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(回答先: 如往さん、真摯なレスをありがとうございます。 投稿者 ワヤクチャ 日時 2007 年 9 月 08 日 19:08:47)
ワヤクチャさん、こんちは。
>私は1956年生まれの51歳です。1977年に二浪して大学に入学しました。
>ですから全共闘は既になく、民青といくつかの弱小セクトが大学にあったぐらいです。
>私は大学に入って直ぐに民主主義学生同盟というセクトに入りました。
>私の思考の原型がこのセクトによって作られたと思っております。
私は40年代生まれの所謂団塊の世代の人間です。69年に入学、学部は74年の卒業ですので、ワヤクチャさんとは学生時代が重なることはなかったのですね。哲学を学ぼうと考えて大学を目指しましたが、学科の教授ばかりではなく当時の誰もが自身の学問的志向と社会問題にたいする問題意識との整合性を図ろうと苦闘していたことでは私も例外ではありませんでした。
何故、あの頃自分が社会的な問題意識を持ち得たかと云うと、勿論、当時(67年〜68年)の社会的背景が挙げられますが、もう一つ特筆すべき原因には大学生による高校生にたいする、あるいは高校生による高校生にたいするオルグ活動が日本全国で活発化していたことが大きいと考えています。各地の高校では社会科学研究部(社研)を中心にして小規模ながらも学習グループが形成され、私が通っていた高校でも有志が集り、『共産党宣言』、『ドイツイデオロギー』、『経済学・哲学草稿』、『共同幻想論』等を題材にして月に一回のペースで読書会を開いていました。新左翼のシンパや民青の予備軍や私のような哲学好きの人間等、メンバーは様々でした。今はもう当時を懐かしむ心地にはありませんが、時代的・社会的背景と問題を受けとめるための運動体の組織化と云ったモメント(契機)は社会の変革には重要なファクターであることに変わりはないでしょう。
>理論と運動の関係は20歳ぐらいから30年間私の課題であり続けました。
>真理追究をおろそかにすれば行動の原動力は衰退すると思われます。
>しかし、真理というものに無関心な人々に対して一体何をアピールすべきなのか?というオルガナイザーとしての問題意識は常にあります。
究極的には社会的問題や政治的問題の問題解決運動は真理の探求に資するものであり、その逆もまた真であると考えます。社会運動家や政治家がそう強く意識しているとはかぎりませんが、誰もがレーニンや毛沢東になれるものではないでしょう。しかし、時代が変わっても問題解決のために各人の発意において当事者能力を発揮していくことが必要であり、市井の中にありながらも人々の当事者意識を喚起すべく絶えず問題提起していく人間の存在が重要であることには変りはありません。
>小沢一郎は私の組織戦略と非常に似通った感覚を持っているように思われます。
>人々の主観を媒介にして自らの政治戦略を現実化するという発想です。
>この人々の主観という問題と真理の追究の作業というのは分離しているように思われます。
>これが「真理と運動」という文章に込められた意味です。
政治戦略現実化のための原動力として組み込もうとするならば、その場合の主観とは頗る情動的なものを指すのではないでしょうか。小沢一郎という政治家に真理の追究といった志向性があるのかどうかは不明ですが、少なくとも政治的理想は持っているとは考えたいものです。けれども、どんなものになるのかいま一つ社会変革の構想図が不明確なことが欠点になっていると感じますし、それを推進していくための広義のディレクターとしての資質が小沢一郎に具わっているかどうかは今後も注視していきたいと思っています。
また、会いましょう。