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“マガジン9条”誌上での憲法学者の古関彰一氏へのインタビュー記事を転載させていただきましたので、よろしくお願いいたします。
また、会いましょう。
日本国憲法誕生の真実
マガジン9条 古関彰一さんに聞いた (その1) 2007年4月25日http://www.magazine9.jp/interv/koseki/koseki.php
<「アメリカの押しつけではない、自主憲法の制定」を掲げて改憲を推し進めようとする安倍政権。そもそも、戦後、日本国憲法はどのような経緯で生まれたのか、 当時の人々はそれをどう受け止めたのか—— 日本国憲法成立の過程について、国内外の膨大な文献にあたり研究を続けてきた、法学者の古関彰一さんに伺いました。>
(◆:古関氏,<>:編集部)
日本国憲法は「GHQの押しつけ」だった?
<これまで一般的に語られてきた日本国憲法の成立過程といえば、戦後、GHQは日本政府が作成した憲法改正要綱、いわゆる「松本案」(注1)を拒否し、GHQ作成の案を日本政府に「押しつけた」というものでした。現在の安倍政権も、憲法改正を進めようとする理由の一つに、「外国からの”押しつけ“ではない自主憲法の制定」を挙げています。しかし、今年の2月にNHKで放映された、古関さんが解説役を務められたテレビ番組「焼け跡から生まれた憲法草案」では、映画『日本の青空』などでも取り上げられている、戦後に民間の「憲法研究会」(注2)が作成した憲法草案にスポットを当て、その内容がGHQの憲法草案にも影響を与えた可能性が示唆されていました。この憲法研究会草案の存在一つとっても、日本国憲法成立の過程は「押しつけられた」と一言で言えるほど単純なものではなかったといえるのではないかと思います。そのあたりのことについて、もう少し詳しくお聞かせいただけますか。>
注1 松本案…国務大臣の松本烝治が中心となって作成した憲法改正要綱のこと。日本政府案としてGHQに提出されたが、保守的に過ぎるとして却下された。
注2 憲法研究会…戦後、社会統計学者の高野岩三郎の呼びかけにより、在野の学者やジャーナリストらが集まって結成した研究グループ。1946年12月に独自の「憲法草案要綱」をまとめ、日本政府とGHQに提出した。
◆憲法研究会の憲法草案を、GHQが知ってよく検討し、非常に民主的だとして高く評価していた。そして、GHQが作成した草案にもおそらくはその内容が取り入れられた。その事実に加えて、もう一つ非常に重要だと思うことがあります。
◆番組の中ではそこまでは入らなかったのですが、GHQはそうして肯定的な評価をしながらも、「憲法研究会の案は素晴らしい」といったことを、日本国民に向かっては一度も言っていない、ということです。憲法研究会案へのGHQの評価が記されているのは、GHQ内部の文書においてだけなんですね。
<国民に向かって直接なされた発言はなかった、と。それはどうしてだったのでしょう?>
◆それは、GHQによる日本の占領は、天皇と日本政府を通じて行うという形だったからです。国民から見れば間接統治ですね。GHQが直接統治するのではない。つまり、法律の変更一つとっても、GHQが「この法律を変えなさい」と命令は出すけれど、実際に変更を行うのは日本政府だったわけです。
◆だから、憲法をつくるときも同じように、主体はあくまで日本政府だという形だったんですね。それが、GHQが直接日本国民に「憲法研究会案は素晴らしい」なんてことを言ってしまったら、憲法作成が天皇や日本政府ではなく民間団体の憲法研究会を中心に動いてしまうことになる。天皇の権威を絶対に保っておきたかったGHQとしてはそれでは困るんですね。最終的に憲法が制定されたときだって、明治憲法の改正手続きに従って帝国議会で審議して、天皇による勅語をもって受け入れるという形をとった。天皇、あるいは日本政府という権威は変わらないままだったんです。それはGHQ、特にマッカーサーにはとても大事なことだったんですね。
<いわば、天皇や日本政府という権威を守るために、そういった「面倒」な形をとったわけですね。>
◆ただ、GHQ案を日本政府に手渡すときに、あなた方がこれを受け入れないならば、日本国民に直接公表する、と言っています。それだけの決意がGHQにあったということだろうし、必ずその内容は国民に受け入れられるという自信もあったんだと思いますね。それは、すでに憲法研究会案を読んでいたからですよ。
◆それにしても、憲法が押しつけだ押しつけだと盛んにおっしゃる方は、天皇制を非常に支持している人に多いですよね。だけど僕に言わせれば、あのときGHQが象徴としての天皇制を残した憲法を「受け入れないと天皇制がなくなってしまうかもしれないよ」とやや強引に推し進めたからこそ天皇制は残ったんです。そこを理解しないで押しつけだ押しつけだと言って、天皇制を残してくれたGHQに感謝もしないんだから、それは不敬罪じゃないの?なんて冗談を言ったりするんですけどね(笑)。そのあたりのことは、もっときちんと検証されていかないといけないなと思います。
