかし、「起きなかった犯罪」をどうやって認識できるのでしょうか。アンケート調査で、「あなたは刑罰の恐怖から、犯罪を断念したことがあるか」などと尋ねるのでしょうか。このいささか滑稽な方法は辛うじて有望かもしれませんが、大量的・統計的実数把握には限界があるでしょう。刑罰の抑止力のお蔭様で起きなかった犯罪は、要するに、いわゆる「事件」として立件されないのですから、正確な把握は所詮無理なのです。抑止力とは検証不能な命題であり、その点をとらえれば、検証可能性のない「疑似科学」的概念であるとさえ言えます。注3 また、しばしば死刑廃止論の根拠にも援用されますが、死刑には「特有の」抑止力がないとする議論も、一般論として刑罰には抑止力があるということを前提とするのであれば、抑止力の大小(程度)をどうやって計量するのかということがさらに問題となってくるはずです。しかし、それは無理難題というものでしょう。
なお、死刑の抑止力が専ら殺人罪との関係でばかり議論されるのも疑問で、日本刑法上も死刑は、外患誘致罪など殺人を伴わない罰則でも法定されているのです。ちなみに法定刑が死刑しかない唯一の罰則である外患誘致罪はこれまで一度も適用例がないことでも知られていますが、外交防衛問題と密接に関連する外患誘致が起きないことも専ら死刑の抑止力のお蔭だなどとはとうてい言えないでしょう。 
結局、抑止力とは、冒頭で先取りしたように、一つには恐怖政治に連なる政治心理的な統治の手段であり、また、社会的な文脈では抑止力と称されるものを「信じる」かどうかという信念の問題に帰着するでしょう。それを「信じる」なら、抑止力は「ある」のです。注4 これでは、神の存在論と同じです。
このことから、しばしば抑止の論理が応報のマントとして使用されることも理解できます。前にも引用したメニンガーが「抑止理論は応報の仮面である」と看破する所以です。実は、抑止という語で、犯罪者への報復が正当化されているのです。それは要するに、「見せしめ」ということです。「見せしめ」による抑止として、報復と抑止とが裏で手を取り合うわけです。こうした考えは古くから検察官層に見られるようで、ヴィクトル・ユゴーは「フランスの五百の検事局の論告が千篇一律に用いる」このような「見せしめ=実例論」を厳しく批判していたところです。注5
ここでも視座の転換をしてみましょう。私たちは「抑止力」というような「疑似科学」を離れて、より科学的な「犯罪の防止」を課題にすえようと思います。ただし、この「抑止」(deterrence)と「防止」(prevention)はしばしば混同されています。しかし、両者は区別されるべきものであります。
「抑止」とは、まさに刑罰固有の効用として存在すると信じられている一種神秘的な効用でした。抑止はどこまでも刑罰制度と切り離すことはできず、刑罰制度の正当化根拠として繰り返し現れるモチーフなのです。それに対して、「防止」は、刑罰と直結するものではなく、犯罪の発生を防ぐ社会的実践過程を言います。抑止は「力」として刑罰を通じて強制発動されるものですが、防止は単なる「力」ではなく、人間の集合的営為です。それはさらに、@犯罪発生要因の除去とA再犯防止の二つに大別できます。
犯罪発生要因の除去とは、犯罪の温床となるようなあらゆる社会的・経済的要因の除去を意味しますが、医療的な比喩を用いれば、それにも根幹治療と応急処置とがあります。前者は、社会経済政策の適切な是正・変革を通じた政策的な対応を意味します。犯罪の発生要因を社会的・経済的に抉る最も深い次元での犯罪防止策です。注6 それに対して、後者の応急処置的対応は、その場限りのいわゆる「防犯対策」で、典型的には犯罪多発地帯への防犯カメラ設置のような例です。この応急処置的対応なら今日でもしばしば過剰なまでに実践されています。前者の根幹治療的対応は何といっても厄介であり、高度の総合的分析力と時間を要し、とりわけ犯罪の背後に現存社会の構造的問題の存在を認めようとしない現状保守的な価値観とは相容れない面が強いために、敬遠されがちで、えてして後者の応急処置に依存する傾向があります。しかし、犯罪防止の真髄はあくまでも前者の根幹治療的対応にあることは強調しておかねばなりません。至るところに防犯カメラを設置して「安心感」に浸る「監視社会」は、こうした応急処置依存の最も戯画的な形態なのです。注7
次に、再犯防止とは文字通りに、犯罪を犯した人そのものに焦点を当てて、その人が再犯に陥ることがないように働きかけを行うことです。これも、不充分ながら現在でも実践されていることは周知のとおりですが、抑止という「力」に依存する刑罰制度においては、再犯防止ということもまた行動抑制という次元で構想されがちであるために、それはどうしても監視的な趣きを呈します。犯罪の科学においても、一部の常習的な犯罪行為者に対しては、動静監視的対応の必要は否定されません。ただ、それはあくまでも例外であり、再犯防止は、個々人の犯罪素因を精査したうえで、決して完璧ではあり得ない現存社会で何とか犯罪を繰り返すことなく生活していくための後押しとして計画的に実行されなければなりません。そのためにも、社会内に犯罪誘発要因が構造的温床として残存していては再犯防止は絵に描いた餅となります。ですから、先の根幹治療的な犯罪発生要因の除去が同時的に実行されて初めて再犯防止も意義を持つのであり、結局、犯罪防止策は対社会的な対応と対個人的な対応とが有機的に連関して初めて実効性を持つと言えるでしょう。
まとめますと、私たちは、刑罰制度を所与の疑いなき大前提とする現行の抑止―監視という旧来の犯罪対応から離脱して、犯罪をより科学的に分析したうえでより効果的な犯罪の防止を図る非処罰のプロジェクトへと移行することを真剣に考慮すべき時機にあります。ではあるのですが、社会にはどうしても刑罰というものに後ろ髪を引かれる想いもまた根強いのです。そのわけを検証する作業がまだ残されています。
注1
それで、しばしば「相対的応報刑論」などと曖昧に呼ばれている。
注2
「死刑の犯罪抑止力」(辻本義男執筆)、法学セミナー増刊『死刑の現在』(日本評論社)所収266−267頁参照。
注3
論理実証主義的な考えによれば、検証不能な命題は科学的でないということになる。もちろん、検証できない命題が真であることもあり得るという立場も成り立ち得るが、ここではこうした科学哲学的な議論に立ち入ることは避ける。
注4
前掲注1文献は、死刑の抑止力が現れる二つの場面を区別し、一つは「死刑のリスクと死刑相当犯罪の発生率の相関性」という命題のほかに、「ある犯罪に対する死刑の存在が人々に与える「教化」的な影響」という命題があるとする。この後者こそが、「信仰」の対象としての「抑止力」であるとも言えよう。
注5
ユゴーの批判は、見せしめといったところで、「群集を避けて寂寞の地を選び、白昼よりも薄明の頃を好んでいる」死刑、すなわち秘密の執行にどのような見せしめ効果があるのかを問う。ヴィクトル・ユーゴー著/豊島与志雄訳『死刑囚最後の日』(岩波文庫)の「序文」158頁以下参照。日本の密行的死刑政策にも妥当する批判であろう。
注6
この文脈では、究極的な対応として「社会革命」ということも、単に比喩でなしに視野に入ってくるであろう。
注7
監視カメラは犯行を企図した者がカメラの存在に気づかなければ実行阻止のきっかけにはならないのであって、実際には「防止」よりも犯行場面そのものを撮影した「証拠」としてより役立つものである。その意味で「防犯カメラ」という命名自体にも疑問がある。

2007-06-14
第三部 非処罰の文化構想(十五)
☆前回記事
【3】非処罰への予備的考察
A犯罪の科学―(E):脱モラリズム
非処罰のプロジェクトが、なかなか現実のものと認識できず、「犯罪者野放し」といった一方的イメージでとらえられやすい理由を究明する作業にたどり着きました。
ただ、これもそう難しいことではなくて、実は「犯罪」という語そのものの中に秘密が含まれています。すなわち、犯罪とは「罪を犯す」という非常に道徳的意義を持つ用語であるのです。日常「犯罪」という語を用いるときはさほど強く意識していなくても、私たちはこの語を道徳と強く結びつけています。であればこそ、「犯罪者」は糾弾され、―場合によっては強制的な死をもってしても―その「罪」は償われねばならないとなるわけです。「抑止」の衣をまとってはいても、刑罰にはこうした道徳的糾弾と償いの生贄という要素が濃厚に含まれています。刑罰を無くせなどという主張は、糾弾すべき犯罪者を野放しにするに等しく、怪しからん・・・。そんな反発も出るわけです。
ちなみに、犯罪は英語でcrimeですが、この語と道徳的な罪を意味するsinとは区別されています。前者は、罪というよりは刑法違反というイメージであって、道徳的というよりは法的な含意が強いと言えます。注1 日本語の犯罪という語は、後者のsinの訳語としてよりふさわしいのですが、歴史的に前者のcrimeの訳語として定着を見ています。ここに、日本社会における特質、つまり道徳と法の未分化という状況を見ることができます。犯罪という語は、モラリシュに把握された法的概念という意味では、「刑法違反の(道徳的)罪」と分節することも可能で、このほうが道徳と法の未分化状況をよく表現できるかもしれません。
ただいずれにせよ、この未分化状況は犯罪(=crime)を実行した犯罪者(=criminal)に対する刑罰(=penalty)の可否と量を審理する法裁判自体をも「道徳化」しがちです。刑事裁判の判決文を読むと、そこには「自己中心的」「凶悪」「卑劣」「鬼畜」「人間性を欠く」等々、過剰とも言えるほどの道徳的糾弾の表現を見出すことができるでしょう。このような用語は法律の条文には全く記述されていないものですが、判決文には頻繁に現れて、重い量刑を正当化する理由付けにさえなっているのです。ここで審理されているのは、crimeというよりは、まさにsinなのです。日本の刑事裁判所は一種、宗教裁判所の性格すら帯びているのではないかとさえ思えるほどです。
こうした犯罪という道徳的把握が、根源的には良い/悪いという倫理学的二分法に由来していることは言うまでもないでしょう。犯罪とは「悪い行い」なのです。それに対して“凶悪で卑劣な”犯罪者を相応に罰することは「良い行い」のです。
この良い/悪いという二分法のモラリズムは、ある意味からすれば文明化の証しです。人間以外の生物はこのような二分法を持ちません。また人間自体も、極めて「原始的」な時代にはこうした二分法をまだ確立していなかったに違いありません。そういう意味で、これは一つの文明化です。
けれども、この「文明的」二分法を一切反省に供さなくてよいというわけではありません。これは相当に勇気も必要とすることですが、その勇気ある行動に出た一人が、ニーチェでした。『道徳の系譜』に収められた三つの論文の中でも特に、第一論文「「善と悪」・「よいとわるい」」は、まさにこの良い/悪いの定式に対して批判的分析の矛先を向け、次いで第二論文の「「負い目」・「良心の疚しさ」・その他」では、刑罰の意義に対しても包括的で鋭い疑義を突きつけています。
ニーチェは、良い/悪いを下層民の反感の表出と見ていますが、注2 そうした「階級」論的な切り分けとは別に、これを大衆の道徳的劣等感の転嫁と見ることもできるでしょう。日頃さして「善行」として社会的に評価されるようなことをしていない私たちは、「悪行」に手を染めた人間を見ると、ある種の優越感に浸って、高みから糾弾したくなるということはないでしょうか。注3 世上、「凶悪」と名指される「犯罪者」に対する社会の糾弾ぶりを見ていると、そのような道徳的優越感の高揚を感じることがあります。それは「良いこと」と「悪いこと」とは明別できるという常識論的独断をも前提としています。刑罰制度は、そのような素朴倫理学を恰好の宿主として養分を吸います。一般市民が裁判に直接に参加するいわゆる裁判員制度でことさらに「常識」判断の意義が強調されているのも、こうした角度から見れば、その深層が読めてきます。刑罰制度を強化して体制引き締めを図るには、そうした素朴倫理学に寄生するのが一番手っ取り早いのです。
