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戦後の日本の教育は失敗した、これに同意する。
しかし、すべて、日教組に責を帰するのに首肯しない。
日本の、戦後教育の仕組み、受験体制、学歴志向は、「国、支配層の政策」、「日本の社会の仕組み」、「日本人の欠陥」(?)
と深く結びついているものであって、一組合の責任ではないというのが私の持論です。
蛇足になりますが、学歴社会は、ねずみ講と類似している。
現在、「伝統芸能保存会」程度の日教組にたいする、マスコミ系識者たちの相変わらずの攻撃は、知的怠慢に過ぎないとおもいます。
これら攻撃の背景には、「私自身を含めた日本人一人一人、そして保護者の責任逃れ」があるとおもいます。組合と教師を責めるのは一番簡単だからね。
教師の質が落ちてるという指摘がありますが、それは、日本という国全体の質の低下の反映にすぎないとおもってます。
デモしか先生、赤旗先生はだめという反省から、待遇をよくして、素直な、良い「ガクセイ」を集めたはずでなかったのか?
自身の経験からですけど、教師の影響力同等あるいはそれ以上に、テレビ、同級生の影響があったとおもいます。
平和教育、民主教育、そんな「無駄なもの」は、校長、教師の「見栄」(どこのガッコに何人とか)と、父兄の「教育熱心」に、簡単に吹き飛ばされていたのが現実ではなかったのではないでしょうか。
「平和教育」を特に受けたという記憶は私にはありませんが、学校で「平和を教育する」のは当たり前だとおもいます。
「複雑に錯綜した問題に、簡単な解決策はありません」。
満蒙は生命線、ズデーデンは最後の領土的欲求、ポピュリストたちの甘言に歓呼した大衆の苦々しい歴史は古いものではありません。
私は、資本主義が、その歴史的な使命を終えたとおもっています。
人々の生活の利益と、資本主義経済活動の利益が「まるで」かみ合わなくなっているからです。
そして、このままでは、地球が資本主義に「無理心中させられる?」と思っています。
戦後の一時期の物質的繁栄、大衆の地位向上は、日本史上、「例外的な時期」だったと思います。
それを可能にしたのは、世界史の僥倖、前の戦争の犠牲者、日本人の兵隊的従順さ、農民的勤勉さ等だとおもいます。
その「例外を基準」にして、同程度の物質的保障、社会的安定を自動的に享受できるはずだ、との主張は、簡単なものではないと思います。
沖縄の歴史教科書書き換えに抗議するするデモは、その、当面の解決を示唆するものがあります。