日本政府の草案が否定された理由
<古関さんの著書『新憲法の誕生』などを読むと、そうしてGHQ案が政府に示された後も、日本政府とGHQとの間でさまざまなやりとりがあったわけで、GHQが用意したものをそのまま「押しつけられ」て日本国憲法ができたわけではないことがわかります。しかし、「今の憲法はGHQの押しつけだ」という主張は、現在に至るまで一定の力を持っている。そもそもこうした「憲法押しつけ論」は、いつごろ、どこから生まれたものなのでしょうか。>
◆「押しつけ」という言葉が出てきたのは、1955年に自由民主党が結党した後ですね。この翌年に内閣の中に憲法調査会——現在のものとは違います——ができるのですが、そこでGHQに拒否された日本政府案を作成したご当人である松本烝治(注3)が証言をするんですね。自分がGHQと渡り合った体験を話して「この憲法は押しつけだ」と言うわけです。
◆たしかに、その議事録を読んでみても、松本さんが自分の出した案を拒否されたことは非常に屈辱的な体験だったと思います。GHQにしてみれば、自分たちのほうが日本政府より立場が上だという意識もあったでしょうから、言葉のやりとりも相当きつかったでしょうね。
◆けれど、なぜそうしたことになったかといえば、近代憲法とは何であるかということを松本さんが残念ながら理解していなかったためだと思います。彼はやはり、天皇を絶対とする国家、ヨーロッパであれば19世紀までで終わったような絶対君主制国家の憲法しか頭になかった。本来は、そこのところ——自分には時代に見合った憲法をつくる能力がなかったんだということを、きちんと認めなきゃいけなかったんだと思うんです。
注3松本烝治(1877〜1954)…法学者。戦後、幣原内閣の国務大臣となり、憲法改正を担当。憲法問題調査委員会の委員長を務め、「松本案」と言われる日本政府の憲法改正要綱を作成したが、GHQはこれを「保守的である」として認めなかった。
<つまり松本案は、近代憲法としては到底認められるものではなかったと。>
◆たとえば、今の日本国憲法21条には、「表現の自由はこれを保障する」とある。しかし、明治憲法ではこうした表現の自由はあくまで「法律の範囲内で」認めるというもので、松本案もそれを踏襲していました。これは近代憲法では許されないことですから、GHQもおそらく居丈高に「直せ直せ」と言ったでしょうね。
◆そういうところだけを取り上げて「屈辱的な体験だった」ということになっているけど、じゃあGHQが自分たちの案を一言一句変えないで採用しろと言ったかといえばそうではないんです。たとえば25条の生存権。この発想はもともとアメリカではなくてヨーロッパのものです。だからGHQ案には規定されていなかったのを、戦前ヨーロッパに行っていた社会党の国会議員が「ドイツのワイマール憲法には生存権というものがある」といって議会で修正を加えたんですね。GHQはちゃんとそれを受け入れましたよ。
<受け入れられなかった部分と、受け入れられた部分がある。>
◆そこを私たちは冷静に見なければいけない。どこが受け入れられなかったかといえば、それはやはり近代憲法の理念に反している部分であって、決して松本案、つまり日本政府の案だから駄目というのではなかったんですよ。
◆GHQから押しつけられたと言うなら、いったい何を押しつけられたのか。私は近代憲法を押しつけられたという言い方ができると思います。人によっては、政府は押しつけられたのかもしれないけれど、国民に対しては押しつけじゃなかったという言い方をする人もいる。同じことですね。人権が広く認められる憲法、平和に生きられる憲法、国民はいいなと思うけど権力者は困る、そんな憲法を「押しつけられた」というわけです。
<しかし、「押しつけられた」という言葉だけが一人歩きしてしまった。>
◆そうですね。権力者の言葉がマスメディアを通じて語られ、それがいつの間にか広がって、多くの国民が「押しつけられた」と思うようになってしまったんじゃないか。誰が何を押しつけられたのか、そこは改めてきちっと考えてみてほしいなと思います。
「憲法改正」か「新憲法の制定」か
<さて、その「押しつけ」を主張する自民党の改憲論議について、一つ疑問に思ったことがあるんです。戦後の日本国憲法成立過程は、正確に言えば「新憲法の制定」ではなくて「明治憲法の改正」だったわけですよね。ところが、自民党が小泉純一郎を本部長としてつくったのは「新憲法制定推進本部」で、2005年に発表されたのは「新憲法草案」。改憲改憲といいながら、なぜか「新憲法制定」を掲げている。これはどうしてだと思われますか?>
◆それはすごく大事なところですね。そもそも、憲法の改正と制定の違いとは何かといえば、もともとある憲法の改正手続きを踏んでいるか踏んでいないかです。現在の日本国憲法の場合には、明治憲法の憲法改正手続きにのっとって、昭和天皇が詔書を出して発議をして、帝国憲法改正案として帝国議会に出された。これは改正ですね。