私たちは、およそ人間の行動を評価する際に、良い/悪いという二分法を―否定するのではなく―いったん括弧に入れて判断停止状態にしてみる必要があります。そのうえで、その行動はなぜ起きたのかという原因やどのようにして起きたのかという経緯の究明をすべてにおいて優先するのです。このような態度は、科学という文明をも手中にした現代にふさわしいことと言えないでしょうか。
私たちはある物理学的事象(例えば、大地震)が起きたときに、それ(大地震)が良いか悪いかなどという愚かな問いは発しません。それはなぜ、どのようにして起きたかと問うはずです。同じことがいわゆる犯罪についてもできない理由はありません。ただ、AがBを殺したとき、それを「犯罪」というモラリシュな語でとらえることが、このような科学的究明の発想を阻止して、真っ先に道徳的糾弾へと赴かせてしまうのです。
そこで、非処罰のプロジェクトへの予備的作業の最終段階として、私たちは「犯罪」という道徳的な把握の仕方と決別しようと思います。これまで「犯罪」と呼ばれてきたものは、既に随所で触れてきたように、決して単に道徳に反する振る舞いなのではありません。それは、人が為す物質的な侵害であって、その侵害は、社会現象として観れば、社会経済構造の産物であり、個人の行為として観れば、有機的生物としての一つの行動であると同時に、それ自体も社会経済構造の所産である個人の意識的及び無意識的行動でもあります。それを「反道徳的」とみなすのは、個人としての行為に対する事後的な評価であって、決して侵害の本質を突くものではありません。
にもかかわらず、「犯罪」というとらえ方にこだわると、私たちはこの事後的道徳的評価を本質把握と錯覚し、複雑な発生メカニズムを持つ「侵害」現象の本質をつかみ損ねることになるでしょう。それは非科学的であり、科学という文明化を否定できない今日の水準に合致しないことです。それゆえ、「犯罪」という語そのものと、ここで離別してしまう必要が出てきたのです。
その代わりに、「侵害」(harm)という語を用いることにします。よって、侵害を実行した者は、「侵害行為者」などと言ってもよいのですが、あくまでも法に違反した侵害のみを問題とするという意味では、「違犯者」(offender)と呼ぶのが妥当かと考えます。当然にも、「犯罪者」という語は廃棄されます。それは、日常生活上の喧嘩言葉や罵詈雑言としては残るかもしれないですが、「侵害」に対する公的対応を省察する場からは一掃されるでしょう。
このような新しい用語法を、さしあたりは次章以降で自分自身に課すことになりますが、やがてこれを世界全体に押し広げていくことが、究極的な(グローバルな)非処罰のプロジェクトということになります。
本部は「非処罰の文化構想」と命名されておりますが、もっと踏み込めば、非処罰は一つの文化革命という歴史的意義を持つでしょう。それだけ、刑罰という制度は地球上に遍く普及しており、人々の意識にも抜きがたく固着しているからです。フーコー風に言えば、刑罰とはまさに「遍在する権力」、人々の頭の中に抜き難く刻み込まれた権力です。それとの対決が、非処罰の文化構想にほかなりません。
「社会は、刑務所ならびに刑務所の看守たちからなる、このたいそう費用のかさむ装置を手放そうとしないのです。そして、誰かがその装置を批判したり、その不条理を指摘しようとしたりした時に、権力者どもの立てる目くじらといったら!社会全体もまた目くじらを立て、挙げ句はプレス・キャンペーンの嵐です。」注4
注1
「責任」という語に対応させるならば、crimeはresponsibilityに、sinはguiltynessに照応するであろう。しかし、日本語の「責任」という語はこれ自体が極めて曖昧で、ここにもやはり法と道徳の未分化現象が見られる。ただし、実は英語においても、guiltyは「有罪」という法的責任の所在を指示する語でもあり、刑罰制度の中にモラリズムが混入している。なお、「責任」の様々な位相については、ホセ・ヨンパルト『人間の尊厳と国家の権力』(成文堂)215頁以下参照。
注2
「すべての貴族道徳は勝ち誇った自己肯定から生じるが、奴隷道徳は「外のもの」、「他のもの」、「自己でないもの」を頭から否定する。・・・・・・・評価眼のこの逆倒―自己自身へ帰るかわりに外へ向かうこの必然的な方向―これこそはまさしく《反感》の本性である」。ニーチェ「「善と悪」・「よいとわるい」」、ニーチェ著/木場深定訳『道徳の系譜』(岩波書店)所収37頁。
注3
ニーチェはある種の「階級論」的分析をしてみせる第一論文とは別の角度から、「実際の刑罰権・・・・がすでに「お上」の手に移っている場合」における「人の軽蔑され虐待されるのを見るという優越感」を指摘している。上掲注2著書所収第二論文「「負い目」・「良心の疚しさ」・その他」72頁参照。逆に「お上」からすれば、見せしめることで、大衆の優越感を刺激もできるわけである。
注4
ミシェル・フーコー「大がかりな収監」、フーコー著/小林康夫ほか編『フーコー・コレクション4』(筑摩書房)所収61頁。

2007-06-26
第三部 非処罰の文化構想(十六)
☆前回記事
【4】更正/更生モデル
刑罰は人間を手なずけはしても、人間を「より善く」はしない。
―フリードリッヒ・ニーチェ
@モデルの意義
本章では、前章までの考察に基づき、侵害注1 に対する刑罰によらない対応法についていよいよ具体的に述べることにしたいと思います。手始めに、この新しい対応法を簡単に標語的にまとめるならば、現在でも圧倒的に優勢な「刑罰モデル」に対して「更正/更生モデル」ということになります。
更正と更生は同音異義語で紛らわしいですが、前者の更正は侵害の要因を作出した社会構造そのものを是正すること、後者の更生は既に刑罰制度のもとでも限定的には実施されているように、違犯者に対して働きかけてその立ち直りを支援していく活動のことです。ただ、それぞれについての詳論を展開する前に、更正/更生モデルの一般的な意義について述べておこうと思います。
刑罰によらない対応法、つまり刑罰廃止といいますと、えてして侵害に対して何らの対応処分もしないというようなイメージを持たれがちです。これはここで述べる更正/更生モデルに関する限りは誤った認識なのですが、誤解されることにも一理はあります。というのも、刑罰廃止論―これ自体が稀ではありますが―の中にはそのように何らの対応処分もしないという立場―これを「無為論」と呼びたいと思います―も見られるからです。
このような無為論の中でも徹底したものとして、中国の老子を挙げることができます。ご承知のとおり古代の東洋思想ですが、老子の有名な箴言として「天網恢恢、疏にして失せず」というものがあります。意味は、「刑罰のような人為の法とは異なり、天(自然)の法網は木目が粗いが決して見逃さない」という趣旨に解されています。注2 ちなみに老子は、別の箴言では死刑にも懐疑を示し、刑罰ではなく、自然の摂理こそが秩序を乱す者を殺すのであって、それを人為で行おうとすれば自分の手を傷つけるのがオチだという趣旨のことを述べています。注3 老子は死刑も含めて、人為的な刑罰制度には否定的であり、違犯者の処置は自然の摂理に委ねるべきだとするのです。このような立場が、東洋思想内部でも峻厳な人為の法を強調する「法家」の立場と鋭く対立することはもちろんです。老子の場合はそのキーワードとも言える「無為」が基本ですから、ここでは侵害に対して積極的な対応を為さない立場を無為論と名づけておいたのです。
更正/更生モデルとはこのような無為論とは明確に一線を画するものです。たしかに哲学として、老子には深遠なものがあります。少なくとも、刑罰を当然の絶対法則のように刻み込んでいる固定観念から自由になるための解毒剤としては資するところ大でありましょう。なるほど、どんな重大な侵害を犯した者であろうと、必ずいつかは死するという厳然たる事実からすれば、「天網」はやはりどこかで働いているのかもしれません。しかし、侵害への対応を「天網」に頼り切るというわけにはいかず、無為論はポリシーとしては無理でありましょう。
ただ、刑罰廃止論の中には、老子のような純然たる無為ではないものの違犯者への有罪宣告以上の対応は為すべきでないことを主張するものがあります。例えば、刑罰廃止を主張する刑法学者の澤登佳人は「人が刑罰を恐れるのは、刑罰そのものより、犯罪者の烙印を押されて家族や世間の信用を失い、家庭を崩壊させ、それまで営々と築いてきた社会的地歩を瓦解させること」だとして、「犯行抑止のためには、あえて刑罰を用いずとも、判決によって犯人の有罪を公表するだけで十分である」と主張しています。注4
しかし、この見解には依然として「抑止力」という神秘の力への未練があるようであること、注5 またこれでは有罪判決を宣告することが「社会的地歩を瓦解させる」一種の「制裁」としてなおも措定されるわけであり、犯罪→制裁という刑罰制度の根幹を除去することにはならないことが問題です。もっとも、「犯罪は元々一般に、何らかの社会の仕組みからの落伍現象である」ととらえる澤登も、「「犯罪者でなく社会のほうを改善して、自由を制限せずに犯罪を生み難くし、不幸にして生んだら犯罪者を拒否せず進んで受け容れる」という社会の真の責任のとり方」を提唱しています。注6 大きな方向性としては正当な面があるにせよ、これでは違犯者に刑罰よりも弱い制裁を加えて後は社会が抽象的に「犯罪者を受け入れる責任」を取れというに留まります。しかし、「犯罪者」に対する「制裁」という発想を維持していては、結局、「制裁」をもって片を付けようとする社会は更正されず、かつ有罪宣告以上には何ら積極的働きかけもなされない違犯者も更生せずという結果になりかねません。刑罰制度批判はよいとして、その具体的なフォローがなければこれも一種の無為論―ただし、「天網」に委ねるわけではないので、老子の「積極的無為論」に対して「消極的無為論」とでも呼び得るでしょうか―に帰着すると言わざるを得ません。
一方近年、英語圏を中心に現れている刑務所廃止運動(prison abolition movement)注7 のコンセプトの中には、もう少し踏み込んで刑罰廃止後のフォローを試みようとする立場も見られます。例えば、米国で刑務所廃止を唱導しているCritical Resistanceは次のように説明します。
「実際のところ、われわれは侵害に対する反作用としての監獄の支配が多くのオールタナティブの発展を妨げてきたことを知っています。」「他者に重大な侵害をした人たちは、適切な形態のサポート、指導監督、社会的経済的保護手段を必要としています。」注8 
また、英国の刑務所廃止運動体No More Prisonでは、活動目的の一つをこう掲げます。
「処罰よりも社会的かつ地域的な福祉に焦点を当てた、監獄に対するラディカルなオールタナティブを推進すること」
一方、カナダに本拠を置くPRISON JUSTICE. CAでは、「刑務所廃止論者のための9か条」の中で次のように主張しています。
「刑務所廃止論者は個人の生活に対する最小限の強制と介入、そして社会のあらゆる人々に対する最大限のケアーとサービスには賛成する。」注9
これらの言明には二つの重要な問題点が含まれています。一つは、刑罰廃止後の新しい対応の具体的内容が依然抽象的、綱領的に留まっている限り、やはり先ほどの消極的無為論の一種となってしまうのではないかということです。刑務所廃止を唱える以上は、「適切な形態のサポート、指導監督、社会的経済的保護手段」、あるいは「社会のあらゆる人々に対する最大限のケアーとサービス」、「社会的かつ地域的な福祉」の内実を詳細に解明・提起する責務があるでしょう。
