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今、時間がありませんので取り合えずネットで書評を拾ってみました。
http://www.asyura2.com/07/idletalk25/msg/385.html
投稿者 ワヤクチャ 日時 2007 年 7 月 30 日 23:44:10: YdRawkln5F9XQ

(回答先: かかる著作を参考文献に推奨された真意はどこに? 投稿者 如往 日時 2007 年 7 月 30 日 19:53:27)

要は民主主義は何かしら肯定的なイメージで語られる事が多いですが実はその原理は曖昧であるという事が言いたいのです。
私は民主主義を批判的に捉えた本をあまり知りません。
この長谷川氏の本はそのような本であり私に衝撃を与えたという意味で紹介させていただきました。
一番簡単に言うと民は間違いも犯すものであり民主主義が民が主人であるという主義であるならばそれは形式であるに過ぎず間違いも犯す形式であるに過ぎないという事です。

読書録438(2004.09.18)
長谷川三千子『民主主義とは何なのか』(文春新書、2001年)
http://www6.plala.or.jp/Djehuti/438.htm

坪内祐三『新書百冊』(読書録435)に刺激
を受けて新書をとりあげています。前回、 『法
とは何か』をとりあげたので、『〜とは何か』
つながりで今回は『民主主義とは何なのか』。

・長谷川三千子(はせがわ・みちこ)
 1946年、東京都生まれ。東京大学文学部
哲学科卒。同大学大学院博士課程修了。現
在、埼玉大学教授。著書に『からごころ』『バ
ベルの謎』『正義の喪失』、共著に『二十一
世紀に伝えたい日本の心』『あなたも今日
から日本人』『憲法改正』など。

▼本書の内容

民主主義とは、「人間に理性を使わせないシステム」である。

【第一章 「いかがわしい言葉」―デモクラシー】
 われわれは民主主義そのものを自明のものとして捉えている。知的作業としてはこ
れを疑う必要がある。
 民主主義という言葉は、第一次大戦までは「いかがわしい言葉」だった。それはフ
ランス革命時の恐怖政治を意味した。ところが、第一次大戦で勝った英仏側が、戦争
の大義として「民主主義のための戦い」を使った。しかし、当時は大衆が好戦的で
あったことを考えると、民主主義が戦争を起こしたとも言え、これは欺瞞である。民
主主義が生んだヒトラーが「民主主義の敵」とされたのも欺瞞である。

【第二章 「われとわれが戦う」病い】
 民主主義には「不和と敵対のイデオロギー」(ひとつの共同体の内側に、常に上下
の対立を見出し、上に立つものを倒さねばならないとするイデオロギー)がある。こ
れは既に古代ギリシャの民主政においてはっきりと姿をあらわしていた。
 民主政と僭主政は本来近いものである(民衆の力を原動力として行われる政治)。
そのため古代ギリシャ人は、自分たちの指導者が僭主とならないように常に指導者を
血祭りにあげなければならず、それがまた僭主が育つ準備となるという悪循環を繰り
返した。

【第三章 抑制なき力の原理―国民主権】
 イギリス革命は、先人の知恵を尊び、現代の人間たちの傲慢を抑えるという伝統へ
の回帰であった。これに対し、国民主権の原理を登場させたアベ・シェイエスは、国
民の意思を至上至高の法としてしまった。そしてそこではルソーが想定したような、
熟慮、配慮、遠慮といった「理性」を国民に要求しなかった。しかも、国民の意思が
絶対であるため、そこには以前のような神法や自然法への服従という抑止も働かな
い。
 国民主権は「抑制なき力の原理」「国民に理性を使わせないシステム」である。

【第四章 インチキとごまかしの産物―人権】
 アメリカ独立宣言は、人権を確保するために政府が作られたと説く。フランスの人
権宣言も同様である。そうであれば、国民主権も人権の確保として正当化される。そ
れでは人権は何によって根拠づけられるか(英国権利章典は、英国の歴史に基づ
く)。アメリカは神を持ち出した。人権とはキリスト教的概念であるが、キリスト教
に即してもごまかしによって成り立っている概念である。
 人権(自然権)概念を最初に提示したホッブズは、神や「古来の法」に頼らずに国
家を設計するため、社会契約説を用いる。彼は、自然状態における人間は自然権(生
存権)を持っているため、万人の万人に対する闘争を引き起こすという。そのため、
自然法によって自然権を放棄する必要が生じる。そしてこの自然法を遵守させるため
に、社会契約による国家創設が必要となる。ホッブズは自然権を宣言すべきものとし
てでなく、放棄すべきものとしている。
 この考えを変えたのはロックである。彼は、自然状態を自由で平等の状態だと言
う。そして、自分たち市民はいつも善であり、悪は外にいるという認識を示す。そし
てさらには絶対専制君主も悪であると述べるのだ。
 このようにして、人権概念も、国家の指導者を悪玉扱いして引きずりおろすイデオ
ロギーとなった。そしてそれが共産主義によっても使われている。また、人権は自己
修養には目もくれない。人権の氾濫、それによる人権同士の対立も目につく。人権は
無効である。

