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議論というのは「相手に欠如している視点の指摘のし合い」とKは思っている。
詭弁と見破れないような巧みなテクニックを使用するのも面白いとは思うが、それは所詮はディベートの一種であり、本筋からは遠い。
議論に勝利するというのは「ディベートの技法争い」ではなく「相手の盲点になっている視点を指摘し、相手を納得させる」という事に本質があると思っている。
「憑き物落としの呪い士」を自称するKは「憑いているであろう憑き物」を想定し、それを「落とす呪文」を考えるのが「楽しい」
「憑き物」というのは、時には「常識」であったり、時には「イデオロギー・信念」と呼ばれるものだったりする。
簡単に言えば「思い込み」というのが「憑き物」である。
大抵の「憑き物」は「完全な間違い」ではなく「一面的、部分的には正しい」
しかし、「完全に正しくはない」
例えば「一般的に、男性は女性に体力において勝る」
しかし、もちろん、それは、全ての場合に正しくはない。
女性のプロレスラーとひ弱な男性が喧嘩をすれば「女性が勝つ事だってある」だろう。
物事には「表」があれば「裏」もある。
ハイリクスハイリターンではないが「良く効く薬」は「副作用」が付き物であり、たいていの場合には「リスク」が付きまとっている。
その「リスクの説明を省略したセールス」は大抵が詐欺であると言える。
「お嬢さん、この薬は良くやせますよ。」という耳障りの良い言葉に騙されると「健康を損なったりする」と言えるだろう。
「この投資は間違いありません」というのは「紹介企業が間違いなく儲かる」だけで、「間違いなく儲かる投資なら自分だけでやり、人に紹介したりしない」ものだ。
世の中が巧く進まず、変な風に歪んで来るのは「合理的思考による帰結」と「世論が求めるもの」が必ずしも一致しないという事に大きな原因がある。
この上記の言い方は「不適切」かもしれない。
「合理的思考による世論」と「感情的形成による世論」が矛盾しているので「政治が歪む」という方が適切だろうか?
極端に言えば「合理的思考による世論」は「世界の恒久平和と、人類の平等」を願いながら、「感情的な世論」は「隣の国より、豊かな我が国を求める」と言う事である。
「そんな事はないよ」と思うだろうか?
しかし、人は「平等」を願いながら「他人より幸福である事」も願う生き物なのは、まず間違いがない。
少なくとも「他人より、不幸な生活をしたい」と考えている人は「ほぼいない(どこにもレアケースはあるので断言するのも危険ではある)」
そもそも、自由競争原理というのは「他人に勝つための原理」である。
自由競争に勝って「他人もくしは他の国より、良い暮らしをする」と言うために市場という闘技場で争うのである。
人間、平等を求めながらも「能力は均等ではない」
昨今、最低賃金の議論なども行われているが、1時間に10個の商品を作る人と8個の商品しか作れない人の「時給が同じ」が平等であろうか?
仮に「ノルマ」というもので考えてみて、ある人Aは50分でノルマをこなす、ある人Bは1時間10分掛かる。
この2人が組になっていたとすると、二人が「時給1時間で同時に帰宅する」には「常にAがBを約10分手伝って1時間で仕事が終了する」という事が予測される。
これ、平等を考えていくと色々と難しい。
平等という意味での妥当を考えてみよう。
1 Aは50分で仕上がった時点で「お先に」と帰るのが良い「ノルマはこなしたのだから賃金カット無し」。その場合Bは「10分の時間外労働手当をもらう」が妥当
2 Aは50分で仕上がったが、拘束時間内なので10分のBのノルマには立ち入らない適当な作業をして帰宅、Bは「10分の時間外労働をするが、ノルマの内なので時間外手当なし」が妥当
3 AもBも「同等のノルマ」なので「ノルマ終了後帰宅」が妥当
4 AがBを手伝って、A,B共に「1時間の拘束時間で帰宅」が妥当
が標準的なバリエーションだろうが、どれが、一番「平等」に近いだろうか?