もう一つは、刑罰の「オールタナティブ」(代替策)を探索すべきなのかということです。単に刑罰の代替ということになると、それは刑罰の代用品として刑罰と同等に機能するものでなければならないということになります。この点、No More Prisonでは「ラディカルなオールタナティブ」と言っていることが注目されます。単なる(ラディカルでない)代替策という発想で進んでいくと、例えば違犯者の社会的危険性を根拠に身柄を拘束する「保安処分」の積極的活用に道を開く恐れもあります。この論題については稿を改めて議論してみます。
注1
「侵害」という用語法について、前章第2節(E)を再度参照のこと。また、本サイトの「プロフィール」も参照。
注2
『老子』(講談社学術文庫・金谷治訳)220−221頁参照。
注3
同上223−224頁参照。
注4
澤登佳人「監獄はなぜ存在するのか」、法学セミナー増刊『監獄の現在』(日本評論社)所収8頁。
注5
抑止力の疑似科学性については、前章第2節(D)を参照。
注6
注4文献10頁。
注7
刑務所廃止論は、刑罰廃止論と必ずしも一致しない。例えば、刑務所は廃止すべきであるが、死刑や罰金刑は存置すべきであるという主張も論理上はあり得るからである。ただ、刑罰の中核が自由刑、すなわち刑務所収容にあるという事情は各国共通であり、刑務所廃止は事実上刑罰廃止に直結するであろうし、実際上、刑務所廃止論者が一方で死刑には賛成であるという例はほとんどない。それにしても、刑罰というコンセプトそのものを否定するならば、「非処罰」(non-punishment)と表現したほうがよいであろう。
注8
http://www.criticalresistance.org/article.php?id=37
注9
http://www.prisonjustice.ca/politics/abolition_alternatives.html

2007-07-07
第三部 非処罰の文化構想(十七)
☆前回記事
【4】更正/更生モデル
A反オールタナティブ
前節の末尾で、刑罰のオールタナティブを探索すべきなのかということを提起しました。オールタナティブとは代替物ということですから、それは普通に考える限り、刑罰と同等の効果を発揮するものでなければならないことになるはずです。そのように把握されたオールタナティブとして、保安処分(社会防衛処分)があります。これは、「社会」を防衛するために、「社会的危険性」を持つ者を施設に隔離するという処置であり、19世紀の終わりごろから応報的な刑罰制度の代替策(ないしは補完策)として強く主張されるようになりました。
そのような立場の最も純化されたものが、イタリアの犯罪学者、エンリコ・フェリーの提案したイタリア刑法草案(1921年)でした。フェリーは、犯罪原因論として、「犯罪は物質的、地理的、人類学的、社会的因子の総合的産物である」という立場に立って、応報刑論が前提とする自由意志論を「全くの幻想」と斥けたうえで、刑罰に代替する「制裁」への一元化を提唱したのでした。注1
このフェリーの影響下に、ロシア革命後の1921年、ボリシェヴィキのロシア革命政府が制定した新刑法は、世界で初めて刑罰を持たず「社会防衛のための法的‐矯正的方策」のみを定めた―従って、「刑法」というよりは「処分法」―画期的な立法でした。しかし、一方でこの法律には「銃殺」の規定もあり、これは理論上「死刑」に非ずとされながらも、反革命勢力との対峙状況の中で反体制分子―これはまさに革命政府にとっては最大の危険分子です―や反逆者に対する抹殺処分の根拠ともされていくのでした。注2
ちなみに、社会的危険性という視座で見るならば、危険性があれば法に規定されない行為を為した者も処分されるべきだということで、罪刑法定主義のような原則は無用とされ、削除されたのが初期ロシア「刑法」の大きな特質でした。しかし、さすがにこのような規定は恣意的であるという意味でそれこそ「危険」であり、後にソ連体制自身も撤回し、罪刑法定主義に基づく刑罰‐処分二元主義という折衷策へ落ち着いたとされます。注3
この保安処分のようなオールタナティブは、刑罰に代えて、ある意味では刑罰以上に「効果的」な別の抑圧制度を導入するという構想であって、非処罰プロジェクトの正当な方向ではありません。保安処分の構想にあっても、社会は善であると前提されています。社会性善説です。とりわけ、革命によって創出されたと称される社会では、新社会はよりいっそう「理想郷」であるとのプロパガンダにさらされやすく、理想郷を危機に陥れる有害分子は隔離または抹殺するほかはないということになっていきがちでした。
しかし、このような保安処分の発想は、現行刑罰制度にも一部流れ込み、オーバーラップされて、刑事判決においても、「社会に与える危険」とか、「矯正不能」といった応報的非難とは別種のロジックが補強的に使われることもあります。日本でも近年、刑法39条が適用され責任能力を問うことのできない違犯者を審判により強制的に治療に付することを趣旨とした「医療観察制度」の創設が行われましたが(2003年)、これも限定的な範囲で保安処分の構想が一部表出されたものにほかなりません。そういう意味では、この社会防衛―保安処分という発想は、オールタナティブというよりは刑罰類似物による「置き換え」に過ぎないのです。別言すれば、「対案権力」の提示なのです。刑罰制度内部の議論においても例えば、死刑の代替策としての(仮釈放なき)終身刑といった「オールタナティブ」構想が語られることを批判的に検討したことがありましたが、これも志向性としては同じ系列の発想です。
ここで、近代監獄制度の思想的根底を抉ってみせたミシェル・フーコーの次の警告を振り返ることはなお有益と思われます。
「処罰のための方策として、刑務所はまことに嫌悪すべき方法である、という考えは今や一般に認められている。犯罪を抑止する手段として、処罰というものは恐らく非常に良くない方策である、という考えもまた認められるべきであろう。しかしとりわけ、公衆安全のための確固たるメカニズムによって犯罪を予防するのがよい、という結論をそこから引き出してはいけない」注4
以上に対して、全く別方向とも言えるオールタナティブもあります。近年有力なものとして「修復的司法」(restorative justice)の構想を挙げることができます。これは、違犯者と被害者側の間で慰謝の直接的なやり取りを通じて、その関係の修復(和解・ゆるし)を目指す試みで、本書でも、その最も壮大な実験的取り組みとも言える南アフリカ共和国の「真実と和解委員会」を紹介しました。注5 ただ、こうした政治的事案への適用はむしろ例外で、一般的な侵害の解決において「処罰と抑止」に代わるアプローチとして、修復的司法が提起されることも多くなってきました。注6
現在のところ、刑罰を廃止したうえですべてをこの「修復」に置き換えたという立法例は筆者の知る限りないようですが、米国では30の州で修復的司法に言及する法律が存在するとの報告もあります。注7
たしかに、この修復という発想には保安処分に見られるような抑圧的な要素は見られません。しかし、侵害という現象の解決を加害者―被害者間の交渉に切り縮めるのは、やはり社会性善説に立っているように思われます。通常、「修復」の過程では、侵害を被った被害者側が道徳的優位に立ち、侵害を与えた違犯者は被害者側にゆるしを請う者として処遇されるはずです。修復的司法の理論においても、侵害の社会的・経済的要因は考慮の外にあるように思われますが、そうだとすると、これは所詮あの応報刑論が緩和され、穏健化された別の顔―そういう意味での「オールタナティブ」―ではないかとも疑われます。
修復は、基本的に違犯者側に謝罪の意思が存在する場合にしか機能しないでしょうし、かつ被害者側に一定の寛恕の気持が芽生えていない限り、成功もしないでしょう。結局、頑固に謝罪の意思を示さない違犯者にはなお刑罰的処置を施す以外にないということになりはしまいかとも思われるのです。注8
実際、現行の刑罰制度の枠内でも被害者側への謝罪と被害者側の宥恕が違犯者への量刑を軽くする事情として援用されることがあり、非公式的な形では現在でも一種の「修復」は実践されているのですが、殺人のような重大な侵害では、被害者側の感情が厳しいことも少なくないことから、修復は困難な場合が多いであろうと考えざるを得ません。
もっとも、この修復は違犯者及び被害者側の更生に向けた働きかけのプロセス中では、その趣旨を生かすことができるかもしれません。その意味で、謝罪と宥恕というプロセスが、侵害への対応として全然無用であるというわけではないでしょう。しかし、それ以前に、侵害を社会的・経済的文脈の中に位置づけて考えることが優先されなければなりません。
この点で、刑罰のオールタナティブという発想には、すべて侵害の社会的・経済的要因の非考慮という共通した問題が伏在しています。一般的には社会構造論的犯罪学の祖とみなされる先のフェリーでさえ、その結論においては、危険分子から社会を守るという社会防衛論に終始したのでした。修復的司法の場合には、そもそも侵害を社会構造との関連で考察するという視座そのものを欠いているのではないかと思われます。その点だけを取り出す限り、応報刑論以上に侵害の把握の仕方が「個人主義的」なのです。例えば、ある論考では「犯罪の本質は、人々と人々の間の調和的な関係の侵害である」と規定されています。注9 この理論がしばしば宗教的な言説の中で語られることも不思議なことではありません。注10
現存社会に適応し、そこに一定の「居場所」を占めて生活している人たちは誰しも、この社会に欠陥があるとは認識したくないものです。それを認めることは、自分自身の存在価値や威信を低下させるからです。そのため、刑罰制度の克服を構想する場合でも社会の歪みを正すという発想を忌避しがちですが、非処罰プロジェクトとは、単に刑罰の代替物を探すことではなく、侵害を社会的な視点から科学的にとらえ直し、新たな対応制度を提起することを意味するということはここで強調しておきたいと思います。そのために社会性善説を乗り越える必要があります。侵害の根本要因を社会体の中に求め、その是正策を提起すること、それが「社会の更正」であります。その具体的概要は次節にて述べられます。
注1
フェリーに関しては、さしあたり、藤本哲也『刑事政策概論(全訂第5版)』(青林書院)89−90頁、大塚仁『刑法概説・総論(第3版増補版)』(有斐閣)25頁参照。
注2
ジャン・アンベール著/吉原達也・波多野敏訳『死刑制度の歴史』(白水社)108−109頁参照。
注3
上掲注1大塚54頁参照。
注4
ミシェル・フーコー「ミシェル・フーコー―法律について監獄について、すべてを考え直さねばならない」(阿部崇訳)、『ミシェル・フーコー思考集成8 政治・友愛』(筑摩書房)所収427頁。
注5
第三部第2章参照。
注6
修復的司法をテーマとする書籍の公刊は近年目立っているが、中でもハワード・ゼア著/西村春夫ほか訳『修復的司法とは何か―応報から関係修復へ』(新泉社)がリーディングと思われる。
注7
参照、http://en.wikipedia.org/wiki/Restorative_justice#History
注8
この点で、死刑廃止論において、しばしば「生きて償うべきである」という償いの方法論から死刑の不当性を理由付けようとする立場があるが、この議論の限界は、「生きて償う」意思のない者にはかえって死刑の妥当性を認容してしまいかねないことにある。
注9
参照、http://www.peaceworkmagazine.org/pwork/0499/049910.htm
注10
米国における修復的司法の先駆者とされるハワード・ゼアは特に聖書的基礎付けを重視する。参照、http://homepage.mac.com/s_igusa/VORP/Personal91.html

2007-07-22
第三部 非処罰の文化構想(十八)
☆前回記事
【4】更正/更生モデル
B社会の更正