【結語 理性の復権】
 民主主義とは、人間に理性を使わせないシステム」である。真の理性とは、虚心坦
懐に他者の声を聞くということだが、民主主義は不和と敵対をもたらす(不和と敵対
のイデオロギー)。われわれは民主主義を克服し、本当の意味での理性を復活させな
ければならない。


▼感想

本書は、ひとことで言えば、民主主義は「人間に理性を使わせないシステム」だから
よくない、という内容です。しかし、どうも疑問の多い本でした。

大きいところから指摘しましょう。民主主義に欠陥があることは事実です(長谷川三
千子の指摘が全部正しいわけではありませんが。後述)。しかし、だから民主主義が
ダメということにはならないでしょう。もしかしたら修正が可能かもしれませんし、
それが難しいとしても、他にもっとよいシステムがなければ、われわれはより悪くな
いシステムとして民主主義をとらざるをえません。それなのに民主主義の欠点を指摘
しただけで「克服しなければならない」と結論づけるのはあまりに短絡的且つ無責任
です。民主主義にはこういう欠陥がある、という程度で止めておくべきでした(同様
の指摘は、「国民主権」「人権」についてもいえます)。

次に、長谷川三千子は民主主義を単純にとらえすぎています。民主主義はもっと複雑
であり、また修正が加えられてきた概念です。例えば、長谷川三千子は、民主主義は
その時々の多数国民の意思による支配だと言います(「第三章」)。しかし、「立憲
民主主義」という言葉が示すように、今日、民主主義は単なる多数者支配を意味しま
せん(芦部信喜『憲法』(第三版)、17頁。また、長谷部恭男『憲法と平和を問いな
おす』:読書録401も参照)。(なお、民主主義の理解が多様であり、対決することが
あることを分かりやすく示したものとして、杉田敦『デモクラシーの論じ方』ちくま
新書、2001年:読書録440))。

また、長谷川三千子は、「人権思想は自己修養に目もくれない」というようなことを
述べていますが(204-5頁)、これは誤りです。一部の人権運動家たちはそうかもし
れませんが、日本国憲法を見ても、第12条にちゃんと《この憲法が国民に保障する自
由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国
民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用す
る責任を負ふ》という規定があります。

恐らく長谷川三千子の念頭には、社会主義者、進歩的文化人批判があるのでしょう。
民主主義を、常に対立を生み出す「不和と敵対のイデオロギー」と捉えている点など
からそのことを強く感じました。

確かに、社会主義者や進歩的文化人たちは「民主主義」という言葉を「反体制」「反
権力」の運動に使っています。しかし、僕に言わせれば、彼らの言う「民主主義」は
望ましい民主主義ではありません。民主政のもとでは政府や議会は国民の代表なので
あり、敵対するものではなく、協力し合うものだからです。「キリスト教」と「キリ
スト教徒」の行動が必ずしも一致しないように(読書録342「キリスト教とキリスト
教徒とは異なる」参照)、「民主主義」と「民主主義者」の行動も一致するわけでは
ないのです。

僕は、他によりよい制度がない以上、民主主義には賛成です(読書録151参照)。問
題があるとすれば、それは修正していけばいいことだと思います。


▼終わりに

本書には他にも細かい点で、よく分からない点がたくさんありました。例えば、長谷
川三千子は、ロックはインチキ(190頁以下)と述べているのですが、その理由がよ
く分かりませんでした。

また、《ふつうわれわれの日常生活において「権利」と「義務」とは背中合わせに
なっていて、何か或る義務をはたしたならば、その結果として権利が生ずる、という
かたちになっている》(145頁)とも述べているのですが、これも意味がよく分かり
ません。普通、権利と義務が表裏一体にあるという時、それは、「AのBに対する義務
は、同時にBのAに対する権利である」ということを意味するからです(例えば、渡辺
洋三『法とは何か 新版』(岩波新書、1998年、25頁:読書録437)。

それから、「古来の権利と自由」の回復と言う側面のあった名誉革命と、社会契約論
に基づくロックの『市民政府論』との相違を指し、《ロックが名誉革命を論じようと
したこと自体が誤りのもとであった》(189頁)と主張する点も疑問があります。な
ぜなら、戦後のロック研究によれば、『市民政府論』が実質的に執筆されたのは1960
年の出版より10年以上前であることが明らかだからです(藤原保信『自由主義の再検
討』岩波新書、1993年、51頁)。したがって、『市民政府論』が名誉革命擁護のため
に書かれたという事実はそもそもないと考えるべきでしょう。

あと、ロックのことを「ペテン師」「インチキ」「ごまかし」と口汚く罵っておいて
(180頁)、相手を軽蔑するような態度は知的謙虚さがなく理性的でない(219頁)な
どと言っているのは矛盾だと感じるのは僕だけでしょうか。

民主主義の残虐な帰結を指摘する第一章や、日本の人権運動家が北朝鮮拉致被害者の
ためには何もしてこなかった点を突いている箇所など、共感する部分はありました
が、全体的には納得できない内容でした。

2004.09.18.


●関連読書録

【政治>政治学.政治思想】
 http://www6.plala.or.jp/Djehuti/NDC300.htm#311
【政治>国家の形態.政治体制】
 http://www6.plala.or.jp/Djehuti/NDC300.htm#313

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