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あっくんさんのご投稿を読んで、なにかしら響くものひっかるものがあるのは、わたしにとって一つのメッセージを与えられているのだと考えていいのだと思う。
もしかしたら、死刑を容認する人が九割を超えていることと何か関係があるのかもしれない。
人はものごとの断片しか見ることができないし、人に対してならなんとでも云えるものだ。
しかし、現実に己が往き止しならない事態に陥れば、傍観者的立場で評価していた他人事が如何に重大事であるのかに気がつくものだ。しかし、如何せん人はそのような窮地が去れば、のど元過ぎれば熱さ忘れるがごとく忘却の彼方へそれらの経験を押しやってしまうのである。たとえ経験としては鮮烈に脳裏に刻まれていたとしても、別の思考が入り込めば後ろへ後ろへと押しやられてしまうものである。
人間生活の日常は、絶えず次から次へと様々な雑事、仕事、役割、欲望、、に思考が移り変わるものである。
このような生活の中で、陰謀を追求したり、歴史を究明したり、真理を追い求めたりという行為は、単なる思考の断片に過ぎずそればかりを考えて生きてゆけるものではない。また、あるときは日常の中で陰謀の主体と想定する巨悪な存在と同等の行為を行っている自分に気がつくこともある。例えば、己だけの優越意識を追い求めているとき、目先の欲望から他と争うような行為を自覚した時にである。
我々は何を動機として行動しているのか?これはとても重要なキーワードであるように思う。
つまり、自分自身の安泰を願うが故に学んでいるのか?欲望の追求の為なのか?他よりも上等の知識を得るという優越意識の為であるのか、、。
それとも、、、。
また、何がしたいか、、と、何ができるかは、意味が大きく違うのだと思う。
何ができるかとは、他への貢献を意味していると思う。
それは、役割という言葉とはたらきという言葉が意味するものである気がする。
もしかしたら、我々は陰謀を暴くという正義の心の裏にある弱さこそ追求するべきであるのかもしれない。
墨家思想
http://homepage3.nifty.com/juroujinn/bokuka.htm
お粗末でした。