侵害の社会的要因を析出して、社会の更正を図ること。これが、更正/更生モデルの真髄でした。しかし、この作業は闇雲に実施しようとしても、それこそ雲を掴むようなことになりかねません。そこで、分析の視座を定めておく必要があります。
そうした視座の一例として、ここでは、根本要因―制度要因―特殊要因という簡潔な三つのレベルに整理してみます。注1
(一)根本要因
これは、侵害を惹起させた根源的な要因レベルのことを意味します。その際、さらにすべての侵害に普遍的な要因を煎じ詰めて析出していくと、これは結局、次の三つに集約できます(三大根本要因)。
α:貨幣/商品経済
毎年発生する侵害のうち、大多数を財産犯、中でも窃盗が大半を占めているということ、注2 また、他の侵害の多くでも利欲的動機、すなわち貨幣取得が目的であるという事実は、侵害の大多数の根本要因が貨幣/商品経済にあることを示しています。
貨幣なくしては生活できない。この命法は貨幣窃取の動機を成しますし、また貨幣と交換せずに商品を窃取する動機をも形成するでしょう。またより多くの貨幣を蓄積することが生活の豊かさを保証する。この命題は貨幣詐取―それは保険金目的殺人などの重大侵害にもつながる―の強い動機を形成するでしょう。明快なことです。逆言すれば、貨幣/商品経済を廃止するだけで、相当量の侵害を防止できるのです。
かつて、マルクス主義者らは「資本主義」に「犯罪」の根本要因を求め、社会主義革命が「犯罪」の究極的防止につながると主張しましたが、「社会主義」であっても、貨幣/商品経済が温存されるのであれば、状況は同じです。ただ、適用法条が私有財産に対する窃盗かそれとも、国有財産に対する領得かといった相違が生じるだけです。
β:男性支配秩序
性的侵害はむろん、注3 殺人や傷害といった身体的侵害でも、女性の被害が少なくないということ、注4 しかもその場合、加害者が男性であることが多いという事実は、男性による女性に対する暴力行為の多さを意味します。その根底には単に、体力的に男性のほうが女性より強力であるといった生物学的事実に留まらない男性支配秩序の存在があります。
男性支配は、前近代的な女性蔑視風習という形態を取らずとも―そういう形態が根強く残っている諸国・地域もありますが―、先進社会においてすら政治・経済の諸制度の中になおも息づいています。
このような社会的力関係の非対称性は、男性に対して、女性を自己の意に従わせるための暴力の対象とする動機を形成させます。性的侵害のほとんどはこれで説明がつくでしょう。また、風俗営業目的の人身売買も、ほとんどは女性を男性にサービスさせる形態ですから、同様に理解できます。注5
γ:社会的排除事象
判決等で「反社会的」と評されるような事案では、しばしば違犯者に社会総体に対する強い恨み・憎悪感情の蓄積が見られます。これは、その侵害を惹起させた社会が、様々な歴史的・社会的事情から特定の集団または個人を排除し、周縁化している構造が根本要因としてあります。集団的に排除される場合は、社会的差別事象(discrimination)となりますが、特定個人の排除である場合は社会的孤立化事象(isolation)となります。
こうした侵害は例としては必ずしも多くありませんが、大量殺人など稀に見られる深刻な侵害事案の中に散見されるでしょう。テロリズムの根底にはしばしば社会的差別事象が見られますし、メディア上で「動機なき殺人」などと形容される単独犯の事案においても、深層にはこうした社会的排除の結果としての、社会的孤立化が見出されるのです。
(二)制度要因
以上に対して、具体的な社会制度のレベルで侵害の発生に寄与する制度要因があります。これにも二種を区別できます。
T:一般諸制度
リストの箴言、「最良の刑事政策とは最良の社会政策である」にもあるように、一般社会政策とそれに基づく諸制度は侵害防止の資源であると同時に、それの不備・欠陥は侵害誘発要因を形成します。例えば、生活保護制度、教育機会均等、障がい者に対する医療・福祉・就労支援の不備・欠陥などが主要なものです。
U:再犯防止諸制度
一度侵害をした人に対しては、再犯防止の制度が備わっていなければなりません。この制度の全面的な欠如は当然にも再犯誘発要因となりますし、制度が存在しても不備・欠陥があれば同様です。現行制度上の代表的なものを例に挙げれば、保護観察などの更生保護諸制度、さらに刑務所や少年院での矯正処遇も含まれます。
また、Tの一般諸制度は同時に再犯防止の機能を果たす場合があり、Uとも関連してきます。
(三)特殊要因
これは、侵害の手段や機会など事案の個別的な特徴から把握される特殊な要因のことです。このレベルの要因は、各事案により多種多様であり得ますが、単純な例を挙げれば、万引きの好発は、客が自分で棚から商品を手に取ることを許すセルフサービス式店舗の発達をその機会的特殊要因としています。また近年見られる「出会い系サイト」を利用して被害者をおびき出すタイプの侵害は、インターネットの発達というに留まらず、とりわけ厳格な認証手続きを欠いた人的ネットワーキング・システムの増大を手段的特殊要因としています。
以上(一)〜(三)の三要因は相互に関連し合っており、本来は個々的に切り離して検討することはできませんが、具体的な事案を分析する際には、それぞれのレベルごとに社会の更正に向けた提言をすることが思考経済的には合理的と思われます。このような提言を、ここでは「更正提言」と呼んでおきます。これにも、上記三レベルに対応して、三つの提言レベルが区別されます。
A:防犯提言
これは、(三)の特殊要因に対応する提言で、最も具体的な内容を持つ提言となります。例えば、住居や店舗の防犯対策や、インターネットの適切な防犯規制などで、今日でも特定事件を契機にそうした対応がなされることはあるものの、公式的提言としてまとめられることはないために、気まぐれで表層的な対策列挙に留まりがちです。
B:制度提言
これは、(ニ)の制度要因に対応する提言で、問題点が析出された制度の改善や創設を提言するものです。例えば、生活保護制度や保護観察制度等の不備を事案に即して具体的に提言し、または必要と思われる制度改正や制度創設提案にも踏み込みます。
C:変革提言
これは、(一)の根本要因に対応する提言ですが、このレベルでは提言というよりは社会への警鐘になるでしょう。三大根本要因の除去は一種の社会革命を要することであり、これは単なる提言には留まらない広がりを持つからです(とりわけ、貨幣/商品経済要因の場合)。しかし、男性支配要因や社会的排除要因の問題では、差別撤廃や孤立化防止のための施策を制度要因のレベルに絡めて提言することは可能です。
なお、ここでは詳論しませんが、以上の更正提言の根拠となる事実の調査・分析は現在のように刑罰適用の前提事実の解明・認定を任務とするに過ぎない司法裁判所の枠組みではもはや無理であり、注6 新たな制度の創設で対応しなければなりません。これについては後述します。
注1
ここで挙げたのは分析視座の一例に過ぎない。より精緻な視座の提唱を筆者としてはいささかも否定しない。ただ、この分析は純粋学術目的ではなく、実際の侵害対応の実務で実践することが目指される以上、視座はできるだけ簡潔であるほうが望ましい。
注2
2005年で見ると、認知事件約300万件中、およそ61パーセントを窃盗、詐欺、横領の三大財産犯が占め、中でも窃盗が約170万件と圧倒的である。『犯罪白書(平成18年度)』5頁参照。
注3
2004年度で見ると、強制わいせつの被害者9184人中8917人が女性である。『犯罪被害者白書(平成18年度)』212頁。なお、強姦罪は現行法上、被害者が女性に限定されるために、全件とも被害者が女性であることは当然である。
注4
2004年度は、殺人被害者1417人中530人が女性であり、凶悪犯全体でも12060人中5783人が女性。いずれも半数には満たないものの、少ない数字とは言えない。前掲注3資料同頁参照。
注5
例外的に、男性を被害者とする性的侵害も存在するが、それらの事案では被害対象男性がいわば「女性化」されているのであって、男性が女性を侵害する原則形態のアナロジーとして説明できると考えている。
注6
司法裁判所の判決中に、事案の分析から抽出された社会的な提言事項(例えば、立法勧告など)を含むこともあるが、これらは非公式の付言的言及に過ぎないため、判決の提言が具体的な行動につながることは稀である。

2007-07-28
第三部 非処罰の文化構想(十九)
☆前回記事
【4】更正/更生モデル
C違犯者の更生
さて、社会の更正に次いで、今度は違犯者の更生の問題です。「更正」は筆者の造語に近いものですが、「更生」は現在の「犯罪者処遇」の中でも使用されている術語です。ただ、「更生」とはどういうことをいうのかについて、突っ込んだ議論はないようです。大雑把に言えば、「立ち直り」ということが共通した理解でしょうか。それは、結局、「犯罪者」が自己の犯した「罪」を反省し、被害者側に謝罪し、人生をやり直し、二度と同じ「罪」を犯さないで生きていけるようにするということでありましょう。このような理解に立つと、ニュアンスの差はあれ、もはや社会構造問題などは視野の外に追い出されます。社会は完全無欠であり、その中であえて「犯罪」を犯した個人が「悪い」のであり、その「悪さ」を自覚し、反省し、「出直せ」というのです。注1
この点、更正/更生モデルでは、すべての侵害を社会構造体の産物として分析するのですから、同じ「更生」という語を共有するにしても、その意味するところは自ずと位相が異なってきます。
まず、更生とは何でないか。それは、「贖罪」ではありません。「贖罪」というようなモラリズムの残滓からは脱却しています。また、単なる「社会復帰」でもありません。「悪い」人間が見事「立ち直り」、晴れて善なる社会へ帰還するというような感動秘話とは無縁です。
では更生とは何であるか。更生とは、決して完全無欠ではあり得ないこの社会関係の中で、違犯者が少なくとも重大な侵害を二度と犯さず生きていけるための生活技術の獲得と定義されます。それは、特殊な生活技術ないし生き方の知恵の獲得なのです。
このことはまた、単なる「社会適応」とも異なります。社会適応とは、現存社会が完全であることを前提に、「落伍した」あるいは「逸脱した」個人を適応させるという趣旨ならば、一種の動物の調教にも似たものですが、ここで定義される更生とは、そのようなものではなくして、前回述べた(侵害を産み出す)「社会の更正」と同時的・同伴的になされる違犯者の「生き直し」なのです。すべての侵害に対して、社会も決して「完全無罪」ではあり得ないのです。社会性善説に立ったいかなる対策も無効なのです。
こうした視点に立って、違犯者の更生を改めて方法論的に考えてみると、第一にそれは社会関係的でなければなりません。つまり、単に違犯者個人を矯正するという発想であってはならないのです。標語的に言えば、「(社会の)更正なくして、(違犯者の)更生なし」です。ですから、更生はあくまでも社会の更正と並行的になされなければならず、社会の更正なしに、「社会復帰」させて再犯に陥ってもそれは必然であり、そのことで再犯者を「非難」するなどは筋違いなのです。注2
第二に、それは科学的・実践的でなければなりません。つまり、現実に更生のために役立つ科学的なプログラムでなければならないのです。この点で、一律に懲役を科す現在の自由刑(禁固刑は除く)はあまりに古典的です。マルクスでさえ、「生産的労働」を「犯罪者たちの唯一の矯正手段」と述べて懲役労働を正当化しているのですが、注3 違犯者の個別的な実情を度外視して労働を科すことは更生とは関係なく、まさに懲罰であり、労働の価値をそこまで貶めてよいのかという疑問もさえあります。注4 
実効的な更生のためには、個人的素因の科学的精査が不可欠で、その過程では家族関係の分析も必須でしょう。技法的には、精神科の一般診療ではすっかり廃れたとも聞く精神分析的手法を活かすことを検討すべきです。この手法は、侵害の家族関係を背景とした個人的素因を究明し、そこに働きかけるうえではなお有効と思われるからです。