これを、考えていくと「最低賃金の時給問題」も色々と難しいと思わざるを得ない。
最低賃金をむやみやたらと「先に決定」してしまうと。
1時間、ブラブラしていても、「その場所に居れば賃金獲得」になる。
「暇な、お留守番」でも契約双方が合意できれば「それでも良い」であろうが、暇な、お留守番であっても「暇なら、掃除などの仕事を探して、少しでも役立とう」とする「気の利いたお留守番」と「テレビなどを見て過ごし、電気代を浪費するだけで、自らは進んで役立とうなどとは全く思わない」気の利かないお留守番では「同じ賃金を支払うのが馬鹿らしい」と思うの普通だろうと思う。
賃金には「拘束時間」と共に「能率給」を加味する必要がある。というのは以前にも書いた事がある。
考え方とすると「最低賃金(時給)1000円」に定めるとしても、それは、あくまで「標準作業による最低賃金(時給)」であり、「時間的拘束部分(仮に500円)」と「標準的作業給(仮に500円)」を合わせた賃金にすべきだろうとKは考える。
最低の拘束時間給の部分は保証されるにしても、標準作業に達しないものは「標準作業」分の「作業を終わらせて帰宅(時間で補填)」か「賃金カット」も仕方がない。
逆に言えば「能力が標準以上」の者は「早く帰宅する」か「賃金アップ」があっても良いのだろう。
もっと言えば「請負に出来る仕事は全て請け負い制」という考え方もありである。
企業とすれば「請負」とすることにより、「その部分のコスト」が確定できる。
そうすると「商品価格は安定」し「利潤が読みやすく」なる。
と言え、親請け、子請け、孫請けの「下請け制度」が、過去の例的には問題があったのも確かである。
企業の企業による「請負」は問題もあるのだろうが
最終的な「個人の請負」による「最低賃金問題」との整合性に問題が関係するかまではハッキリしない。
Kが思うのは「勤勉・勤労は奨励しなければならない。怠惰、サボりは駆逐しなければならない」と言う事である。
誰だって「楽できるのなら楽した方が良い」
また「楽を一概に悪」とも言う事は出来ない。
それでも「他人にツケを回すような楽」は「悪」なのだろうと思う。
「寄生虫」は「誰かが迷惑をしている限り」は「害虫」であると言えるだろう。
人間の感覚であるならば
流石に「何もしてくれなかったお留守番」と「精一杯、仕事を探して頑張ってくれたお留守番」を同じ評価では「合理的」とは思えない。
労働者の立場からすれば「何もしなくても、拘束時間で縛られた時間」であるという「理屈」を後ろ盾にして「楽してお金がもらえるなら、それに越した事はない」という気持ちがあるのは分かる。
一面的には「労働者」の地位向上は「資本階級からいかに効率よく金を吐き出させるか」に勝負の鍵があるとも言える。
しかし、金の取りやすい企業から「金を取る」というのは、ある意味「お人好しの企業」を食い物にしてしまう。
「ホワイト企業」を潰して「ブラック企業」を増やしても「自分で自分の首を絞めるに等しい行為」には「走ってはならない」
「クレーム」と「恐喝」と「正当な権利主張」も明確に区別する必要がある。
しかし、一人での「考察迷路巡回遊び」には限界がある。
視点を変え、多方向から「現象を見つめても」
所詮は「持っている知識が同一人物では同じ」であるのだから、すぐに行き詰まる。
前から書いているが、Kは議論の勝ち負けには拘っていない。
正直に言えば「Kよりも上の論客から一本くらいは取りたい」という気はある。
それは「上位論客すらも気付いていない視点を提供(指摘)できた。」という意味をもっている。
Kとの議論によって「相手が、より高見に上った」のなら「その議論は無価値ではなかった」と言う事になる。
「一本取れれば、後は滅茶苦茶に論破されて負けて良い」のである。
Kの体裁など、守るべき価値もない。プライドや見栄は「過去に置き去りにしてきた。」
論破されたという事は「Kが気付かなかった視点に気付かせてもらった」という事になる。
「自分が論破され、自分の未熟さに気付く事」以上の喜びはあるのだろうか?
多少、プライドや見栄が傷付く事や、体裁を損なう事には「比較にならない」くらいの喜びではないだろうか?
そこを経験して「人は成長を重ねる」
Kは、そう思っている。