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(回答先: 犯罪とは何か、裁判とは何か、刑罰とは何か、服役とは何か 投稿者 茶々 日時 2007 年 12 月 13 日 16:59:28)
茶々さん、こんにちは、はじめまして(多分?)。
>如往さんご推薦の「非処罰プロジェクト」、私の頭では読み終わるのを待っていたら今年も終わってしまいそうなので(笑)、ちょっとその前に書いておきたいことを書きます。
「非処罰プロジェクト」の“死刑廃止を超えて”は大へんな力作であり、ひょっとしたら茶々さんの問いと答えを殆ど網羅しているかも知れません。確かにブログ上のものとしては相当な量の論稿になりますが、程よく纏められていて体系的な論述がされていますので、是非とも読破して欲しく思っています。
>僕は人の命には命をもって贖罪するのが当然のことだと思う。それでも許されないが、それ以外に謝罪のしようはないと思う。」(←茶々さんquoted)
>私はこの人は良くも悪くも普通の人なんだと思います。「その前に、僕は人を殺めることなんてできない」と言ってるあたりがね。これ聞いた時は私は答えにつまったからそれっきりだったのですが、改めて考えてみると「人の命には命をもって贖罪するのが当然」と固く信じきっているところはやはり疑問を感じます。
茶々さんの疑問にも通じるかも知れませんが、件の方には “何故当然と考えるのか” との自問自答を今後も繰り返していって欲しく思います。さらに、それが自身も違犯者(侵害者)になる可能性を十分顧慮した、より広角的な考察へと進化するように願っています。
>ただそれを突破するためには、死刑云々だけでなく、そもそも犯罪とは、裁判とは、刑罰とは、服役とは何かとを総合的に考え直さなければいけない、と思います。例えば上記の事件の例のように、服役中(⇒保釈中?)に再犯をやらかすこともあるわけで、いったいそいつは刑務所で何をしていたのか、刑罰とは何のためにあるのか、私たちはもっと知識を得て考えなければならないのでしょう。
死刑制度について考察するにあたり、最低限の手続きとして自身を当事者の身に置き換えてみると云った作業を怠ってはならないと考えます。この場合の当事者とは主に死刑囚になるのですが、何も死刑囚にたいしシンパシーを懐くことを意味するものではありません。また、これを契機にして、裁判の傍聴、犯罪(事件)の研究、関連法規の学習等を通じ、死刑制度に関する認識を具体的に深めていくのは有意義なことであり、自分がどのような立場をとるかを決めるのはそれからでも遅くはないと思います。
また、会いましょう。