第三に、第二点とも関連して、更生はより計画的である必要があります。当初から綿密な審査に基づいて、個別的な更生計画を立て、それを中途で適宜改訂しながら実施していく必要があり、「常習犯」であるとか、「初犯」であるとかいった単に集合的な特徴に基づいて、一般的な処遇を施すというだけでは不充分であると考えます。
第四に、更生は短期集中的である必要があります。現在では、「重い」罪状の場合ほど長期の懲役刑が科せられますが、これは長期間かければ更生が進むからというよりは、例の応報刑の発想によって「重い非難に値する」という評価によるのです。現実には、長期の拘禁ほど現実社会との接点を失い、刑務所馴れ(prisonization)し、監視的かつ依存的な環境に身体が適応する反面、様々な場面で自主的判断力が要求される一般社会で生活する技術を見失い、そのことが再犯にもつながります。ですから、更生ということを真剣に考えれば考えるほど、そのプログラムは短期集中的でなければならないということになります。
以上のような視点によって、更生のための具体的な処遇法について整理してみます。
A:矯導
これは、最も根深い個人的素因を持つ違犯者を対象に、最も集中的に更生のためのプログラムを実施する処遇です。この処遇を実施する機関は「矯導所」と呼ばれます。注5
対象者の身体を拘束する「拘束処遇」と拘束しない「通所処遇」とが区別されます。拘束か通所かは、精神障害や人格障害のような重大な個人的素因の介在している度合いにより決定されます。おそらく拘束処遇の対象者は一部に限られるでしょう。
通所処遇は、自宅または指定された自宅外の居住地から通所して、更生プログラムに参加する処遇です。ただし、矯導の対象となる18歳未満の少年については原則的に通所処遇としますが、個人的素因に根深いものが認められる場合は例外的に拘束処遇とします。
どちらにせよ、懲役労働は廃止され、この処遇では精神医学的・心理学的な働きかけが中心を占めますので、主要なスタッフはもはや看守でなく、精神科医や心理士、あるいは看護士となります。
この矯導は、自由刑のように期間制ではなく、ユニット制を採り、例えば1ユニット=2年として原則2年間の短期集中制とします。しかし、処遇効果が不充分であれば、さらに2年ごとに更新されます。上限は認めません。そうすると、拘束処遇の場合は、事実上終身刑に近いものとなりかねませんが、終身刑とは異なり、原則2年の積み上げ方式です。ですから、最短なら2年で処遇を終えますが、効果が上がらなければ生涯拘束処遇ということも理屈の上ではあり得るわけです。これは結果的なものであり、処遇効果に応じた対応です。初めから終身間拘禁を予定してしまうタイプの終身刑はそれを人権配慮的に運営すればするほど、一種の終身ケアーハウスとなり、かえって侵害を誘発する危険があります。現実社会に適応できないと感じる人が意図して終身刑相当の侵害を犯し、生涯にわたり生活が保障される終身刑の“恩恵”を受ける恐れがあるのです。このような愚策に陥らないためにも、短期のユニット制かつ効果に応じた更新制(更新的ユニット制)とするのが妥当です。
B:観察
これは、Aの矯導の対象者よりも個人的素因が重大でない違犯者に対して、身体を拘束せず、保護観察所が実施する処遇です。
現行制度を継承する「保護観察」と、対象者をより監視的な環境下に置く「動静観察」の二種が区別されます。ここでも更新的ユニット制(ただし、1ユニット=1年)を採ります。
前者の保護観察は、内容上は現在の保護観察と同等ですが、現在は保護観察だけを独立して科す制度は少年に対する保護処分としての保護観察以外に存在しないのに対して、ここでは対象者の年齢を問わず、保護観察だけを独立した処遇として与える点が異なります。おそらく侵害の大多数は、この保護観察の対象となるでしょう。
しかし、性的侵害や放火、傷害、殺人など重大な侵害の場合で、Aの矯導までは必要としない対象者は、動静観察処遇とします。これは、保護観察と同一の内容に加えて、対象者をより監視的な環境に置き、その動静を(警察的にも)追跡監視する処遇です。ただし、秘密裡の監視ではなく、対象者に事前告知したうえで監視されていることの意識を持たせて再犯を防止するのです。
なお、Aの矯導過程を終了した者には例外なく、事後的なフォローとしてこの観察処遇を行います。対象者の更生の度合いにより、保護観察か動静観察かが選択されます。
C:没収
これは、財産的侵害を実行した違犯者から、不正に取得した利益を剥奪して被害者側に返還させる処遇です。
これは更生というよりも、被害回復の意義が強いものですが、侵害が割に合わないことを教え、また被害回復をすること自体にも更生の意味が認められます。そのためにも、返還手続きは公的機関等が代行せずに違犯者自らが行うようにすべきでしょう。
これに関連して、現在の刑罰体系で量的には最も活用されている罰金刑は廃止されます。罰金刑は、一種の臨時徴税と化しています。結果から見れば、違法行為をした代わりに国庫に臨時の税金を納める―しかも、実際の侵害額よりも低額であることが多い―に等しいことで、これに更生の効果を認めるのは非常に困難だからです。
なお、以上を通じて、刑罰制度に特有の「責任能力」という概念は廃棄されます。現行法上は「無罪」となる犯行当時「心神喪失」に当たるような重篤な精神疾患の状態にあっても上記のAからCまでの処遇は与えられます。さらに、現行法上は刑罰の対象外である犯行当時14歳未満の少年であっても同様で、処遇の下限年齢は設けません。ただ、先に述べたとおり、犯行当時18歳未満であれば、原則的に拘束処遇は与えられないという制約だけが認められます。こうした構想は、処遇に期間的な上限を設けないとすることともあいまって、「刑法」理論上の重大問題を提起するはずですが、それは最終節にて改めて検討します。
より重要なこととして、没収を除く二つの処遇では、社会関係的なプログラムを実施しなければならないということを繰り返し強調します。つまり、個人の「悪さ」や「異常」を「矯正」するのではなく、侵害を産み出した社会体の「更正」と関連付けをするということです。言い換えれば、更正されていない社会に「復帰」させても無意味なのです。前回述べた防犯提言、制度提言、変革提言を着実に実行すること、またそれらと関連付けられた更生プログラムを適用するのでなければ絵に描いた餅以下で終わるでしょう。注6
注1
内閣法制局スタッフが編纂したある辞典では、「更生」の定義として、簡潔に「過去を清算し、生活態度を改めること」とする。これが最もオーソドックスな定義であろう。『有斐閣法律用語辞典』(有斐閣)422頁。
注2
仮釈放中に同種再犯をしたことをもって厳罰に処す旨の判例は、この観点から見て誤った観念論である。
注3
マルクス/後藤洋訳「ドイツ労働者党綱領にたいする評注」、『ゴータ綱領批判/エルフルト綱領批判』(新日本出版社)所収50頁参照。
注4
フーコーは、特に労働が「疎外からは解放され、搾取されてもいない」はずの社会主義諸国でも盛んに行われた懲役労働について、「社会主義国は自国市民の道徳的そして政治的再教育を、労働というものの価値をかくも貶めるようなカリカチュアによっておこなっていると考えなければいけないのか?」と皮肉っていた。フーコー「ソ連およびその他の地域における罪と罰」、フーコー著/小林康夫ほか編『フーコー・コレクション4』(筑摩書房)所収316頁。
注5
現在定着している「矯正」という語を流用することも一考に値するが、この語は「更生」に至る前段階で個人を「矯めて正す」という含意で用いられるのが通例であり、本文で述べたような「更生」の趣意に沿わないため、あえて造語に近い「矯導」の語を充てた。ちなみに、「刑務所」という施設も用語も廃止されることはもちろんである。
注6
この点で簡単な例を挙げれば、生活保護のような救貧対策の不備から窃盗などの侵害に出た者には、生活保護制度の不備の是正が伴わなければいかに違犯者個人を「矯正」せんと奮闘したところで再犯の危険は大なのである。(ついでに言えば、貨幣/商品経済が残存する限り、生活保護制度のような弥縫策は常に不備を伴う。しかし、これについては言い留めよう。)

2007-08-01
第三部 非処罰の文化構想(二十)
☆前回記事
【4】更正/更生モデル
D被害者側の更生
社会の更正、違犯者の更生と来て、最後は被害者側の更生です。この「更生」という語が被害者側に関して用いられることはまだほとんどないため、説明を要しますが、その前に、近年の被害者論との相違点に触れておきます。
近年の被害者論といっても、それには二つの流れが見て取れます。一つは、先行的に始まった「被害者対策」です。これは、要するに、被害者というものを「可哀想な人」「同情すべき人」と規定しつつ、被害者の精神的なサポートや福祉的な援助を充実させていくという方向性です。この方向は「犯罪被害者等基本法」に結実しています。注1
もう一つは最近とみに激化しつつある「被害者のための刑事司法」という流れです。これは、被害者というものを加害者に対して対抗する復讐主体―「復讐」という語を正面から使うかどうかは別としても―として再興し、その復讐感情を満足させるために、刑事司法の構造そのものを被害者中心に組み替えようという方向性です。注2 この方向は被害者等が刑事裁判に直接参加し、証人尋問から事実上求刑までできる「被害者等参加制度」に一部結実しています。
これら二つの流れは、正反対のようにも見えますが、実は両立可能なものです。実際、近年は上に挙げた二つの法制度が両輪的に動き出していることからもこれは裏付けられます。むしろ、「被害者対策」では被害者側に被害者意識を強く植え込んだうえで、「被害者のための刑事司法」でもって今度は被害者を復讐主体として裁判関与させ、厳罰化によって被害者のアイデンティティを回復させるという形で、両者あいまって一つの体系にすらなっているのです。
しかし、非処罰プロジェクトはこうした流れに与しません。そもそも、「被害者」とは、社会的に作られる地位であると論じました。それは「犯罪者」という地位と対になった社会的構築物なのです。ただ、「被害者」という語は「犯罪者」と異なり、マイナス・レッテルではありませんから、使用禁止にするまでもないでしょう。しかし、被害者側にとって大切なのは、「被害者」という地位を脱することでした。注3 被害者がもはや被害者でなくなること。これが、被害者側にとっての「更生」ということの意味であります。そのためには何が必要でしょうか。
何よりも、自己治癒力の抽出です。人間には、苛酷な体験を持った時でも、徐々に自力で克服し、立ち直っていく力が備わっています。侵害の場合も同じです。この自然の力を抽出することが被害者側の更生のスタートであり、またゴールでもあります。
そのためには、まず物的な手がかりとして時間という要素が必要です。時の経過は物理的な傷のみならず、心的な傷も癒します。身体の生傷がかさぶたになり、最終的に消失するように、心の傷も、時の経過によりかさぶたとなり、次第に乾いていきます。忘れまいと抗っても時間の経過には勝てないのです。ところが、最近は心の生傷がいつまでも癒えないことが増えています。一つはマス・メディアがことあるごとに事件を蒸し返すために、傷口が広く拡大すらされるのです。まさに「ワイド」・ショーです。もう一つは精神科医などの「心の専門家」が、「心のケア」の名において被害者問題に介入するようになったことです。心の専門家は真に危機的な事態に対して介入するのはよいとして、一般的に被害者を「治療」の対象として立ち現れるべきではありません。それは、先の自己治癒力を阻害します。注4 被害者側は治療依存的になり、専門家のケアなしには更生できなくなります。このように自己治癒力を妨げる事情が重なると、そのために憎悪感情の遷延を来たし、被害者側をして厳罰によって辛さの区切り(クロージャー)がつくかのような錯覚に陥らせてしまうのです。いわゆるクロージャー・セオリー注5 はこのような錯覚を死刑存置論の新たな活性化素として利用しようとしています。
