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(回答先: はじめまして、考察者Kです。 投稿者 考察者K 日時 2008 年 1 月 06 日 00:21:29)
考察者Kさん。
はじめまして。ご返信いただきまして有難うございます。
>唐突に「哲学」が出てきますが、この場合の「知(学)という現実」と「哲学の原理・原則」との関連性が不明ですし、真である場合は(それだけの理由で)偽というのが理解不能です。
まず、「知」と「哲学」との関連性についてですが、哲学が目標とするのは知の構築だとすると、目標設定のために一定のルールは必要で、知に向かうには哲学の原理原則が必要になるということだと思われます。そこを理解した上で、知とはヘーゲルによると意識が生成変化する過程での自己形成の試みであり、それは、弁証法的発展によって絶対知へ到達しようとする「人間精神の旅」でもあると言われています。ヘーゲル哲学の賛否についての議論ではありませんので、話が脱線しますといけないですね。(笑)私は、客観的な意見の内実をヘーゲルの「知」の探求から見出そうとしたわけです。
『自己を形成し教養を身につけ、実体的生命の直接態から抜け出すためには、いつも次のことから始めなければならない。つまり、諸々の一般的な原則と見地について知見をえ、そうすることによって始めて、事柄一般の思想に向かって努力を傾け、またそれに劣らずこれらのものにいろいろな理由に基づいて賛成または反対し、具体的で豊かに充実した内容を規定してつかみ、この内容について正当な決定と厳粛な評定を与える途を心得る、・・・』(ヘーゲル『精神現象学』平凡社ライブラリー、20頁)
解説するまでもないことですが、上記ではヘーゲルは知に誘う意識の心構えことを語っています。私の考えでは、自己形成(生成変化)によって、「知」の生成過程での客観的尺度の精度が向上する段階論的な思考法だと捉えています。
>原理・原則というのは約束事(摂理)でしょうから、普遍的でない変化するものなら、原理・原則という「用語使い」が誤っているような気がします。
そうであると、何故翻訳者は間違った「用語使い」を行ったのでしょうか?私は、原理・原則といえども時や場所によって変化するものだと思っています。
>「議論」における「ある種のルール」とか「マナー」は変化するという可能性がありますが、「虚偽は反則」「詭弁は避けるべき」等の「最低限のルールは原理・原則とも言える根幹であり、この当たりは変化はしない」でしょう。
主観的なものも環境と共に生成変化しますから、環境もそれに従って変化していくのではないでしょうか?最低限のルールは変化しないとのことですが、普遍的な原理・原則というものをご教示下さいませ。
>無論、強弁的な感情論を繰り返すだけでは「非生産的」ですが、人間なかなか「感情論を綺麗に捨て去るのは難しいもの」です。
気楽に行きましょうねぇ〜
はい。私達は「感情」を持っていますので、欠点を指摘されたりすると、つい独りよがりの強弁を用いたりしますね。自分の弱さや欠点を冷静に自己分析しつつ、それを認めた上で自己の向上につなげていきたい所存です。
今後とも、よろしくお願い申上げます。