◆一方、制定とは何かというと、手続きを経ないということ。わかりやすい例でいえばイラクです。フセイン政権が倒されて、何もかもが破壊された状態で「憲法制定議会」がつくられ、新しい憲法が制定されたわけですね。
◆では、自民党の案はどうか。自民党はずっと日本国憲法の改正手続きを経て新しい憲法をつくると言っていて、だからこそ国民投票法案を制定しようとしている。だからやはり「改正」ですね。
<そうすると、やはり「新憲法制定」というのは矛盾していますよね。>
◆そこに最大の問題があるんです。なぜなら、改正手続きを経て憲法を改正するのなら、もとの、というか、ここでは日本国憲法ですが、関連性をそこで述べなきゃいけない。日本国憲法のどこが悪かったとか、どこの部分は引き継ぐとか、そういうことですね。たとえばフランスは今第五共和国憲法を使っていますが、その前文にも、200年以上前のフランス大革命のときの人権宣言の理念を引き継ぐ、といったことが書かれています。
◆つまり、自民党が憲法「改正」をするなら、彼らは現在の憲法の平和主義は引き継ぐと言っているんですから、そのことを新しい憲法の中で書かなくてはいけないんです。彼らは、それが本当に嫌なんじゃないでしょうか。だから憲法改正推進本部ではなくて新憲法制定推進本部、つくった案は憲法改正案ではなくて新憲法草案。これはもう事実上「制定」ですよね。
<でも、制定というのは基本的に、先ほどのイラクのように、革命やクーデターで新政権が誕生したときにしかあり得ないのでは?>
◆そうなんです。自民党は自ら革命やクーデターを起こす気なんでしょうか(笑)。
◆それは冗談としても、彼らは戦後の60年というものを、全部無視したいんだなと思いますね。日本国憲法のもとで政権を担った彼らが、これだけ豊かな社会をつくってきたということは紛れもない事実ですから、それを誇りにしたらいいと思うんですが、そうではなくて、この60年を心の底で「日本という国にあるまじきもの」と思っていて、全部なかったことにしたいんじゃないかと。その執念には驚かされるし、そういう人が政治のトップになってしまう時代だということに、すごく怖さを感じますね。
<それに対して、私たちは何をすべきなのか、何ができるのか…>
◆僕が、憲法研究会のことを調べていたときに、強く思ったことがあるんです。研究会の中心になった鈴木安蔵(注4)は、政府からの弾圧を受けながらも明治時代の自由民権派がつくった憲法の研究をしていました。自由民権運動だって、ずっと弾圧されて社会からは認められなかった運動です。それが何十年かして戦後になって認められたわけですね。そしてまた今、鈴木安蔵たちのやったことを評価する人がいるわけでしょう。
◆先人が、苦難の中で守り育ててきた民主主義の思想を、いま、受け継いで生きることが、現実が、あるいは結果がどうであれ、つぎの時代へと受け継がれて行くことになると思うのです。つまり、私たちが今、この改憲の嵐の中で何をするのか、どうやって平和を守ろうとするのかということが、次の世代に教訓を与えるんだということです。私たちが何もしないでずるずると政府に従ってしまったら、次の世代から見れば「自分たちの先輩は、なんといい加減に21世紀を歩き始めたのか」ということにしかならない。
◆平和や民主主義を唱える人をいくらでも弾圧はできますけど、思想を殺すことはできないし思想は死にません。表には出なくても、必ず地下水脈となって受け継がれていきます。鈴木安蔵は吉野作造(注5)に出会って非常に力づけられた。その死後は尾佐竹猛(注6)が鈴木を支えて明治憲法の研究をやり、さらに尾佐竹の死後は、高野岩三郎(注7)が鈴木を誘って憲法研究会を立ち上げることになった。そのように、一人ひとりの力はどんなに小さくても、思想はつながっていくんです。私たちはそんなふうに考えるべきだし、希望はそこにしかないとも言えるのではないでしょうか。
注4 鈴木安蔵(1904〜1983)…憲法学者。治安維持法違反事件第一号の「日本学生社会科学連合会事件」で検挙、獄中生活を送る。思想弾圧の中で自由民権運動の担い手がつくった憲法案を研究し、戦後、憲法研究会に参加して、憲法草案要綱作成の中心的役割を担った。
注5 吉野作造(1878〜1933)…政治学者。大正デモクラシーの代表的論客として知られる。
注6 尾佐竹猛(1879〜1946)…法学者。吉野作造らと「明治文化研究会」を設立した。
注7 高野岩三郎(1871〜1949)…社会統計学者。憲法研究会の設立者のひとり。
古関彰一氏のプロフィール:こせき・しょういち 1943年東京生まれ。早稲田大学法学部卒業後、和光大学教授などを経て、1991年から獨協大学法学部教授。専門は憲法史。著書に吉野作造賞を受賞した『新憲法の誕生』(中公文庫)、『「平和国家」日本の再検討』(岩波書店)『憲法九条はなぜ制定されたか』(岩波ブックレット)がある。