もう一つの手がかりは、理解です。これは、これまでに見たような侵害の諸要因について被害者側も正確な理解を持つことを意味します。被害者側もまた、この社会構造体の中に組み込まれた人間として、侵害の発生要因に関与してきたという点では、他の一般第三者と変わらないのです。ただ、かれらは不運にも―それを否定できるでしょうか―被害者という立場に立たされてしまったために、どうしても問題を被害者‐加害者の軸に狭めて、加害者への怒りや憎しみを募らせるという方向へ誘導されがちですが、そこのところで一歩引いて、侵害の社会構造要因について理解するチャンスが与えられれば、自身の苛酷な体験をより客観的に相対化して捉え返すことも可能となり、それはまた自己治癒力を抽き出す精神的・知的な手がかりともなるのです。
このように総説したうえで、今度は個別具体策に移りますが、その際、一般に法律専門家等も含めて「被害者」という大雑把な把握をしている点を改め、現実に害を受けた「直接被害者」と、その直接被害者の周辺にあってその被害影響を受ける「被害周辺者」とを区別することを強調します。この両者は別ものです。これを混同する被害者論はすべて誤りと断じてよいとさえ考えます。
さらに、被害者側の更生とは、被害者側を「可哀想な人」と憐憫の対象とするのでも、復讐主体として加害者と対決させるのでもなく、侵害という現象の当事者として衡平に位置づけることです。つまり、それは単なる福祉でも、復讐でもなく、衡平(エクイティ:equity)の問題であるということを確認します。
○直接被害者の更生
何よりも、被害の回復が必要です。一つは物質的な回復で、害が財産的なものであれば、前回述べた違犯者からの没収でまかなえます。傷害などの場合は、医療費補助などの経済的援助策が必要になります。
さらに、精神的な回復措置として、修復も制度化されます。つまり、加害者側との直接対面による謝罪と宥恕です。ただし、基本的には財産犯や軽微な暴行・傷害のような侵害でしか適用できず、レイプのような重大な性的侵害などでは直接被害者が加害者との対面を望まないことが多いため、まず無理でしょう。しかし、現実には大部分の侵害が財産犯ですから、実は量的に見ると修復が適用できる場合は多いと言えるのです。注6
なお、女性に対する性的侵害などの場合、直接被害者の精神的打撃が甚大で、危機的状況に陥ることもあり得るため、そうした場合の精神医療的介入についてはためらう必要はないと思われます。
○被害周辺者の更生
まず、被害周辺者の範囲ですが、ここでは法的な親族のうち被害当時の直接被害者と疎遠であり、さほど衝撃を受けていない者を除く一方で、注7 法的な親族でなくとも永年にわたり事実婚関係にあったパートナーや場合によって親友までを含めます。
これらの人たちの中でも、直接被害者が存命中かどうかで状況は異なります。存命中の場合、これら周辺者は前面には出ません。この場合はあくまでも直接被害者が主役です。ただ、直接被害者の被害が重く、周辺者の介護が必要になるなどの場合、経済的援助も必要です。
それに対して、直接被害者死亡の場合、周辺者は通常、強い悲嘆(grief)の感情に囚われます。これが内攻化して心身を苛むのです。直接被害者死亡の場合における被害周辺者の更生は、この悲嘆感情の乗り越えが中心的なものです。ただ、ここで精神科医などの専門家を直ちに介在させるのは、先述のとおり禁物です。自己治癒力を抽き出すことが重要です。基本的には同様の体験を持った被害周辺者自身の自助グループを形成し、お互い同士で克服し合うエンカウンター・プログラムが最も効果的と考えます。修復が悲嘆の乗り越えになり得るかについては、場合によってなり得るだろうとしか言えませんが、選択肢としてはあってよいと思われます。
なお、直接被害者死亡により経済困難が生じる被扶養者の場合は、特殊な(保険料納付によらない税財源方式の)保証年金制度のような形での生活援助が必要にもなります。
○共通事項
両者共通事項として、先述したような意味での「理解」を実現するために、事件発生のできるだけ初期的段階から、侵害原因論について、正確な知見を冊子等を通じて説明することも必要です。これは「被害者対策」で見られるような損害賠償など訴訟対策用の単なる事務的な「情報提供」に留まらない、より知的な働きかけと言えます。
以上を通じて、被害者側の更生も個別のケーズごとに計画的に、かつ事件発生の初期段階から即応的に進めなければならず、警察等の行政機関や司法裁判所では対応に限界があります。また、修復は違犯者側の更生とも関連付けて連動的に実施しなければならないため、新たな対応機関の創設を考える必要があります。これについては、後述します。
注1
同法前文にあるように、「・・・犯罪被害者等の多くは、これまでその権利が尊重されてきたとは言い難いばかりか、十分な支援を受けられず、社会において孤立することを余儀なくされてきた」というように、「被害者等」を一方的な受難者と捉えるのが「被害者対策」の特徴である。
注2
実務家の手になるものではあるが、岡村勲監修『犯罪被害者のための新しい刑事司法』(明石書店)は、この流れの一つの集大成である。
注3
この点に関しては、第三部第3章第2節(C)を参照。
注4
「心のケア」一般の危険性を網羅的に論じるものとして、小沢牧子・中島浩籌『心を商品化する社会 心のケアの危うさを問う』(洋泉社)も参考になる。
注5
クロージャー・セオリーに関しては、第一部第4章Aを参照。
注6
修復を実践する場合、それは違犯者の更生にとっても有益な方法と状況で実施されなければならないことも留意すべきである。
注7
例えば、長年にわたり音信不通であったり、不和対立関係にあるなど、法的な親族であっても直接被害者の死に対して悲嘆感情を生じないことがあり得る。他方、長年にわたり事実婚関係にあったパートナーが殺人などの侵害によって死亡すれば強い悲嘆感情が生じるのは、法的な親族の場合と変わりがない。

2007-08-04
第三部 非処罰の文化構想(二十一)
☆前回記事
【5】侵害対応機構
「官僚制が存在すべきでないのとまったく同様に、裁判所はあってはならない。裁判所とは、すなわち正義の官僚制にほかならない」
―ミシェル・フーコー
「オウム事件にかぎらず、いまや、少なからぬ事件において、裁判制度とは異なった新たな社会的分析装置の創設が求められているように思われる」
―杉村昌昭
「普通の市民は、およそ調査なるものが子供を残虐に殺した男についての自分の考え方を変えるなどということを理解するのは困難であろう。だが、まさにこのような理解しがたいほど恐ろしい犯罪こそが、調査を必要としているのである」
―カール・メニンガー
前章で、社会の更正、違犯者の更生、被害者側の更生と非処罰プロジェクトの柱を成す三つの問題を順次展開してきましたが、これらのことを具体的にいかなるシステムを通じて実現するのかという問題が残されております。
この点、現行刑罰の場合ですと、大雑把に言って、警察が捜査・証拠収集し、その結果を検察官が整理・評定したうえで裁判所に起訴し、裁判所が審理・判決した結果に基づき、刑務所が受刑者を矯正し、保護観察官が更生を監督するという段取りになります。フーコーによれば「正義の官僚制」である裁判所を中核にすえた徹頭徹尾官僚的なシステム。言い換えれば、「“出来事”の解明よりも量刑の導出過程に重点をおく」システムであり、注1 「司法裁判所システム」と呼んでもよいでしょう。これは浪費的でありながらも個人を断罪するという刑罰のコンセプトにはよく適合するので、現在この形がほぼ定着を見ているわけです。
しかし、近年はしばしば司法裁判所システムでは解明し切れない、どこか割り切れないものが残る事案も増えています。刑罰制度とは所詮、犯人とされた個人に責任をすべてかぶせるシステムですから、司法裁判でも基本的に彼/彼女が何をしたのか、それが刑法構成要件に該当するのか、該当するとして刑はどれくらいが相当かを決定すれば済むのです。社会の更正などという視座が入り込む余地はありません。社会は常に善であり、完璧なのです。
これに対して、非処罰プロジェクトでは、あらゆる侵害を社会の産物と規定し、常に社会との結びつきで事案を解明し、侵害を産み出した社会の更正と連動させつつ、違犯者には科学的に最も相応しい更生のための処遇を与え、なおかつ被害者側の更生にまで及ぶのですから、これらの実現のためには司法裁判所システムでは本質的な限界があることは明らかです。ではどうすべきでしょうか。
即席の答えは出しづらいのですが、概略的には「侵害対応機構」と仮称される新たなシステムを提示することができると考えています。この機構は、次のような諸部門から成るでしょう(以下は、現時点での一試論)。
a 弁務部
捜査機関から送致された事案の全証拠を精査したうえで、被疑者に有利な証拠と不利な証拠とを体系的に整理した「証拠構造表」を作成し注2、事実調査部(後述b)に送付することを主たる任務とする部です。
また、弁務部スタッフは事実調査手続きで被疑者を補佐し、その弁論を担当します。現在の刑事弁護人と似た機能を果たしますが、弁護士のような開業法律家ではなく、「機構」に所属するスタッフです。注3
b 事実調査部
司法裁判における事実審と同様の機能を果たす部ですが、検察側と弁護側が論争し合ういわゆる当事者主義の対論式ではなく、注4 上述の「証拠構造表」に基づき、被疑者及び要望があれば被害者側の代表に加え、事件発生地の住民代表を加えた「調査パネル」が、事実の解明を行います。注5 パネルの司会はスタッフがしますが、裁判のように判事は存在せず、被疑者も参加した円卓会議方式で事実を解明し、決定(事実決定)に至るのが特徴です。注6 傍聴人からの質疑も受け付けるなど、全員参加型の事実解明を目指します。被疑者・補佐人(上述a)の請求があれば証人審問や鑑定なども適宜行うことは司法裁判と共通です。ただし、最終評決に被疑者とその補佐人、被害者側とその付添い人は関与できません。
これは純粋に事実の解明であり、この段階で被疑者が無実と判明した場合には「違犯事実なし」として直ちに手続きを終結させます。
「違犯事実あり」の場合、処遇審査部(後述c)へ送致しますが、無実を主張する場合は破棄部(後述e)へ決定破棄の申し立てできます。注7
事実調査は原則公開制ですが、18歳未満の少年の場合は被害者側など一部当事者のみの限定公開とします。
c 処遇審査部
事実調査部の決定に基づき、違犯者の更生のために必要な調査を行い、処遇―矯導・観察・没収の三種―を決定する部です。この審査は、特に社会学や心理学、精神医学などに精通している専従スタッフが担当しますが、権威的な職権審査手続きではなく、対象者も参加するカウンセル方式で「処遇合意書」によって決定する契約的な性質を持ちます。なお、弁務部スタッフ(上述a)は、この処遇審査部でも違犯者の補佐を務めます。
処遇審査は非公開とします。この場合も被害者側の傍聴は認められますが、処遇に対する意見表明は認められません。処遇決定は科学的な判定であり、「量刑」とは異なり非難という要素も含まないため、被害者側の処罰感情にも宥恕感情にも影響されてはならないからです。注8 ただし、結果はすべて被害者側に通知されます。
なお、処遇審査部スタッフは、矯導所や保護観察所での処遇が適正かどうかを監督し、苦情審査を受理する権限(処遇監督権)も持ちます。
d 援護部
被害者側の援護を担当する専門部です。被害者側の状況を事件発生直後から調査・把握し、各事案ごとに「被害状況及び被害影響調査票」を作成します。これは被害者側の要請がない場合でもすべての事件で実施されます。
