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(回答先: 医者を殺すに刃物はいらぬ。訴訟一つも、あればいい。 : 「割り箸事件」民事訴訟判決→「医師の過失認めず」控訴棄却 投稿者 どっちだ 日時 2008 年 2 月 12 日 20:28:15)
割り箸事件判決に思う 不幸の連鎖 医療訴訟
テーマ:医療崩壊
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日本の救急医療を揺るがし、現在も医師に強烈な防衛医療の動機を与えたている割り箸事件の民事訴訟判決がありました。
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「割りばし事故死」訴訟、両親の賠償請求を棄却…東京地裁
1999年に東京都杉並区の保育園児杉野隼三ちゃん(当時4歳)が綿あめの割りばしをのどに突き刺して死亡した事故で、杏林大医学部付属病院(三鷹市)が適切な診療を怠ったのが死亡の原因として、両親が、同病院を運営する学校法人と治療した当時の当直医、根本英樹医師(39)に約8960万円の損害賠償を求めた訴訟の判決が12日、東京地裁であった。
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加藤謙一裁判長は「医師や病院に過失はなく、診療行為と死亡との間に因果関係もない」と述べ、両親の請求を棄却した。両親は控訴する方針。
事故を巡っては、根本医師が業務上過失致死罪に問われ、東京地裁は2006年3月、「診断ミスはあったが、死亡との因果関係はなかった」として無罪判決(検察側控訴)を言い渡したが、この日の判決は診断ミス自体を認めなかった。
判決によると、隼三ちゃんは99年7月、自宅近くの盆踊り大会に母親と参加した際、綿あめの割りばしをくわえたまま転倒。同病院に運ばれたが、根本医師は薬をのどに塗るなどして帰宅させた。隼三ちゃんは翌朝、死亡。その後の解剖で頭蓋(ずがい)内に約7・6センチの割りばし片が刺さっているのがわかった。
両親側は「割りばしによる頭蓋内損傷を考えて画像診断や問診を行うべきだった」と主張したが、判決は「割りばしが頭蓋内に突き刺さった例は過去に報告されておらず、当時の医療水準では頭蓋内損傷の可能性があると診断することはできなかった」と指摘。さらに、「仮に診断できていても救命の可能性が高かったとはいえない」と述べた。
東原英二・同病院長の話「主張が認められほっとしています。杉野隼三さんに対しては改めて心からご冥福(めいふく)をお祈りします」
(2008年2月12日20時42分 読売新聞)
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>判決によると、隼三ちゃんは99年7月、自宅近くの盆踊り大会に母親と参加した際、綿あめの割りばしをくわえたまま転倒。同病院に運ばれたが、根本医師は薬をのどに塗るなどして帰宅させた。隼三ちゃんは翌朝、死亡。その後の解剖で頭蓋(ずがい)内に約7・6センチの割りばし片が刺さっているのがわかった。
本当に不幸な事件ですね。
4歳児が割りばしをくわえたまま転倒しないように、注意するのが保護者の責任であると思いますが、そのときに保護者はどうしていたのでしょうか?
私は、この事件で医師の初期判断が結果的には病状を把握できていなかったことに注目したいと思います。
医療が不確実であることを医師は知っています。
医師のほとんどはその経験から、すべての疾患に対して完璧な診断をくだすことがいかに難しいかということを知っています。
とくに救急の場合は必然的に得られる情報が少ない場合が多々ありますので、結果的に医師の初期判断が誤りであったということはどうしても起こりうることです。
医師の初期判断が誤りであり、患者の命に関わることはどうしても起こりえます。
したがって、医師の初期判断が誤りであったからといって、医師に刑事罰を与えたり、高額の民事訴訟で医師が負けるなら、救急をする医師は日本からいなくなってしまうでしょう。
ですので、社会から医療をなくさないためには、この判決は正しいと思います。
一方で、患者サイドからみれば、
結果的に医師の初期判断が間違いであった場合、
「医師の初期判断が正しければ、命が助かったのではないか」という疑問を抱くことは、当然のことではないでしょうか?
この事件でも医師の初期判断が正しければ、この子は障害が残っていたとしてもいまも生きていた可能性を誰も完全に否定できないと思います。
この患者と遺族は不幸にも医療事故にあったわけです。
私は遺族も救済されるべきだと思います。
その救済の手段として遺族が医療訴訟に頼っていることが不幸の連鎖をひきおこしているのではないでしょうか。
医療訴訟では決して真実は明らかにされません。
医療訴訟ではその事故による教訓を得ることも難しくなります。
ですので、国は医療事故が生じた際に遺族を救済するための無過失保障制度の充実を早急に達成すべきではないでしょうか?