この調査票に基づき、事件ごとに所要の援護計画が立てられます。前節で述べた経済的な援助措置についてもここで一元的に決定されます。この手続きも職権主義ではなく、違犯者の処遇審査と同様に、対象者が参加するカウンセル方式で「援護計画合意書」によって決定する契約的な性質を持ちます。
また、援護部スタッフは事実調査(上述a)への参加を希望する被害者側に付き添うことも任務とします。
e 破棄部
事実調査部の事実決定(上述a)に対する破棄申し立てを審査を実施する部です。そのためには無実を示す新証拠の提出が必要で、現在の裁判における上訴よりも、再審に近いものです。注9 破棄審査中は、処遇審査や修復は実施されません。
この審査も全員参加型の調査パネル方式で行いますが、この手続きの意味は純粋に無辜の救済にありますから、被害者側は参加できないほか、住民代表ではなく、事案ごとに適切な知見を有する専門家参審員が加わります。
破棄審査も事実調査に準じて原則公開制とします。ここでも弁務部スタッフ(上述a)が申立人を補佐します。
f 修復委員会
被害者側と加害者との直接対面による修復をコーディネートする専門部です。この修復の対象となるのは、事実審判で「違犯事実あり」と判断された者に限ります。
軽微な事案で修復の条件があると判断されれば、処遇審査で処遇決定せず、直ちに修復委員会に送致し、修復が成就すれば、「処遇なし」で終結とします。修復が不成功であれば、再び処遇審査へ差し戻しとします。
なお、処遇審査を省略できない重大な侵害でも、処遇決定後に修復の条件があれば、修復を実施します(例えば、遺族と加害者の間で)。
g 社会更正審議会
これは、先の事実調査部と処遇審査部の決定と資料提供を受けて、侵害の社会的要因の調査とそれを踏まえた社会更正のための三つの提言(防犯提言、制度提言、変革提言)を行う常設機関です。「社会更正提言書」は議会等、然るべき公的機関へ送付されるほか、一般公開され、誰でも閲覧可能なものとします。
この審議会の委員は、様々な分野の専門研究者等の中から適任者を任期を定めて任命します。
h 付属研究機関等
「機構」では法律にとどまらず、多様な知的バックグランドを持ったスタッフの養成と事例研究を通じた侵害原因や処遇技術に関する継続的な研究及び現場へのフィードバックを要するので、自前の研究・研修機関を擁することになります。
以上のようなシステムが「侵害対応機構」の概要です。フーコーも望んだとおり、司法裁判所というシステムは廃止されます。注10 それに伴い、訴追機関である検察庁も廃止され、「被告人」という地位もなくなります。 
ただし、注意すべきは、事実調査に関しては、証拠裁判主義や無罪推定、疑わしきは被告人の利益に等々の「司法裁判の原理」は継承されるということです。冤罪防止ということに関しては、「司法裁判の原理」はなお不可欠なアイテムであり、それまで放棄することはできません。とはいえ、事実調査はもはや現在の司法裁判のような非難と糾弾の儀式としては行われなくなり、被疑者も主体的に参加したうえで、純粋に事実の解明という視座から冷静・客観的な討議が為されることが約束されるのです。
なお、この機構は国家機関ではなく、一種の公共団体として地域ごと(現在の地方裁判所の所在地レベル)に設置され、運営に当たる理事(3ないし5人)は選挙によって選出されるものとすべきでしょう。
注1
杉村昌昭「<知的野蛮>としての死刑」、『インパクション80』(インパクト出版会)所収74頁参照。
注2
被告人の「有罪」を前提に、検察側が起訴状の主意に合致する被告人に不利な証拠のみを提出しようとする司法裁判との違いを想起されたい。
注3
現在は、開業弁護士が刑事弁護人を務めるが、開業弁護士は報酬及び評判いずれの観点からも刑事事件の依頼には消極的となりがちであり、一部有志弁護士の個人的奮闘にのみ依存することには限界がある。それよりは、侵害対応システム自体に弁護機能が内在化しているほうが全事件に公平に弁護機能が行き渡ると考えられるのである。
注4
当事者対論主義は一般に、当事者対等が保障される限り、誤りのない事案解明にとって最も合理的だと喧伝されているが、公的機関として強大な証拠収集権限を持つ検察側と私人に過ぎない被告・弁護側が本質上「対等」な立場に立てるとは思えない。
注5
被疑者が事実を争わない場合はパネルを召集しないが、その場合でも「証拠構造表」から無実が疑われるときは事実調査手続きを開始する。被告人が争わない限り、立証抜きで「有罪」が確定してしまう司法裁判と比較されたい。
注6
事実決定に当たっては、原則として被疑者と被害者側を除いたパネル参加者の絶対多数決とし、無罪に当たる「違犯事実なし」については、単純多数決とするなど要件を緩めてもよい。
注7
無罪に当たる「違犯事実なし」に対する破棄申し立ては認めない。これは「二重危険禁止原則」の帰結である。
注8
刑事訴訟法で認められるようになった被害者参加は主として、量刑に被害者側の意見を反映させることが狙いであり、そこから「厳罰化」の懸念が出るわけだが、非難(弾劾)に本質がある刑罰制度ではこのような形の被害者参加にまで立ち至ることはある意味で必然の流れであると言える。
注9
事実調査は、司法裁判のような「起訴状」ではなく、「証拠構造表」に基づき、被疑者も主体的に参加するパネル方式で現在の司法裁判よりも非権威的かつ丁寧に行われるから、裁判の上訴に当たるものは必要ないと考えられる。ただし、破棄審査の対象となる「新証拠」の要件は現在の再審よりも緩やかに解してよいであろう。
注10
ここで言う司法裁判所の廃止とはさしあたり、刑罰を科す刑事裁判所の廃止であるから、民事裁判所については議論の対象外である。

2007-08-06
第三部 非処罰の文化構想(二十二)
☆前回記事
【6】刑法体系の脱構築
「刑法の公理は粗雑で原始的なままであり、いくら見た目に凝ってみても、「技術的な」洗練を施してみても変わりありません。」
―ジャック・デリダ
「刑法、犯罪学、精神分析、こういったものすべてが今後発明しなおされねばなりません。」
―同上
今まで、かなり早足ではありましたが、非処罰プロジェクトの概要を見てきました。その提言の中には理論的に、現在刑罰制度を支えているいくつかの大原則との抵触を問題視されかねないものも含まれています。このような理論的究明のためには、もはや別著を準備せざるを得ないのですが、ここにごく概略的・予備的な検討を遺しておきたいと思います。
まず、現代刑法に欠かせない理論的な支柱を挙げるとすれば、それは「罪刑法定主義」、「責任主義」、そして「人道主義」の三大原則ということになると考えられます(他にも重要な原則は想起されるでしょうが、ここでは割愛します)。
このうち「法律なくして刑罰なし」という罪刑法定主義に関しては、非処罰プロジェクトでは刑罰が廃止される以上、この原則も排除されることになるのではないか、という疑問があり得るところでありましょう。
ただ、この原則の要諦は「法定」というところにあります。要するに、事前に法律上犯罪として定められていない行為を理由に恣意的な処罰をされないということが罪刑法定の趣旨ですが、非処罰プロジェクトにおいても、事前の定めなしに、単なる「社会的危険性」等を理由に更生のための処遇の対象にされるようなことはありません。例の三つの処遇(矯導・観察・没収)の対象となる行為は、予め法定されることになります。注1
ただし、現在の刑法のように、これこれの行為に対して懲役何年以下の刑に処すという形で「罪」と「刑」とを対応させることはしないのです。これこれの行為に対して例の三つの処遇のどれを選択するかは、前章で概略を述べました「侵害対応機構」において対象者との合意のもとに決定されるのでした。このことをとらえてなお法定主義の逸脱だという論難がなされるかもしれません。
この点で、犯罪と刑罰に関する法であるところの刑法が、そのような「罪」と「刑」の対応関係を予め開示しなければならないのは、刑罰の種類と量とが「罪」に対する「非難」の強さを予示するという「責任主義」の趣旨が介入しているためでありましょう。しかし、非処罰プロジェクトでは、ある行為に対する更生のための処遇には何ら「非難」の意味を含みませんので、とにかく法定された侵害行為が証明された場合には、更生のためにあの三つの処遇を受ける可能性があるということが予め示されることが重要なのであり、それこそが「法定」の意味であり、これを「処遇法定主義」と呼びます。
むしろ、罪刑法定主義では法定されていさえすれば、いかなる行為も犯罪として処罰できるということになりがちであり、また刑の上限を法改正によって適当に引き上げることも無制限に行い得る点で、いわゆる「厳罰主義」への歯止めにならないのです。立法府では毎年のように罰則が新設されていますが、いったい全部でいくつの罰則があるのか、当局でも把握できていないのではないかと思えるほど、現代の「法治国家」は「処罰マニア」になっています。
非処罰プロジェクトでは、そもそも「犯罪」というとらえかたそのものを廃し、新たに提示された「侵害」という概念の範囲を「物質的被害をもたらす行為」に限定することで、このような処罰マニアにピリオドを打つことが目指されています。注2
ところで、罪刑法定という発想中に既に「責任主義」が介入していると指摘しましたが、この「責任(非難)なければ刑罰なし」という責任主義に対して、非処罰プロジェクトはおそらく最も厳しい対決を迫られるでしょう。非処罰プロジェクトは、「責任年齢」や「責任能力」という概念を認めず、また、結果的に処遇期間が無制限となり得る「更新的ユニット制」を持ち込むからであります。注3
たしかに刑法原理としての責任主義における強みは、非難できない行為は処罰しないということ、及び「危険性」を理由に処罰してはならないというルールを導き得る点にあります。ですので、犯行当時14歳未満の子どもであったり、心神喪失者であれば、処罰されないのです。また、刑罰には上限がなければならないということになります。ところが一方で、例えば犯行時14歳未満の殺人者や心神喪失の大量殺人者などへの非難は、社会的な文脈では避けられないため、少年院制度、また医療観察などの「刑罰代替措置」の充用が不可避となります。また、死刑に次ぐ厳罰である現行の無期懲役刑は、その名のとおり、刑の上限を持たない無期限の刑であるため、仮釈放が付されても刑の執行自体は生涯終了しないわけです。注4 その上に、死刑という極刑は、刑罰体系上は「極」、つまり上限でありますが、生命の剥奪という刑罰内容は無限定のものであり、理論上は責任主義を超えています。注5
こうしたありようは、責任主義と言いながらも、刑罰的非難というものが社会的な糾弾(一般大衆や被害者側からの糾弾)と無縁でないために、刑罰の抑制機能を果たせずに、刑罰代替的な措置で補充したり、刑の上限を実質的に外すことで「厳罰」に流れていきがちであることを如実に物語ります。
では、非処罰プロジェクトは「無責任主義」なのでしょうか。滅相もありません。非処罰プロジェクトにも「責任」という概念は存在します。ただし、それは刑法原理の「責任」とは異質的のものです。
まず、「社会構造体責任」が論理上先行します。これは、既に述べたように、あらゆる侵害の要因を作ったのは、言い換えればあらゆる侵害者の「背中を押した」のは、私たちが維持したがっている現存のこの社会体であるということでした。そのような「侵害要因作出責任」に基づき、社会は自らの欠陥を補正する責任、すなわち「社会更正責任」を負うのです。しかし、それだけではなく、違犯者自身もまた、社会に「背中を押され」つつも自らの意思で侵害を実行したということに関して無答責の単なる機械なのではなく、彼/彼女は将来の更生へ向けた責任、すなわち「更生責任」を負います。この更生とは、決して完璧ではあり得ない社会関係の中で、ともかくも重大な侵害は再び犯さずに生きていく生活技術を獲得することでありました。同時にこのことを絵に描いた餅に終わらせないために、社会は違犯者の更生を制度的にも保証していく責務、すなわち「更生保証責任」をも負っていると考えなければなりません。
非処罰プロジェクトにおける責任は、このような社会が負うべき「社会構造体‐更正責任」及び「更生保証責任」と、違犯者自身が負う「更生責任」の相関構造を持つ複合的責任であり、個人の実行責任のみを問い、個人を処罰することでそれを確証するといった単線的構造の個人責任の形態を取らないのです。個人の実行責任なるものは、形而上学的抽象であり、それは社会構造体責任の個人への転嫁に過ぎないと喝破します。
ただし、今日の刑罰制度上も、懲役刑は単なる「懲らしめ」を越えた「教育(矯正)」という目的との連関を持とうとし、またまがりなりにも更生保護の諸制度も配備されていることからすれば、刑罰制度の内部から、上述のような相関構造の責任連関も通奏低音的に響いてはくるようですが、充分に意識化されているとは言い難く、依然として「個人責任主義」に係留されたままです。
さて、「非人道的な刑罰は許されない」という「人道主義」についてはどうでしょうか。たしかに啓蒙主義の時代以来、人道主義は、刑罰の緩和に貢献してきました。今日では手足切断や、耳そぎ、目潰しなどの不必要な苦悶に満ちた体刑は(一部諸国を除き)廃止され、死刑も存置されるにしても例外刑に留まり、大部分は懲役刑または罰金刑で処理されるようになっています。ベッカリーアに象徴される人道主義の歴史的影響には大きなものがあったのです。
しかしながら、人道主義は今日限界に直面しています。「人道主義の名において加害者を保護し、被害者をないがしろにしてきた」というようなイデオロギー宣伝が活発化しています。「被害者」を名分とした厳罰化の波が押し寄せているのです。「被害者のための人道主義」という教条から、「非人道的な刑罰は「人道的」である」といった逆説的反転―ここまで露骨な宣言はまだ耳にしたことがありませんが―さえ生じかねません。「犯罪者」に対してその非難の表現として、権利剥奪的に処罰を加えるという「報復」のコンセプトから解放されていない刑罰制度は、こうした「人道主義の反転」に対して適切な防波堤を築けず、洪水が起これば容易に決壊してしまう恐れがあります。
これに対して、非処罰プロジェクトでは人道主義よりも科学的合理性を重視することで防波堤を築こうとしています。非処罰プロジェクトでは侵害の要因を科学的に究明し、科学的な侵害対応及び被害者援護の体系を提起することで、人道主義の限界を乗り越えるのです。単なる「犯罪学」ならぬ「犯罪の科学」という暫定的なあだ名も与えてみたゆえんです。注6
実は、人道主義の構想の中にも、「刑罰効果を無視した不必要な残虐さは不合理である」という科学的な判断は含まれていたのですし、注7 そのことは人道主義が啓蒙思想とともに発現したこととも無縁ではないでしょう。その意味では、非処罰プロジェクトの科学的合理性も人道主義と「本質的に」敵対するわけではありません。
もちろん、科学の万能性を高調することも誤りです。しかし、前にも引いたとおり、「犯罪が常識だけで処理されたのは長きにすぎた」(メニンガー)のです。いわゆる「犯罪」対応の分野はあまりにも、モラリズムやその他の「常識的」イデオロギーに支配され続けてきました。そこから抜け出して、遅ればせながら科学の光を侵害現象とその対応に当てることが非処罰プロジェクトの課題であると考えます。
このようにして、「粗雑で原始的なまま」(デリダ)である刑法体系は、これを外部から転覆しようと飛びかかっていくのではなく、眠らされている要素を掴みとって内部から揺さぶり、内発的に変革されていかなければなりません。これが「刑法体系の脱構築」ということの意味するものであって、この作業はこれで完成されたのではなく、実はここから開始されるのです。
注1
刑罰が廃止される以上、「刑法」という名称ではなくなるであろう。どのような名称になるかはさしあたり空欄としておく。
注2
過失による侵害をどう理解するかという問題が残されている。ここでは詳論できないが、少なくとも「単純過失(刑法209条や210条に相当するもの)は侵害に含まない」という立場を表明しておきたい。
注3
これらの諸点については、第三部第4章第4節を再度参照されたい。なお、「更新的ユニット制」は1年または2年のユニットの限度内では期間の制限があることに留意されたい。
注4
従って、日本の無期懲役刑は「名称」無期懲役刑であり、理論上は「終身刑」であると言えるのである。また、理論上は生涯出獄を許さないはずである諸外国の「終身刑」は責任主義を破る疑いがあるため、実際には仮釈放や恩赦による出獄が認められる「名称」終身刑であり、理論上は「無期懲役刑」(あるいは一定期間経過後の仮釈放が義務的であれば理論上「有期懲役刑」になる)であることが多い。ただし、この場合でも刑の執行自体は生涯終了しないのであれば、理論上「終身刑」であると言える。他方、有期懲役刑でも、懲役100年といった受刑者の平均余命を越えた極限的有期懲役刑は、「名称」有期懲役刑であり、事実上は「終身刑」または「無期懲役刑」である。いずれにしても、こうした名称と理論、実際の複雑な乖離は刑罰に上限がなければならないはずの責任主義を刑罰制度自身が原理上維持し切れないことの表れである。
注5
死刑判決の判文にはしばしば「被告人の刑事責任の重さは計り知れない」といった常套句が見られるが、この表現は単なるレトリックを超えて、原理上責任主義をも超えている。
注6
第三部第3章第2節(@)を参照。
注7
「刑罰が正当であるためには、人々に犯罪を思い止まらせるに十分なだけの厳格さを持てばいいのだ。そして犯罪から期待されるいくらかの利得と、永久に自由を失うことを比較判断できないような人間はいないだろう」というベッカリーアの端的な言明(ベッカリーア著/風早八十二・五十嵐二葉訳『犯罪と刑罰』(岩波文庫)94−95頁)は、まさに人道主義の合理主義的一面を物語る。

2007-08-08
死刑廃止を超えて:結語
☆前回記事
『死刑廃止を超えて』という連載のタイトルからして、そもそも死刑廃止の見通しさえ立たないと言われる日本ではあまりに先走りだ・・・という疑問が持たれたかもしれません。
しかし、「刑罰の原理は正しいが、死刑だけが問題である」という形の死刑廃止論―最も正統派的な死刑廃止論でしょう―は果たして妥当なのでしょうか。本文でも引用していますが、ヴァルター・ベンヤミンは「死刑批判者たちは、死刑への論難が刑罰の量や個々の法規をでなく、法そのものを根源から攻撃するものだということを、おそらく証明はできずに、どころか、たぶん感じる気さえもなしに、感じていた」と言っていました。本書はこの問題提起に対する完全解答、ではなく、それに導かれた思索の軌跡を辿ったものに過ぎません。
そのようなわけで、第一部でまず死刑廃止論を問い直すことから始めて、死刑廃止の政治的な道筋を探る第二部を経て、最後の第三部で非処罰の展望という地点まで到達するというのが、本書の構成を成しています。 
それにしても、こうして第三部でたどり着く「非処罰プロジェクト」については、さすがにこれはオーバーランだ、バックしたほうがよいと感じられる向きもおありかもしれません。なるほど、現時点での社会意識さらには学術水準に照らしても、そうした感想はよく理解できます。
とはいえ、刑罰制度というものは果たして廃止不能なものなのでしょうか。あるいは廃止がおよそゆるされないような定言命法的制度なのでしょうか。
この点で、フリードリヒ・ニーチェが興味深いことを述べています。曰く、「加害者を罰せずにおく―この最も高貴な奢侈を恣にしうるほどの権力意識をもった社会というものも考えられなくはないであろう」と。さらに続けて、「「一切は償却されうる、一切は償却されなければならない」という命題に始まった正義は、支払能力のない者を大目に見遁すことをもって終わる」。これは「正義の自己止揚」であるとしたうえで、その名は「恩恵」であるというのです(以上、ニーチェ「「負い目」・「良心の疚しさ」・その他」」、木場深定訳『道徳の系譜』(岩波文庫)所収83頁参照。)。
このくだりで、ニーチェは「加害者を罰せずにおく社会」に関して、これを一種の革命体制と見ているようなふしもありますが、それはさておくとして、この「非処罰=恩恵」というニーチェのとらえ方は私たちの「非処罰」とは異なります。「非処罰」は単なる恩恵=恩赦なのではなく、侵害(この用語については第三部参照)に対するより科学的な対応ということに尽きます。
それにしても、刑罰というこの制度は世界中で犯罪に対する対応としてスタンダードとなっており、実際、世界中に遍在していますし、何か「犯罪」と認識されるような出来事が発生すれば、ほとんどすべての人の頭を「処罰」という文字がよぎります。それどころか、その「犯罪」を実行した本人自身が「処罰」を受け入れることさえ、否、欲求することさえあります。これはある意味ではもの凄い規模の「洗脳」でありますが、見方を変えれば、刑罰は目下、人類共通の法文化となっているとも言えるわけです。
そうなると、その刑罰を廃止するというプロジェクトがいかに大変な難事業であるかわかります。それで、第三部は「非処罰の文化構想」といささか大仰に題されたのです。非処罰はまさに一つの地球規模の「文化構想」であり、それの実現は「文化革命」となるでしょう。
しかし、刑罰は無意識のうちに廃止へ向かっています。かつて刑罰といえば、極めて残酷な体刑と死刑であったのが、「監獄の誕生」によって近代的な監獄への収容で置き換えられ、それが「矯正」を目的とするより洗練された「刑務所」となり、さらにそれも執行猶予や罰金で置き換えられ、今や刑務所廃止論・運動も現実のものとなってきています。
ただ、刑罰廃止をいざ意識化しようとすると、たちまち壁にぶつかることも現実です。無意識の廃止傾向はよいとして、意識的な「刑罰廃止論」となると強烈な異論もまた少なくないからです。なぜそうなのかということについても本書第三部である程度触れておきましたので、そちらへ譲りますが、刑罰というものは貨幣と似ていると感じます。貨幣も古来の硬貨が紙幣となり、さらに昨今は電子マネーへと次第に一種の廃止へ向かっているのですが、これを意識化して誰かが「貨幣廃止論」を言い出せば、直ちに暗礁に乗り上げてしまうのです。そしてこの貨幣と刑罰とは非常に強い結びつきを持つことも、侵害要因論の中で述べてあります。
こんなことを考えつつ、またニーチェに戻れば、ニーチェは「加害者を罰しない」という「恩恵」を「法の彼岸」とも呼んでいます。別のところで、ニーチェは「犯罪者たちに対するわれわれの犯罪は、彼らをならず者扱いする点にある」とも言っていた人で(ニーチェ著/池尾健一訳『人間的、あまりに人間的T』(筑摩書房)98頁(アフォリズム66))、これは第三部でたびたび登場してもらった精神分析医のカール・メニンガーの著書のタイトル、『刑罰という名の犯罪』ともピタリと一致します。
先ほど述べたように、非処罰プロジェクトは決して「恩恵」のプロジェクトではないのですが、非処罰という地点は、現在の水準から見るとたしかに「法の彼岸」と言えなくもありません。そうすると、本書はこの「法の彼岸」を目指す最初の第一歩であったと言えるでしょう。今日明日には決して到達しませんが、志を同じくする人々―とりわけ、本書を中心的に捧げる死刑囚の皆さん―* とともに、法の彼岸へ向けてそろそろ船出しようではありませんか。まだ躊躇われる向きには次のメニンガーの警句を。
「万一私たち平凡な者が贖罪の山羊に報復を加えて、甘美な満足感に浸ることを止めるのでなければ、私たちは平和を守ることも、公共の安全を維持することも、精神の衛生を保つことも期待することは出来まい」
―カール・メニンガー
*このことについては第一部序章を参照。


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