医療において事故は避けられないものであります。
多くの国民の方に 「医師の刑事罰を免責することと同時に、無過失保障制度を推進することの意義」に関する 李 啓充 先生の下記の文章を読んでいただきたいと思います。
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続 アメリカ医療の光と影 第8回
No-fault compensation system
(無責救済制度)
李 啓充 医師/作家(在ボストン)
社会の幻想,医療者のドグマ
前回,加藤良夫氏(愛知大学法学部教授)が提唱する「医療被害防止・救済センター」構想を紹介したが,特定の状況で何らかの身体的被害を被った人が損害賠償訴訟を起こさなくても被害の救済を受けることを可能にするという発想は,決して突飛なものではない。
医療以外の分野では,例えば,労働災害の補償,交通事故後の被害の補償に対し,損害賠償請求訴訟以外の救済制度が用意されている。
損害賠償請求訴訟では,被害を受けた側が,「誰かの過失および過失と受けた被害との因果関係を立証」しなければ救済を一切受けることができないのだが,労働災害・交通事故については,被害を受けた側にそのような過酷な立証責任を負わせてはいない。
労働の場でも,交通の場でも,「事故は当然起こるもの」という前提があり,起こった事故に対しては被害者が速やかに救済される制度を用意することが合理的だという合意が社会に定着しているからである。
誤解される危険を承知で敢えて記すが,医療に事故が起こることは避け得ない。
人間と高度な技術とが複雑に絡み合う医療というシステムには,いたるところに不確定な要素が満ち満ちているからである。
しかし,非常に不幸なことに,医療については,「事故は起こってはならない,誤りがあってはならない」という幻想とも言える過剰な期待が社会にあり,その幻想に従って,誤りを犯した当事者を罰し損害を賠償させるということを優先し,誤りから学んで類似事故の再発防止をめざすことを二の次としてきたのである。
それどころか,「事故があってはならない,医療は間違えてはならない」というドグマに縛られた医療者たちは,事故や過誤の事実を隠蔽するという悪しき文化を医療界に蔓延させてきた。
刑事罰に再発防止効果なし
特に日本の場合,たまたま事故の当事者となった医療者に対し「業務上過失致死・障害」などの「犯罪」責任を問うことを最優先するシステムを運営することで,「隠す文化」はさらに助長された。
4000年近く前,バビロン王朝は「手術に失敗した医師は両手を切り落としてしまえ」とハムラビ法典に定めたが,日本の社会は,4000年前と変わらぬ発想で医療事故・過誤に対し刑事罰で臨むという対処を続けてきたのである。
「医療の場に事故があってはならない」というドグマが幻想にすぎないのと同じように,「医療事故に対して刑事罰で臨めば『一罰百戒』の効果があり,医療事故がなくなる」というドグマもまた幻想でしかない。
なぜならば,医療の場で起こる「誤り」とは,多くの場合,「誤り」の当事者が根本原因となって起こるのではなく,システムそのものに内在する根本的な「欠陥」が顕性化するに過ぎないからである。
例えば,経管栄養のチューブを点滴ラインにつなぎ間違えるという誤りだが,根本の原因はつなぎ間違えが起こり得るようなチュービング・システムを使うことにある。
経管栄養も点滴も共通のチューブでつながるシステムをユニバーサル・システムというが,米国では何十年も前にユニバーサル・システムの使用を止めているので,経管栄養を点滴につなぎ間違えるという事故は消滅していた。
しかし,日本では,過酷な労働条件のもとで,たまたまつなぎ間違いをしてしまった医療者を責め刑事責任に問うということを繰り返すだけで,システムを根本から改善することには目をむけようとはしてこなかった。
米国では類似事故がとっくに消滅したというのに,数十年もの間,漫然と類似事故による犠牲者を出し続けてきたのである。
スリーマイル島の原発事故でも,スペースシャトル・チャレンジャーの爆発事故でも,事故原因が科学的に分析された場合に得られる教訓は,「システムに内在する欠陥を正さなければならない」ということであり,医療に起こる事故についてもこの原則があてはまることは共通である。
起こった事故のフロントにたまたま立つことになった医療者を責め,排除するだけでは,類似の事故の再発を防止する効果は望み得ないのである。
訴訟から独立した救済制度
再発防止と被害者の速やかな救済を最優先とするためには,損害賠償請求訴訟とは独立の救済制度を社会に用意することが最も合理的であり,だからこそ,筆者は,加藤良夫氏が提唱する「医療被害防止・救済センター」構想を真剣に検討すべきだと主張しているのである。
同氏の構想は決して荒唐無稽なものではなく,実際,スウェーデン,ニュージーランドなどでは,類似の医療事故被害救済制度が運営されている。
例えば,スウェーデンでは,「過失の有無」を補償の基準にするのではなく,「避け得た医療事故であったかどうか」という基準で被害が補償される制度となっている〔「No-fault compensation system(無責救済制度)」という〕。
各医療機関には,医療事故に対する被害補償申請用紙が用意され,当事者となった医師は患者の補償申請に進んで協力し,医師が患者の医療事故の補償申請に協力することは,今や,日常の医療行為の一部とまでなっているという。
ハーバード大学公衆衛生学部のブレナンらは,スウェーデンの制度を米国に当てはめた場合,過誤訴訟に基づく現行の制度よりも社会のコストは安く上がるという試算結果を報告している(JAMA, 286巻217頁,2001年)
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杉野隼三さんのご冥福をお祈りいたします。
天夜叉日記
http://ameblo.jp/showatti/
[コメント]
一言。ある意味では育てる意味もあるでしょう。医療の本質的な問題が備えられている。しかし、それは、「神の手」の仕事を選んだ職責という意味もある。だから難しい内容である。